業務日誌(2003年9月その2)

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9月18日 債権者の平等

 債務整理を依頼しに来る方で、一番頭から抜け落ちているのは「債権者の平等」という観点です。

 ま、迫り来る取り立てから何とか逃れたい一心で相談に来るわけですから、気持ちはわからないではありません。しかし、堂々と「サラ金は何とか自分で返していきますからうるさいヤミ金だけ話をつけて先に返してくれないか」とか「保証人に迷惑をかけられないので商工ローン業者には支払ってから破産したい」とか要望されると、ついついお説教をしなければならなくなってしまいます。

 弁護士が入ることにより、債務者が一応取り立てを止めてくれる背景には「弁護士なら不公正な処理はしないだろう」という暗黙の了解があるからです。不公正な処理とは何か。一番まずいのは「債権者の平等」を害することです。

 そもそもすべての債権者を満足させられないから債務整理に着手するわけです。債権者は、自分だけでなく、ほかの債権者も平等に扱われているという前提があるからこそ、不満であっても個別の取り立てを控えるわけです。自分が指をくわえている間に、実は他の債権者は満足を得ていたということになれば、許してはもらえないでしょう。仮のその後、破産という事態になったら、免責決定が得られるかについても問題が生じてしまいます。

 だから、払えないときには原則としてすべての債権者への支払いを止めざるを得ない、ということから逆算して、何ができるかと言うことを考えざるを得ないのです。




9月16日 ロースクールの中身

 10年ほど前に小選挙区制が導入された際、小選挙区制は2大政党制につながる政治改革のための制度であるという説明がずいぶんされたような気がします。

 結果はどうだったでしょうか。10年経っても野党は離合集散を繰り返し、一応民主党と自由党の再合流はなったけれども、よくよく数で見れば、「1+1/2政党制」と言われた社会党のころと大して変わっていません。

 確かに旧来型の派閥は衰退しつつあるようですが、批判勢力が衰えているだけで、新しい批判勢力が育たない、単なる一強全弱型の体制になっているとも見えます。

 一つだけ言えるのは「制度を変えただけでは中身は必ずしも変わらない」ということです。

 我々の業界への新たなルートになるはずのロースクール(法科大学院)も、同じ轍を踏みそうな危うい部分があります。

 6月28日の日誌で危惧した学費の点は、文科省が頑張って援助をすることで、私立のべらぼうな学費は避けられそうな雰囲気になってきて喜ばしい限りですが、もう一点。

 そもそもロースクールは、現行司法試験の40倍という気の遠くなるような倍率を回避し、ロースクール卒業者は8割が司法試験に合格できる体制のためにつくられたはずではなかったか?

 ふたを開けてみれば、申請された法科大学院の総定数は6000人以上とか。新司法試験の合格者が3000人と言っても、これでは合格率8割どころではありません。

 新司法試験が、3回まで受験できるものとして考えた場合、
 初年度:(合格者数3000)÷(卒業者数6000)=合格率50%
 2年目:(合格者数3000)÷{(卒業者数6000)+(前年度出身不合格者数3000)}=合格率33%
 3年目:(合格者数3000)÷{(卒業者数6000)+(前年度出身不合格者数4000)+(前々年度出身不合格者数2000)}=合格率25%
 4年目:(合格者数3000)÷{(卒業者数6000)+(前年度出身不合格者数4500)+(前々年度出身不合格者数3000)}=合格率22%

という計算になり、すぐに合格率は2割程度になってしまいます。ロースクールへの入学倍率が5倍程度ですから、通算倍率は20倍以上で、結局そう大きくは倍率は下がりません。

 倍率だけならいいですが、今度はロースクールにせっかく入学し、2,3年高い学費を支払ったあげくに法律家になれない人が8割近くも発生する構造になっているのです。

 もちろん現行の司法試験でも大量の「司法浪人」が発生していますが、それでも彼らは就職しながら勉強することもあり得ますし、少なくともアルバイト等で自らの学費くらいは稼げる状態で頑張っているのが実情です。これがロースクールになると、カリキュラムに縛られバイトもできません。そして学費分の奨学金が出たとしても、いずれは返さなければなりません。

 何か、制度をいじくったあげくに現行よりも受験生に酷な選択を強いるような中身になっていないでしょうか??




9月12日 プチ日誌

 暑くて死にそうですね………冷夏だったので、「残暑」というより「遅れてきた酷暑」という感じです。
 そういえば、2001年9月28日の日誌で嘆いたスズカケノキの並木、またしてもこんなに暑いときに剪定が入ってます。前回の剪定の時は、結局半分近くの木が枯れてしまって若木に植え替えられているのですが、またしても同じテツを踏むつもりなのでしょうか??





9月11日 被害者と被害者意識

 犯罪の被害者に共感し、彼らのために何ができるのか考えること。それが大切なことは言うまでもありません。

 しかし、今の世の中は、単に「被害者意識」を共有しているだけなのではないかという疑問を感じます。「被害者意識」を被害者以外が共有したとしても、それは問題の解決にはつながらず、単に加害者に対する憎悪をお互いに増幅し合って、袋小路へさまよいこむだけなのではないかと思えるのです。

 例えば、池田小事件の被告人に対する判決に弁護人が控訴したことに対するマスコミの反応。弁護人の役割論から言っても私が言いたいことは山ほどありますが、それ以前に、マスコミは、まるで自分たちまで被害者であるかのような「被害者意識」を振り回した観点の報道を行っている気がします。

 犯罪の加害者でもなく被害者でもない第三者の立場の者は、ある意味「被害者にも加害者にもなりうる立場」です。池田小事件の被告人は確かに不可解ですが、そうした彼を生み出してしまった社会を構成しているのも我々です。そうした自省の念がどこかに吹き飛んで、ただ単に「異物」を排除すべし、とのような論調が多いことに危惧感を覚えます。

 例えば、外務省の田中次官の自宅の爆発物事件についての石原都知事発言。さすがにマスコミもこれには批判的なようですが、石原知事が勘違いして口を滑らせてしまうような素地があったのも事実です。北朝鮮に拉致された人とその家族は明らかに被害者ですが、そのような人たちの叫びを放置し、無知で過ごしてきた我々もまた加害者の一側面を持っているわけで、外務省の役人(たしかにセンスのない外交が多いのは事実ですが)を「異物」として攻撃することで、自らの加害性に目をふさごうとするような傾向がうかがわれないでしょうか。

 同時テロ後のアメリカなんか、まさに国家的規模で「被害者意識」の固まりとなってしまったために、テロが起こった根本的な原因の一つにアメリカの一極体制によるゆがみがあることを黙殺し、周りの国から見ると、ずれてるなあと思わざるを得ない戦争を繰り返すようになってしまったのではないでしょうか。もっと言えば、北朝鮮なんか「被害者意識」で国民を何とか統合しようとしている国家でしょう。

 「被害者意識」を過度に振り回すことは、間違った正義の行使につながりかねない危険をはらんでいます。被害者の権利と、被害者意識とは峻別していくべきでしょう。