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昨日も雷とともに60ミリの雨が降った。一時間に35ミリも降ることが珍しくなくなってしまったとは言え、かなり酷い降り方である。先週の雨を受けて、屋根に上り、樋に溜まった土化した落ち葉の取り除き、瓦のずれたものを修正してあった。見事に雨漏りはしなくなった。樋の定期的な掃除を怠ったつけである。家というものは、修繕をして愛着が増すものかもしれない。この古い家が嫌いな長男も、いつかその良い部分を発見する時が来るだろうか?
新しい家がもてはやされ、家を建てることが経済を回す一つのシステムであるような日本であるけれど、ドイツなど欧米のように長く住んでなお経済が回るシステムも必要かな?洪水被害に遭えばもちろん建て直さなければいけないだろうけれど、その前に洪水被害に人災の割合が多いならば、そこを減らす工夫も必要だろう。東日本大震災の被害にあった方々の映像を見ても、その土地というものへの愛着というものは一方ならぬものがあるのである。
さて、旧統一教会と政治家絡みの報道が連日されている。宗教団体の話になると、大抵は泥仕合になるか悪口になるので、したくない。でも、宗教心という人が持つ自然な感情は、人間の持つ良い意味での大きなスペースの可能性を秘めている。だからこそそこに付け入る団体が、寄付しないと不幸になるという脅し文句で反社会的団体に成り下がるのだろう。ローマ法王が、カナダでの先住民虐待あるいは虐殺を謝罪したが、大きな団体ほど枝分かれが多く、末端にまでは目が届かないようだ。教育という名目は、たちの悪い言い回しだ。と、やはり悪口というか批判的な言い方になってしまう、ね。
人が一生を生きていく、それは大変なことだ、と歳を重ねるほどに思う。嫌なニュースにいちいち本気で腹を立てているから嫌な気分になるので、もうiPhoneなんて見るのをやめることだ、と毎日思う。そう言いながら、iPhone14が出るというニュースを見ると、お、もう2年経つから買い替えプログラムを利用したほうが得だ、と売る側の利益システムに組み込まれた自分を発見するのである。
楽しく生きられたならそれでいい、とも思う。自分が自分のことだけを考えて生きていくならば、それもいいかもしれない。しかし、家族というものがあるし、その土地の風土というものもある。少なくとも、この田舎町では、家族と風土というものが僕にとって一体的である。その上に、現代というiPhoneに象徴されたような先進性との同居や、お金のかかる教育システムというものの中に社会が存在しているわけである。何もかもが簡単ではないのだ。
考えてみれば、大昔からその時代時代において、新しいシステムや支配者の下で人は生きてきた。だからこそ宗教心に立ち返る必要があったのかもしれない。自分は本来こうではなかったのに、というような自己からの離脱感覚が、宗教心の元になっているのかもしれない。向かうべきところは、自分自身だ。自分以外の人が見たこの世界と、自分が見たこの世界とは違うものである。個人には個人の歴史というものがあり、その中の目でしか世界を見渡すことはできないはずなのだから。救われるのは常に自分自身なのだ。
2022年9月9日