








★ 「週刊てーて」+αをブログでどうぞ。 ☆ ひらく農園の野菜を入手できるお店
先週は、人が嘘に嘘を重ねて生き延びていく様と、生き物が自らを何かに見せかけたり植物が毒素成分で他を寄せ付けないやり方などの様が、似て非なるもの、という飛躍を書いた。植物や動物達は、長い年月の中で生き延びる術を体得してきたのだろう、ということは想像できる。人も、人の裏をかいて行動することは多くの人が日常で行っていることかもしれない。例えば、渋滞を避けて抜け道を行く、なんて誰もが考えることであろう。
人の裏をかく、ということはゲームやドラマなどでは常套手段である。サッカーなどのスポーツもそうだ。サッカーは、ボールとゴールという道具は使うが、植物である芝生の上でボールを追いかけるという単純なゲームだ。目的はゴールにボールを入れることであるが、ボールに触った瞬間に相手の裏を取る動作をしてボールを運ぶのだ。そのボールの奪いあいに迫力があり、パスを繋ぐことを繰り返すことで身体的知能的爽快感を覚えるゲームでもある。
では、鳥や動物たちは、そのようなゲームをするのだろうか?実際に目撃できるのは、縄張り争いのような突付き合いだ。うちの上空の松の木では、カラスと鳶がよくやっている。前にも書いたが、へびとカラスの戦いなどもたまに見かけるが、それは餌になるかどうかの戦いであろう。人間の縄張り争いは、相当な歴史があるだろう。今でもその愚の骨頂は行われているが、人間が動物のままである証かもしれない。文化的な人は戦争などしないのである。戦争をする代わりに、サッカーなどのスポーツで、人の本来持っているであろう闘争本能を未来に維持していくのは文化遺産になりうる。
生命の中の日常、というテーマの元に立ち返ると、生きているのはどういうことか?という問いだ。中村桂子さんは、それをゲノムの中で考え日常とつなげていく、という。それをあらゆる分野の人たちが様々な分野でやろうとしてくれたなら、この人間だけが加害者のような殺伐とした世界を変えていくエネルギーになるのではないか?
僕達のような農民は、大した専門的な技術を持っているわけではない。鍬を使うとか、鎌を使う、あるいはトラクターを使うというような、道具を使うことも大したことではない。ああ、でも、帰農する前には、鍬や鎌を使うことのできる人間になりたい、とは思ったものだ。35年ほど実際にそれらの道具を使っているが、道具使いの名人になろうなんて思ったことはない。それで作業ができればよいだけだ。あとは、野菜の種を播いて、苗を育て、野菜とともに日々を過ごして、収穫物を人様のところに運んできただけである。
それでも紛れもなく僕達は生命の中に身を置いている。虫だって手で捻り潰すこともしょっちゅうだし、草だって抜いたり刈ったり耕してすき込んだりもする。それでも一緒にいることは事実だ。そして、収穫した野菜を食した時に、自分のカラダが美味しいと感じて喜ぶことを毎日感じている。それら一連の流れの中に、生命の中の日常があるのだ。車にも乗るし、サッカーも見る。ギターも弾くし、パソコンや機器を使って録音もする。それらは、ほぼほぼ全てが、生きているのはどういうことか?を考えることなのだ。
2025年4月14日