scene 3 …


 

 声を聞けるだけで、それだけで十分だと思っていた。私が亮太にしてしまったことを考えたら、それ以上のことを望めるはずもない。こうして連絡をくれただけですごく嬉しい。
 それなのに。
 亮太はわざわざ私に会いに来てくれた。その週末に飛行機に飛び乗って。
「へええ、こんなところに引っ越してたのか」
 約束の土曜日。亮太が私の部屋の前までやってきた。ドアを開けて、少しすっきりした輪郭を見つけた時、嬉しいと言う感情よりも、驚いたと言う感情の方が上回っていたと思う。
 私は彼の言葉を、信じていなかった。もちろん「会いに行くよ」と言われた時は嬉しかったけど、そんな都合のいい話があるわけないだろうと。こちらが一方的に別れたんだから。今更なんだと突き放されても当然なのに。

「―― 髪、切っちゃったんだな……」
 数時間後。私たちはセミダブルのベッドの上で、一枚しかない毛布にくるまっていた。何となく、流されるように抱き合う。そんな自分たちの姿を、もうひとりの私が始終冷めた目で見ていた。
 久しぶりに重ね合わせた肌に、新しいときめきはなかった。ただ、しっとりと馴染むぬくもりに夢中でしがみついた。亮太がどんなつもりで行為に及んだのか分からない。でも、今はこれにすがるしか、心の渇きを止める手段がなかったのだ。
「うん、先週。失恋したんだから、自分に言い聞かせようかなって」
 過去を引きずるのは嫌だった。
 男はさっさと田舎でお見合いをして、その相手と結婚することになりそうだと風の便りで聞いた。勤め先も変わるという。取引先の会社の人間が相手だと、この先やりにくいなと思っていたからホッとした。
 私と、田舎の両親を天秤にかけて、結局は肉親への情を選んだ男。未練なんてないつもりだった。でも……「選ばれなかった」という現実に、誰よりも自分が耐えられない。どうにか吹っ切ろうと美容院に駆け込んだ。そして、進学のためこっちに上京してから伸ばしたまんまだった髪をばっさりと肩のところで揃えたのだ。
「ふうん」
 久しぶりの腕枕。新しい男はこんな風に情事のあと抱きしめてくれなかった。面倒くさそうにタバコを吸って、さっさと寝てしまう。亮太は短くなってしまった私の髪を静かに梳きながら、ぼんやりと言った。
「天音の長い髪、好きだったのにな。ほら、最初の頃に言っただろ? 天音の名前、最初すごい変だなって思ったって。何て読むのかも分からなかったし、『あまね』って響きを聞いてもピンと来なかった。だけどさ、付き合うようになって分かったんだ。天音が待ち合わせの場所に走ってくる時、長い髪が揺れて。まるで天使の羽みたいだなって。ふわふわっと辺りに舞い踊って、すげー綺麗だった」
 私は何も答えなかった。ただ、亮太の胸に顔を埋めて、静かに響く心臓の音を耳の奥に受け止めていた。
 そうよ、私だって。亮太が髪を撫でてくれるの、すごく好きだった。くるんくるんのウェーヴが彼の指に絡みつく。長く伸ばすのも手入れするのも大変だったけど、亮太の優しさを受け止めるために頑張ってきた。……その、はずだった。
「天音、大人しいな。前はもっとよくしゃべったのに」
 私が彼の仕草のひとつひとつを懐かしく受け止めていると、そんな風に言われた。
「愚痴でも恨み言でも何でも聞くって言っただろ? 洗いざらいしゃべっちまえばいいのに。きっと楽になれるよ」
 顔を上げて、亮太の表情をのぞき込む。コーナーライトだけを灯した薄暗い空間。でも、亮太の顔だけはちゃんと分かる。仕事を終わらせて、急いで駆けつけてくれたんだね。私のこと、すごく心配して。
 もしも、こんな風に。こんな風にあのときに私に会いに来てくれたら、そして抱きしめてくれたら。私は迷わなかったのに。
 思い起こしてみれば、何度も何度もそんな瞬間はあった。
 ふっとしたその時に、亮太に会いたくなる。二年も付き合ったのだから、何でもしっくり来ていた。それが惰性だと思ったこともあったけど、とても心地よい関係だったと言うことに、別れてから初めて気付いた。
 でも携帯がつながらない。亮太から関係を絶たれたのだ。そう思ったから、忘れることにした。―― すべてが無駄な努力だったけど。
「俺さ、いつだったか天音の部屋に電話したんだ。別れたあとに。でも、「お掛けになった番号は現在使われてません」って、言われちゃって。ああ、もう終わったんだなって思ったんだ」
 私の視線から目をそらして、そんなことを言う。その腕はしっかりと私を抱きしめながら、ため息が落ちるようにぽつりと。
「……え」
 だって、引っ越したんだもん。あのあとすぐ。
 亮太があんまりにもあっさりと、私たちの日々を終わらせてくれたから拍子抜けして。丁度契約更新の時期だったから、思い切ってもうちょっと広い部屋に変えたのだ。少し離れたところだったから、電話番号も変わった。
「私だって、亮太の携帯にメールしたよ。直接かけたりした。でも、繋がらなかったよ?」
 あのときは、とてもショックだった。さっさと繋がりを絶たれたこと。我が儘だと思うけど、亮太には変わらないでいて欲しかった。
 私を抱きしめていた亮太の腕が、はっきりと感じ取れるくらい揺れて、そのあと、とても辛そうに「ああ」と呻いた。
「携帯、なくしちまって。どこに置き忘れたのかも分からないままで、仕方なくて新しいのに買い換えて。だから、天音の連絡先もアパートの電話だけしか分からなくなって。携帯の番号なんて、直接打ち込んでおくだろ? で……ずっとあとになって、引っ越しの時に電池切れになったのが机の裏から出てきて。充電したら、天音の番号が残ってたんだ。今更、どうよと思ったけど、今回は役に立ったな」
「そう、だったの」
 何か、上手く行かない。もしもあのとき、が私たちには多すぎる。今回だって、もしも私のパソコンに亮太のアドレスが残ってなかったら、おしまいだった。
 あと一本だけ、引っかかっていた命綱。私たちは再会することが出来た。
「今、山口の営業所にいるんだ。でもそこは3ヶ月の契約だから、次はどこになるかも分からない。だから、携帯が便利なんだけど、またなくしたりするとヤバイよな。この前だって、取引先とのやりとりで、だいぶ困ったからなぁ」
 ―― あれ、何だろう……?
 その時、不思議な感覚が私の胸をするりと撫でていった。
 ふたりでお互いに、何かを押し合っている。透明で大きな風船みたいなもの。自分でそれを抱え込むのがどうしても嫌で、相手に押しつけようとしてるみたい。
 素肌のままで抱き合って、昔通りどこも変わらないふたりに戻って。それなのに、あの頃とは確かに違うぎこちなさが、漂っている。
 もうちょっとなのに、何が足りないの? 私たち、どこが変わってしまったの……?
「……亮太」
 その言葉の続きも浮かばずに、ただ名前を呼んだ。だけど、彼が私に向かって発した言葉は、私の望んでいたものではなかった。
「また、困った時はいつでも呼んでくれよ。泣きたい時は胸くらい貸すからさ。天音が困ってる時は、飛んでくるから」

◇◇◇

 あれから、何度同じようなことを繰り返しただろう。新しい男が出来る。でもしばらくすると上手く行かなくなる。そして、亮太に連絡をする。すると彼は会いに来てくれる。
 私は当たり前のように部屋に招き入れ、その時だけの親密な週末を過ごすのだ。彼が訊ねてくるごとに、私の部屋は新しくなっていた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。気付けば日曜日の夜が来ていた。
「そろそろ、時間かな? もう行かないと間に合わないや」
 水色のマグをテーブルに置くと、彼はさっと立ち上がった。薄手のコートを手にする。いつもと変わらない、当たり前の仕草を目で追って、私は胸がぎゅっと収縮して行くのを感じていた。
「……亮太っ!」
 思わず彼に駆け寄る。身支度の邪魔になるのは承知の上で、抱きついた。
 別れる瞬間はいつも辛い。今生の別れと言うわけでもないのに。また、しばらくして私が連絡をすると、亮太は必ず会いに来てくれる。そしたらこんな風にふたりで過ごせるのだ。少しだけ、離れるだけ。だから大したことじゃないのに。
「もうちょっと、駄目? もうちょっとだけ、……一緒にいられないのかな?」
 寂しい、またひとりになっちゃう。亮太がいなくなったら、私はこの部屋にひとりきり。また、空っぽな日々が始まる。そう思うとたまらない。
「ゴメン、これが最終だから。明日は朝一で合同会議があるんだ。戻りの新幹線の中でも資料を読まなくちゃ」
 亮太は申し訳なさそうに、でもきっぱりとそう言って、私の身体を剥がした。
 とたんにぽろぽろと涙がこぼれてくる。不安だった、亮太がいなくなったら、私は私でなくなっちゃう。次に会えるその時まで、ずっと。
 行かないで、と言う想いを必死で伝えようとするのに、亮太はにっこりと微笑むと、最後の言葉を口にする。
「顔色、良くなった。いつも会いに来る時は死にそうな顔してるもんな。俺がこうしてはるばるやって来たことで、天音を立ち直らせることが出来たんだからいいだろ? また、困ったらいつでも呼んで」
 外は真冬のように風が吹き荒れている。このまま大雪が降って、新幹線が止まらないかしら? う
うん、この街から出られないほどに、天候が悪くならないかな。
 そうよ。  また、困ったらって、今じゃ駄目なの? 今、呼んだら、駄目かな。来週も来てって、そう言うのは、許されることじゃないのかな……。
「じゃあな、元気で」
 せめて見送りをと思う。新幹線のホームまで。見送れば、あと一時間は一緒にいられる。でも、亮太がそれを望んでいないことは何となく分かっていた。
 この部屋に入って、出て行くまで。
 それがふたりに与えられた唯一の時間だ。この部屋にいない時の亮太を縛り付けることは出来ない。
 でも、一緒にいたいの。私、もうこれ以上繰り返すのは嫌。亮太に会うために、そのために、新しい出会いと別れを経験しなくちゃならないの?
 もうたくさんだよ。分かっているんだよ。
 何人も相手を変えても、長続きするわけない。だって、私には亮太しかいないから。
 いつの間にか、私の中ですり替わっていた。幸せになるために、新しい恋を探すんじゃない。恋をして、それが上手く行かなくなった時にだけ、亮太が会いに来てくれるから。彼に会うために他の男と恋をするんだ。
 亮太に会うたびに思う。こんなに私にぴったりと重なり合う人は他にいない。亮太以上の男がどこかにいるんじゃないかなと探したこともあったけど、どうしても見つからなかった。
 ―― もう一度、やり直すことが出来たら。
 別れた恋人、としてじゃなくて。もう一度、ふたりの時間を長く長く共有する、そんな関係になれたらいいのに。私はそれを望んでいる。でも……亮太はそうじゃないんだよね。
 亮太は優しいから、困っている私を見ると放っておけなくて、ついつい慰めてくれる。でも、心のどこかではこんな関係をとても煩わしく思っているんじゃないかな。
 もしかしたら、亮太にはとっくに新しい恋人がいて、とても幸せなのかも知れない。私のこと、本当は疎ましく思っていて、もう終わりにしたいって思っているのかも。確かに亮太は優しいけど、それは何も私限定って訳じゃないんだから。。
 そんなこと、知ってた。大学の頃、丸々一年間、同じ研究室で一緒にいたんだから。亮太は誰にでも分け隔てなく親しくしてる、そんな人だった。だから、付き合おうかと言われた時もピンと来なかった。それまでもふたりきりで出かけたことなんて何度もあったし、そのときにもそういう予感がまったく感じられなかったんだ。
 学生時代の先輩と後輩のその延長みたいに、ふたりの関係が存在した。
 たくさんの共通の話題があって、困った時には助け合って。本当に仲間みたいだった。甘えるだけ甘えて、寄りかかるだけ寄りかかって、頼りない駄目な後輩でいて、そうすると亮太が優しくしてくれた。
 ―― もしも。
 このまま次の連絡をしなかったら、亮太はどうするだろう。そんなものかと思って、いつか私のことも忘れてしまうのかな。
 一度、試してみようと思ったこともある。でも駄目だった。亮太に会えないと思うと、自分が自分じゃなくなってくる。身体が安定しなくて、クラクラして。情緒不安定になる。
 そして、気がつくと、パソコンを立ち上げて、メールを打っているのだ。亮太が会いに来てくれる時の私は酸欠で死にそうになっている。亮太という酸素がなくなって、上手く息が出来ない。
「会いたい」と思ったらすぐに会える。裏切られることのない関係が、私の唯一の支えだった。
 この繋がりが絶たれたら、どうなるんだろう。どんな風に終わりが来るんだろう。
 そう思いつつも、私はメールを送信する。その瞬間に、腕の中に大切に抱えていた鳥を空に羽ばたかせるようなそんな気分になった。

 いつだったか。亮太は、私の背中に羽が生えているみたいだ、と話してくれた。でもそれは、彼と付き合っていた頃に、何のためらいもなかった頃にだけ存在したもの。
 あの頃と同じように髪を伸ばして、亮太も会うたびに愛おしそうに指で梳いてくれる。でももう、この羽では空を飛べない。亮太のところには行けない。
 唯一、残された手段。
 鳥を飛ばして、返事を待つ。光の速さで私の想いは、亮太の元に舞い降りるから。

◇◇◇

 その鳥が、迷子になってしまったのは、亮太を最後に見送ってから三ヶ月後のことだった。  今回も新しい恋を見つけようかと思った。でももう、とてもそんな気にはなれなかった。別れた男もしつこく言い寄ってきたけど、ヨリを戻す気にもなれなかったし。
 自分がどんなに馬鹿なことを繰り返してきたのか、とっくに気付いていた。気付いていたけど、やめられなかった。亮太に会うために、そのためには、私は傷つかなくてはならなかったのだから。
 他人の目から見たら、男が途切れなしに続く私はどう映っていたのだろう。羨ましく思われたりもしたのかな、付き合った男が結構女子社員に人気のある人だったりすると、陰湿なイジメに遭うこともあった。いい大人が、まるで小学生か中学生のように、コソコソとこちらを陥れようとする。
 そんなことをして、何になると言うの。私はあるがままを受け入れるだけ。そのほうが、かえって良かったくらい。
 私が傷つけば傷つくほど、亮太がいたわってくれる。飛べなくなったかたちばかりの羽に唇を寄せて、その傷口を癒してくれるんだ。亮太のぬくもりは、どんな薬でも治せない心の傷を綺麗に元通りにしてくれる。
 今、亮太がどんな街で、どんな人生を送っているのか。何ひとつ、知らなかった。
 私から飛び立っていった鳥は、一体どこに行ったのだろう? もしも、亮太のメールボックスに私のメールが届かなければ「宛先不明」で戻ってくるはずだ。だから、亮太のメールアドレスは存在して、きちんと届いていると考えていい。
 今までは、どんなに遅くても、その日の夜には連絡があった。私の携帯に、亮太は必ずかけてくれる。それが分かっていたから、買い換えの時も必ず機種変更の出来るものにしていた。肌身離さず、携帯を持ち歩く。でも、うんともすんとも言わない。そんな日々が何日も続いた。

◇◇◇

 街の賑わいが週末を告げる。
 このごろでは不景気のせいか週休二日の企業が大半になった。ウチの会社も土曜にいても、相手の職場が休みでは仕事にならないと、電話番がひとりいるだけだ。まあ、金曜の夜とは言っても、みんながみんな街に繰り出すわけではない。不景気はお財布にも影響するのだから。
 服の、感じが違うなあ……。
 西と東は確かに異なるんだなと、実感していた。耳慣れないイントネーション。お国言葉のない土地で育った人間としては、独特の言い回しや抑揚の付け方にはなかなか慣れることが出来ない。英語やフランス語と同じように、耳に入らない言葉。
 こんなところまで来て、どうするつもりだったんだろう。
 亮太に連絡すれば、その週末には必ず会えた。だから、今までだったら、今頃、彼は私の部屋に来てくれていたはずだ。そして、私の変化にも気付いてくれていたはず。
「何で、同じ部屋のままなの?」
 そう訊ねてくれたら、答えるつもりだった。この部屋で、ずっと亮太が来るのを待っていたんだってことを。他の男なんて、もういない。亮太しかいらない。慰めて欲しいんじゃない、ただ、亮太に会いたかった。お願いだから、突き放さないで。
 その時に、亮太がどう答えるか、最悪の状況も想定した。でもそれが分かっていても、もう嘘は付けなかった。恋に破れて、昔の恋人に愚痴を聞いて貰う。そんなライトな感覚で、恋愛なんて出来ない。
 全てを失う覚悟で、もう一度飛ぶ決意をした。自分の羽で。
 でも、羽ばたくことすら、出来なかった。亮太が、いない。亮太はもう…私のことなんて、忘れてしまったんだ。
 今、どこでどうしているんだろう。きっと運命の相手に出会って、幸せに暮らしているのかも知れない。私だけに見せてくれたあの微笑みを、彼を心から愛してくれる唯一の女性に向けているのだ。
 軽快な音楽。流れていく人の波。くどいほどに光り輝く夜の街。改札に続く長い長い通路で、私は冷たい柱にもたれ掛かっていた。
 今まで、本当の悲しみなんて知らずに過ごしていたんだと思う。
 亮太がいつでも私が沈み込む前にちゃんと手を差し伸べてくれたから。
「馬鹿だな、天音は。今度はもうちょっと、まともな男を選べよ…?」
 そう言いながら、私の心も身体も、全部全部溶かしてくれた。とろとろのバターとはちみつみたいに、ふたりの身体が溶け合っていく瞬間が、一番幸せだった。
 もう…あの時間は二度と来ない。分かっていたじゃない、私は亮太のそばには行けない。もしも、もう一度始まることがあるならば、そんな瞬間はいくつもあったのに。私も亮太もそれを選ばなかったのだから。
 おしまいなんだから、何もかも。
 分かっているのに、動き出せない。こんな風に過去にしがみついて。
 こんなにたくさんの人がいるのに。ひとりで泣いている女を見て、それでも誰も立ち止まらない。声をかけるのも躊躇するほど、ひどい顔をしているのかも知れない。
 ……馬鹿みたい、もう帰ろう。
 最終の新幹線にはまだ間に合う。そう思って、歩き出そうとした時。コートのポケットで、携帯が微かな音を立てた。

 

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