★ 「週刊てーて」+αをブログでどうぞ。 ☆ ひらく農園の野菜を入手できるお店
連れ合いは、今年も洋裁の時間を少しずつ確保して、何着か作り上げた。ほぼ自分で着る割烹着とかズボンだけど、バックや携帯電話入れなども作っていた。30年使ってきた掛け布団の布を替えたし、座布団カバーも少しずつ作っていたが、僕の着るシャツやツナギのほころびも何度も修繕してくれた。年末には、1月早々に引っ越しをする長男の枕カバーを頼まれていた。好きなことはやり続けることが吉である。
僕の音楽は遅々とした歩みである。3月上旬に、他界した僕の伯父さん、叔父さんたちに捧げた演奏「どこから来たかを永遠に」をYouTubeにアップしたが、その原曲は更に数ヶ月前の夏頃から書き始めた歌詞に端を発している。曲を作って1曲演奏をするために、半年以上をかけていることになる。
そのあとの4月下旬におふくろが他界して、次はおふくろに捧げる曲になると考えた。しかし、6月初旬に降りてきたメロディーとリズムには、おふくろをイメージするものではなく、生きているという実感を音楽とともに表現するような歌詞が付いた。そこからが長い。どのように表現していくのかを、右に行ったり左に行ったり、可能性を試すために時間をかけてきたようなものだ。今もその途中である。ほぼ毎日ギターを演奏しては録音し、車の中で聴いてまた考える、という日々を重ねているのだ。
歳を重ねたら、夜にギターを弾くことがだんだん困難になってきた。特に、寒くなり始めたなら、納屋へ行って石油ストーブをつけて、ということが億劫になる。だから、このところはずっと朝にギターを弾いている。ギターの基礎も少し見直す部分を加えて、基礎練習をしてから新しい曲をああだこうだと弾いている。最後にiPhoneの録音ボタンを押す頃には、連れ合いが近くでコーヒーを淹れてくれる。録音したものには、ストーブで湯が湧く音や、コーヒーがサーバーの中に落ちていく音が入っていることが多い。たまには食器同士が触れる音が入っていることもあって、それはそれで風情があるものだ。
ギター自体も、クラシカルギター、アコースティックギター、フルアコースティックのエレキギターの3つを交代で使っている。そのどれを使うかでも曲のアレンジは変わってくるのである。ギターオンリーの演奏にするか、バンド風をパソコンで多重録音したものにするか、それすらもまだまだ流動的で決まっていない。しかし、毎日の遅々とした歩みは、必ず身に付いてくるので、進歩はしているつもりでいる。3月にアップした曲を久しぶりに聴いてみたが、こんな下手な演奏だったのかと思えるのだから、進歩している証でもある。その時々の満足はすぐに過去のものになるので、それはそれでいい。
要は、自分が納得するかである。それは、人を納得させるためのものではない。野菜でもそうなのだが、常に自分一人では何もできないので、どこからかの手助けや、現霊問わずそんな仕組みを利用しながら、それが自分の納得いくものになればいいわけだ。自分の肉体を使った農作業でもギター演奏でも、自分の心の反映なのだから。
2024年12月30日