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家系図 前文


渡邊作兵衛

作兵衛世々仕加州前田侯賜三千石

十七歳受家督萬治年之頃有事為

弟養子譲家而去自加州處於越後

村上有城主松平大和守藩士好田石見

因知縁寄偶千斯素在守道義之

志城主感之雖欲我仕再三召辞不應

不仕二君之義  既而不願乎外閑

居久保田生子六人令六男称渡邊継

家紋用九三亦鉈違


(渡邊)作兵衛は代々加賀藩前田候に仕え、三千石を賜っていた。十七歳にて家督を受け継いだが、萬治年の頃に事ありて、弟養子に家を譲り自らは加賀藩を去り、知り合いであった越後の村上城主松平大和守の藩士好田石見の下に身を寄せた。
道義を守る志があり、これに感じた城主が再三我に仕えなさいと欲したが、二君に仕えずの義を以って固辞した。久保田に閑居し、六人の子をもうけ、六男に命じて渡邊と称して継がさせ、家紋として九三星亦鉈遼を用いた。

元禄三年四月奉仕

直利公以源姓好田為称号示是不忘好田石見恩義也家紋用分銅以還代々仕當家


元禄三年四月奉仕
(村松城主堀)直利公は源姓好田を以って称号となす。是は好田石見の恩義を忘れないことを示すものである。家紋として分銅を用い、以後代々当家に仕える。

受父作兵衛家代々住久保田千今

相續也系在別


父作兵衛の家は代々久保田に住み千今を受ける。相続である。

右家系之譜文政七年五月某宗胤

雖至村上久保田謁渡辺作右エ門藤田

八平治欲禀列祖之来起及家譜依両

度炎災失傳来之家央然従父祖遺語

告之八平治者作右エ門一男嗣同藩

士藤田家


右の家系図は、文政7年五月某日、宗胤は村上久保田に至り渡邊作右エ門と藤田八平治に謁し、祖先の来起と家系図教えて欲しいと欲するも、二度の火災に依り家の伝来は失われていた。父祖の遺言に従って、八平治の一男が同藩士藤田家を嗣いだ。

天保十二丑辛年 不念し儀を守永之御順