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冬季オリンピックも佳境である。北京オリンピックはなんとも奇妙な大会になった印象だ。オミクロン株全盛時の開催であるから、中国が国の威信をかけてバブルなる空間を保持し、政治的な意図、つまり国の宣伝に利用しているのは周知の事実だ。そこへウクライナで政情不安を煽るようなロシア情勢、そしてさらにロシアオリンピック委員会なる参加、さらにドーピング疑惑と、見事に人心を歪めるような事態が続く。政治と切り離すというオリンピックの意義は、もはや地に堕ちているのかな。
僕の子供の頃、スポーツをプレイするということは野球とかソフトボールくらいで、中学や高校の部活か、体育の授業がすべてだった。日本のプロ野球や相撲はよく見ていたが、中学の終わりくらいからワールドカップサッカーをテレビで見るようになり、日本とは別の世界があることを知ったくらいである。その当時、スポーツとは?なんて考えることもしなかった。
僕が親になっても、長女も次女も吹奏楽部だった。三女が街の少年卓球団に入って、そのまま中学の部活をやったが、なんちゃって卓球の範囲を超えたとは言い難い。四女も卓球部の部長をしたけれど、やはり五十歩百歩だった。一番下の長男がサッカーを始めて、小学校二年生くらいからプロになりたい、と言い出したので、そこで初めてスポーツの世界を垣間見るようになったのだった。
長男とは関係なく、僕が漠然と思っているのは、人間が生まれながらにして持っているであろう闘争心の行き場所の一つが、スポーツではないか?ということである。簡単に言えば、歴史上繰り返されてきた戦争というものの代わりとなるのがスポーツでは?ということ。実際にヨーロッパでのサッカー中継を見ていると、指揮官なる監督のやり方でチームが統制され、違うやり方のチームとの駆け引きや肉弾戦は、これぞ戦いだ、という印象を持つ時がある。パス主体のゲームをするバルセロナでさえ、ボールを奪われた瞬間にボールを奪い返しに猛然とダッシュする様は、闘争心そのものだ。
オリンピックのように、サッカーではワールドカップが特別なものである。国と国の激突であるし、サッカー後進国の日本が勝ったら奇跡、のような状況は今でもそんなに変わらないから、自分が横柄な気持ちになることもない。それでも、僕が思うには、通常の選手が所属するチームでの戦いが面白いし、それがあってはじめて四年に一度のワールドカップを味わえるような気もする。オリンピックだけが重要だ、と思っているスポーツ選手も少なくないかもしれないが、常に日常の鍛錬と実践が重要なことは間違いない。
スポーツに関係のない政治家が口出しをする、そんな世界はいらないよ。ドーピングだって、科学が判定するだけなら、後腐れがない。選手だって、間違えて薬を飲んじゃった、というならその間違いに対して償えばいいのでは?と思う。高校野球の選抜方法もしかりである。曖昧な定義は、いつだって問題を起こす温床になる。サッカーだって、暴力を振るえば即退場になるし、数試合の出場停止にもなる。ルールが肝心だ。
2022年2月18日