★ 「週刊てーて」+αをブログでどうぞ。 ☆ ひらく農園の野菜を入手できるお店
少し壮大過ぎるテーマで、1時間に書くことのできるようなことか?しかしてこのテーマを考えることは日常になっているので、段取りなど考えないで書き進めてみることにする。
20代に、僕は音楽の基礎練習と創造の毎日を送っていた。行き詰まった時に、音楽って何?という問いが生まれ、音楽が少なくとも人間による人間のための創造物だと考え、それでは人間って何?と行き着いたのだと思う。そして、人間は食べなければ生きていけない、という単純な発想から帰農という道を選んだのだった。その当時の東京でも、すでに玄米やオーガニック食材を食していたので、自然な成り行きで帰農=オーガニックという路線だった。この頃ほどオーガニック食材が認知されていなかった時代だったし、情報も限られていたのでほとんどすべてが独学に近いものだった。農的な文献を図書館であさり、オーガニック仲間を見つけて意見交換し、田畑を見学するという感じだった。
何と言っても、農業を学ぶ、ということこそが人間って何?の入り口のようなものだった。だから、野菜の多品目に飽き足らず、田んぼで稲作もやったし、遠く80qも離れた山までお茶の栽培もやった。育てたお米やお茶は、本当に美味しいものだったが、子供を育てる経済に野菜の需要が相まって、それらは辞めてしまった。それでもその経験は、考えることにおいて大きな安堵の一つとなっている。何よりも、農への憧れというものは、それらの数年の作業の中で完全に無くなったと言っていい。
憧れと言えば、山での暮らし、というものには一つの憧憬のような念があるにはある。この辺りは海の近くであるからね。ただ、僕のおふくろが山育ちで、子供の頃は毎年2〜3回は山のお袋の実家に泊まりに行っていた。電車もなくバスもない、家の前までは車でもいけないような山の中の小さな集落だった。山へ行けば、従兄弟たちと川まで遊びに行く。夏は、人一人通れるだけの獣道のようなものを下って、川の淵へ泳ぎに行くのだ。今考えれば不便な場所だが、何キロも山道を歩くことも必然だった。
山の暮らしをしている母方の祖母が仕込んだ味噌汁が大好きだったし、祖父は熊を捕まえた話を熊の毛皮を指さしながらしてくれた。余談ながら、その祖父たちがお酒の飲み方も教えてくれたのだった。そのような山の暮らしを少しだけ知っていたので、憧れというほどのものは持ち合わせていない。味噌の仕込みだって、僕たちですらもう25年もやっているのである。山の暮らしに畏敬の念を込めて、憧憬というようなものは感じているのだけどね。
人間のみならず生き物は皆、食べなければ生きていけない。それを長い年月に膨大な世代を積み重ねてきた。そのことは、農業や山の暮らしから想像することはできると思う。一方で、デジタルというものが職業を生み出し、ここ20年ほどで世界に普及した。でも、そこからどこへ向かうのか、想像することはできない。歴史があまりに浅すぎるからなのか?その新しき見えない世界は、ウクライナを先例として、戦争のない世界を、あるいは国境のない世界を構築することができるのだろうか?デジタルが怨念を消す?
2022年5月13日