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「清濁併せ呑む、とはどういうことか? その2」
人というものは、一生を通して物事を考える生き物だと思う。その一生が、短いか長いかでも考えたことは違ってくる。誰しもが理想というものを一度は考えるのかもしれないが、ある程度の年数を生きると、理想は理想であること、清い水もあるが濁った水もある、ということなど身をもって知るようになるのだろう。そのうちに理想という言葉すら使わなくなったり。
人間世界の歴史で、残っているものや伝承は、人の考えることの大事な資料ともなる。その資料が間違っていることも少なくない。現在の政治でもよくあることだけれど、権力の近くにいるならば改ざんや隠蔽などがなされる。それが悪いことだとわかっていても、お金に目がくらむ輩は掃いて捨てるほどいるし、歴史上もそうだったのだろう。悪いことだとわかっていながら居直り、今度はそれを正当化するために法律を作ったり。
日本の人は特に祟りを恐れたらしいから、菅原道真のように左遷しておいて各地に天神さんをたくさん作って祟りを少なくしようとしたり。つまり、人は、生まれながらにして善良な心を持っているということにならないかな?悪いことだと知っているから包み隠すのだろうし、逆に、だからこそ悪いことをせずに生きてみようと努力するのかもしれない。
合法的に生きる、それはとても重要なことだ。しかし、合法であればいい、というものでもない、という場面もいろいろと出てくる。例えば、身近なところでは、うちの野菜である。農薬を使うことも合法であるし、農薬を使わないことも合法である。そこには、意思が大きく左右する。世の中の9割以上の野菜は農薬や化学肥料を使っていると思うけれど、ほとんどの農家は農薬の怖さを知っているはずで、マスクをして農薬をかけている姿を配達途中の車でたまに見かける。背景にあるものは、見た目重視、市場重視の世の中である。だからと言って、農薬を使っている人を悪く言う人は少ない。農薬を使わないことのほうがよほど、帰農当時は罵倒されたものだが…。農薬を使っても使わなくても、世の中は渾然一体だ。
これは野菜と農薬の例であるが、そのようなことはあらゆる場面で出てくる。宗教でもそうだし、主義主張は際限なく多様だ。それらを認め合いながら、しかし、真実は捻じ曲げてはいけない。科学のよいところは、間違いを認める性質があることだ。科学的に信じられてきたことも、あとから検証したら間違いであった、教科書が間違いだった、そういうことがどんどん出てくる。歴史上のこともこれから未来にどんどん間違いが指摘されるだろう。大事なのは、自分が間違っているかもしれない、と顧みることなのだろう。その気持があれば、ミスを犯すことを恥じる機会が減るかもしれない。ミスを恐れる社会は息苦しい。
あらゆるものが混濁したように見えるこの社会を、子どもたちはやはりこれまでの歴史と変わらなく前を向いて生きるだろう。年老いたものも、自分の人生を最後まで生きるのがいい。年老いたものは、その長い間に考えてきたことの真実を伝えることができる。清濁併せ呑む、ということは、真実を伝えて自分の人生を生きることなのかな?どんなに濁り水を飲んでも、人の視線は気になるのが人間社会というものなのかな?
2023年4月7日