








★ 「週刊てーて」+αをブログでどうぞ。 ☆ ひらく農園の野菜を入手できるお店

人が食べるものは、すべて生き物である。生きていたものが死んで食材になる、ということか。人間以外の生命が食べるものも同じだろう。例えば、ミミズが土を食べたとして、それは土を食べることで多くの微生物や極小生物を取り込むということだろう。そしてそのミミズの糞は土の構造を良くしてくれる。糞が微生物たちの餌になることで、土が活性化されるというべきか。生き物の餌の連鎖は、自然界そのものだ。その生命の食材が生きていた時期のあれこれ、それこそが僕たちが毎日注視していることだが、本来は死んでも餌になり、微生物として永遠に生死を繰り返すだけなのかもしれない。
単純かもしれない話、オシベとメシベ。この頃は、毎朝ズッキーニやカボチャの交配作業をする。単純なオシベの花粉をメシベにこすりつけての受粉、これが生き物の一つの形だ。そこに人間も含まれることは言うまでもない。その形態が、種によって違う、ということも興味深いが、こと人間世界においては男女平等、人権、が一人歩きしている感がある。ズッキーニやカボチャのオシベとメシベを、どちらが上とか下とか、そんなことはあり得ない。役割が元々違うだけなのだ。その時代時代の為政者たちが、なにかに理由をつけて階級のようなものを作ったり、男尊女卑とか理由のわからないでっち上げをさもありがたそうに文字にしたのだろうね。また、話がそれた。
うちの畑では、不耕起栽培も行うが、普通に耕した昔ながらのやり方を八割くらいの割合で行っている。耕してばかりいたなら、土は疲弊してしまうと思う。特に、夏は草が繁茂して野菜を駆逐してしまうくらいになるので、耕して堆肥を土の表面に載せ、生分解マルチフィルムを張っておく。そこへ野菜の苗を植えるわけだ。
先日も枝豆や西瓜などの苗を植えたのだが、生分解マルチを破いて土をスコップで救うと、ミミズがいっぱい出てくる。これを耕してばかりいたならそうはならないだろう。耕して堆肥を施す、それだけで微生物は生き返るどころか、多様な相を創出してくれるのだ。ミミズも増える。そこへ野菜を植えたなら、生命の相はさらに豊かになり、虫たちもやってきて循環は想像もできないほど豊かになるのだろう。
つまり、不耕起栽培でなくても良い状態は保たれるのである。ただ、土の中の水の流れ、根っこの環境は、不耕起栽培ではより良くなる。その結果、湿害に強くなるなどの利点は生まれる。夏の不耕起栽培では、地這いキュウリでその成果は発揮されやすいと思っている。こうでなくてはいけない、という考えは、為政者たちと変わらないことになるような気がするのだ。下手な考え休みに似たり、と親父が口癖のように言っていたことを思い出す。
簡単に言えば、誰もが自分なりのやり方で、工夫することを、様々な観察の中で見つけようよ、ということだ。草や虫たちもそのように観察の中で進化してきたのだろう。オシベとメシベが存在するというような、事実を積み重ねて理解してみることだ。そして、僕達は、自然界から学び続けることでしか、生き残れないのだろう。
2025年5月22日