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権力を持った人が聞く耳を持たないのは、昔も今も変わらない。なぜ?地や水辺を這わないからである。いや、過去に這うような生活をしていたとしても、そこから決別してしまったからだろう。日本の昔の武将の中には、馬に乗り先頭に立って戦った人もいたのだろうけれど、現代の権力者は自分の身が危険にならない限りは画面や壇上にしか出てこないことが多い。自分の身に危険が迫ればとっとと逃げるだろうけれど。また話が脱線した。つまり、人にとって常に大事なことは現場そのものである。権力者が現場に行くのは視察だけだろう。
中国では、共産党の党大会が直前に迫ると、自由な意見を発信するものを統制するらしい。身分証明書を提示して旅券を発行すると、ただちに当局が把握する、という徹底ぶりである。自由な意見が怖くて仕方がない、ということだろう。なんだ、ロシアと少しも変わらないじゃないか!自由な意見を言えない環境を作るのが、権力者の一番の仕事、というわけだ。表向きは嘘で塗り固められた大義名分を持ち出さないと、意見も言うことができないのだ。
なんとも自由ではないね。もっとも、この国でも、どうも政治家は議論をとことん行うことを不得意としているようだ。政治家は議会で議論するのが仕事、ではなかったか?何日でも何時間でもとことん議論する、庶民が辟易するくらいに議論を続けてほしいものだ。そうなれば庶民の側も、わかったわかった、議論はそのくらいにして現場で政治家が身体を動かして働いてみてよ、とすり寄ってみたくなるかもしれない。
こう書いてみると、戦争をなくす方法は簡単なものだった、ということに気付く。好きなように意見を言い合って、意見を聞く習慣をつける、ということだ。きっと民主主義を考え出した人は、そのような夢想を描いたのだろう。ところが、実際は、権力者が民主主義や共産主義というような考え方を、自分たちの都合のよいように受け入れてきたのだろう。そして、人々を説得する演説とやらに大義名分をかざして白眉をつけた、というわけだろう。
自分たち庶民の自由主義的な考え方にも、反省すべき点はある。権力者たちの、多数決というなんとも誰でも頷いてしまいそうな論理をそのまま受け入れたばかりか、それらを経済にも取り入れてしまったのだ。本当によいものというものが少量生産であるという事実を、ちょっと良さそうなものを大量に供給するのが勝利である、という社会にすり替えてしまったのだ。
僕たちの十五歳の頃、ベストテンなる歌番組がヒットし、アメリカやイギリスの曲やアルバムのチャートの情報も溢れていた。売れるものは素晴らしい、という考え方が世の中に浸透した頃のような気もする。もちろんそれ以前にもあったはずだが、世の中全体がそのような傾向になっていった頃のような気がするのだ。僕が二十歳を過ぎた頃には、売れているものの中に聴きたい音楽がどんどんなく少なくなっていったことに気づき始めていた。
世界的な潮流が政党政治なのだろうけれど、それは庶民を束ねることに好都合である、という側面を持つと思う。今、世界中の多くの人が、人が人を殺してよいわけがない、と憤っている。人々の意見を形にする新しい手法が待望されている。
2022年10月14日