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「僕は僕のことをするよ」
長女が27歳になった。こう書くと、下の4人の子どもたちは「なぜ長女?」と思うかもしれない。僕にとっても、連れ合いにとっても、長女が生まれたことが同時に親になった瞬間である。別の人生が始まったようなものだったし、自分の親がどのようなことをイメージしたのかを、はっきりと意識した瞬間だった。子供たち5人の人格はそれぞれに違うものであるし、姉妹弟という関係性はそれぞれの中に一生続くのであるけれど、それぞれの個とは別に、5人ひとまとめに考えると、最初に長女が生まれた瞬間が始まりであることは間違いないだろう。
60歳を過ぎてから、べらんめえにはもう生きられないな、と実感している。それは「まあるくなる」というような種類のことではなく、自分で納得したことを丁寧にエネルギーを込めて日々生きていく、というような種類のことである。いまだに子育て中だし、子供に育てられることは一生続くのだろう。それでも5人が家に朝晩の食事をともにしていた頃は、やはりべらんめえに子供を育ててしまったかな、と反省もしている。
何度か書いたことだが、あらためて書く。長女が10歳になったばかりの頃、長男が生まれている。0歳から10歳の子供が5人になった、確かその年が皆で行った最後の湯治旅行だった。そのあと長女が12歳になった時に、物置をリフォームして子供部屋が誕生し、長女、次女、三女がその部屋に移った。それまでは七人で二間続きの部屋や廊下に勉強机を置き、寝ていたのである。そして長女が中学生になり、吹奏楽部に入った頃から、親は傍観者のような佇まいになった気がする。そして、中学二年生の終わり頃に、東日本大震災が起きた。
4月になって、長女に高校進学のことを尋ね、一緒にインターネット越しの画面で高校をいろいろ閲覧したことは、何度も書いた。ホルンで行く、という青天の霹靂のような準備もなにもないことを決めた瞬間から、僕は子供を育てることを数年間は主題にする、と決めたのだ。つまり、五人まとめての考え方というか衣食住中心の生活から、一人ひとりに僕が時間を割く、という形に変わったのである。それからちょうど12年が過ぎた。
もちろん、家を離れて大学で上京してしまえば、そこで僕の出番はほとんどなくなる。それはそれでいい。長女はしかし、ドイツ留学を決意したし、次女もまた難病を患ったり、自分の絵の個展を北海道でやった。それらにはサポートが必要だった。三女は、中卒でのケーキ工場就職のあと、自分で上京して仕事を見つけてしまったが、大変なことがあればずっと関わるものなのだ。四女は、上京してから自分で好きな仕事を選んで羽根を伸ばしているが、やることが決まっていなかったおかげで、高校時代にいろいろなことを吸収してしっかりとした娘になってきた。長男は寮生活でサッカーに打ち込んでいるけれど、怪我しないためのカラダのケアなど、毎晩のように一言二言の返事はLINEで返ってくる。
27歳という年齢は、もう親の出番はほとんどない年齢だ。ドイツ留学をしていたから、去年まではいろいろと雑用の必要があった。長女が自分で選んだ12年間を、少しでもサポートできたことはよかった。今は、僕は僕のことをするよ。
2023年5月5日