★ 「週刊てーて」+αをブログでどうぞ。 ☆ ひらく農園の野菜を入手できるお店
自分の創作エネルギーはどこから来るのかを、先週は探ってみたけれど、正確な答えを文字にするのは難しい、と感じた。自分自身のことを書くのが難しい、というべきか?これを読んでくださっている方が、自分のことを書く、としたらどう書くのだろう?自分の今までの来し方を振り返って、それを現在の自分に繋げるということが、どれほどに自分を否定し肯定することになるのだろうか?しかし、多くの方は、懸命に生きてきた自分を知っているだろうし、ダメな自分を嫌というほど見てきたであろうと想像すると、僕もいくらかは楽な気分になる。
農作業や出荷は、一年中絶え間なく続く。少なくとも34年間はそうだったし、これからもそれは変わらない。その土台の上に音楽があることも、変わらないと思う。YouTubeなどの媒体に曲をアップすることを続けたとしても、一年に2〜4曲程度のことになるだろう。その間に何をしているのか?というところはYouTube上では見えない。その間の苦悩と言ってもいいような日々をやり過ごすために、先週書いたような小さな満足の繰り返しが必要になる。
例えば、2週間前にアップした表題の曲のその後の日々のことである。曲を作る時は、未知への世界へと進むわけだから、ワクワク感に包まれている。そして、ふっと詩や曲のイメージの一部がやってくる。そこからが苦悩の日々になる。それをどのように発展させていくのか?どこにフォーカスしていくのか?メロディだってリズムだって歌詞だって、あるいはフレーズであっても、それらは降りてくる、というのが正直なところ。それを具体化しようとするわけだが、降りてきたことに対して忠実なことなのかどうなのか?本当にこれでいいの?というような自問自答をずっと続けているのだ。ある意味では、自問自答こそが創作エネルギーそのものかもしれない。右往左往、軌道修正を繰り返しながらも、よいフレーズと思えるような自分のギターなどを聴くと、ワオー、となってエネルギーが増幅される、というか前向き以外何者でもないような精神状況が現れるのだ。それは野菜の仕事にもある。収穫や種播き、植え付けなどに追われて一杯一杯の時に、定期のお客さんなどからの感想で俄然前向きな気分になる。
例えば、カリフラワーをセットに入れて宅配した時、はじめてカリフラワーが到着した方は「買ったことがない」という答えが返ってくるので、食べ方を伝えて、次の機会などにまた宅配した時、その家の小学生の娘さんが「カリフラワーがある」と喜んでくれた時などである。僕たちが育てただけのことで、味は僕たちが作り出したわけでもないのだが、美味しいと感じてくれたこと、僕たちの育て方が伝わったことに大きなエネルギーを頂くのだ。
話を元に戻す。即興演奏をして、クリシェでなく自分自身に対峙してギターを弾こうとした時に生まれるものは、自分が作り出したものではない、と理解している。そこにこそ、何らかのものとの一体感のようなものを感じるのだ。ここでいうクリシェとは、定番の曲芸のようなもので、僕は曲芸師になって喝采を浴びたいとは思わない。一方、野菜の本来の味が引き出された時に伝わるものは、大地との一体感が生み出したものではないか?僕たちはその地域の土と同じものである(身土不二)。本来の姿を探しているのだ。
2024年3月29日