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若い頃、アメリカの歌の歌詞だったか、映画だったか、覚えていないのだが、「9時から5時まで」を意味する「nine-to-five」という言葉を初めて聞いた。9時から5時まで働いて暮らす、という意味であろうことが、すぐに感覚的に理解できたのだが、ああ、一つの人間の形なのだな、と感じたものである。今でも、そのことを無意識に思い出すことがあり、働きすぎた時などに思い浮かべてみたりする。
「9 to 5」というスタイルを作ったのは、奴隷制度からの開放と何らかのつながりがあるのかどうなのか?どちらにしても、雇う側と雇われる側の微妙な関係を時給というスタイルに埋め込んでいく、というようなもので、その言葉から「工場で働く」というイメージを最初に抱いてしまうのだ。今、日本でも最低賃金の話題が日常的に学生の間でも会話されている。はじめに時給ありきが常識のような世の中になってしまったのも、元を正せば「9 to 5」から始まっているような気がしてならない。
僕たちのような自営労働者は、時給という観念の外にいる。いや、それは違うだろう、時給を計算できるような労働体系に変えなさい、というのが多くの人の考えかもしれないし、それが常識だと思って疑わない人が圧倒的の多いのだろう。でも、僕たち夫婦は誰にも雇われていない。雇われてはいないが、圧倒的な労働時間の中にいる。しかも、年間の休みは、5日取れたらラッキー、というのが20年ほども続いている。
その前の10年はどうだったのかと言うと、結婚したばかりの頃は、12月に必ず1週間の湯治旅行をしていた。長女が10歳くらいまでは毎年恒例の湯治旅行が、一つの楽しみだった。そこからあとは、子供にとにかくお金がかかるし、おおっぴらに学校を休ませるにも抵抗が出て来たので、一度も行っていない。長男がサッカーを始めてからは、もうほとんど外食にも行かなくなったし、日帰りの温泉すら数えるほどしか行っていないくらいだ。
先週、こんな「常識とは?」みたいなことを書き始めたら、古い毎日新聞の記事が目に止まった。漫画家のヤマザキマリさんへのインタビュー記事で、「負の遺産 言語化…」というタイトルだけで、どんな人かも調べないでただただ読んだ。コロナ禍での過ごし方がメインテーーマだったようだが、僕は「本音を言語化するのが健全だ」と解釈した。記事では「私は感情を表に出さなければ社会的に受け入れてもらえないイタリアという国で成長しました。家族同士でも、学校のような社会でも、ディベートや批判ができなければ生きていけません。ですが、日本では何でも言語化する冗舌な人は嫌われがちですし…」とある。僕は愕然とした。
感じたことを言語化するのが当たり前の世の中が、世界には少なからずあるんだと。僕のような奇異な人間が、こんな「週刊てーて」のようなもので30年もちまちまと吐き出してきたことも、世界からすれば当たり前のことなのかな?あんな、紙を見て会見する総理大臣のいる国では、説明してくれそうだからと「河野」人気でメディアが盛り上がるくらいで、何も議論は進んでいない。時給を論じるなら労働を知れ、と思う。
2021年9月23日