オフィス才園巣

ファミリーヒストリー(補足版) 血縁関係


1.家系と血縁関係

  渡邊作兵衛を家祖として、好田宗義(初代奥左衛門)初代とする好田家の家系についてはほぼあきらかになった。その中で、幕末の好田禧左衛門(潘渓)に子がなかったために、稲毛源右衛門氏の次男を養子とし、好田政之亟として家督を継がせたことが分かっている。従って、好田家は家計としては現在まで続いているが、血縁的には作兵衛に繋がる好田家ではなく、この稲毛家の血統を継いでいることが分かる。

 家系については「ファミリーヒストリー」に詳しく書いたので、この補足版では
血縁について記述したい。


2.稲毛家と村松藩について


 稲毛家は代々、羽後守山藩(福島県郡山市)の松平家の家臣であったが、稲毛源右厚保平大学頭頼貞公の命により、津治姫(光寿院)の村松藩嫡子・堀直暁公(第五代村松藩主)へのお輿入れの付け人として村松藩に同行し、第四代藩主・堀直為公により150石で召し抱えられた。以降、代々村松藩士。

 羽後守山藩における稲毛家については不明だが、姫君のお輿入れの付き人を命じられたと言うことからするとそれなりの地位にあったものと推察される。村松藩においても150石で召し抱えと言うことで、家格としては好田家よりもかなり上位格であったものと思われる。寛政11年の地図には好田奥左衛門邸と同時に稲毛源右衛門邸も載っているが、好田邸よりもかなり大きく、また家老邸の並びに位置していることからも上級武士であったことが分かる。



 稲毛家では当主は代々、源右衛門を名乗っていたので何代目かは分からないが、幕末(1850年頃〜1863年)に投手だった稲毛源右衛門(源右衛門重寧)は、年寄・堀右衛門三郎の側近で藩内佐幕派の実質的主導者として勤王派の正義党の七士(村松七士と呼ばれる)の捕縛、切腹にも立ち会ったとされる。佐幕派の大藩の会津藩や長岡藩との協議にも軍事方奉行として参加し、長岡藩の河井継之助とは親密であったらしい。戊辰戦争に参戦し、政府軍に敗北した。この源右衛門の次男が子のなかった好田禧左衛門(潘渓)の養子として好田家を継いだ好田政之亟(宗紹)である。従って、血縁的には稲田源右衛門こそが現在の好田家の祖先と言える。戊辰戦争敗北後、新発田藩の来迎寺に好田政之亟を呼び、遺言を伝えた八日後に来迎寺にて切腹した。今も来迎寺には血塗りの厠が遺されている。政之亟も羽越同盟軍として戊辰戦争に参戦し、村松に敗走していた。戊辰戦争で使った刀(銘:肥後守国康)が今も文化財美術品として好田家に伝わっている。源右衛門、政之亟からは私(肇)までは僅か5〜6代である。


3.その他の姻戚、血縁関係

   

   稲毛源右衛門、政之亟から続く長兄の血縁について述べて来たが、初代好田奥左衛門から続く、姻戚関係に関して見て行きたい。
   
   初代奥左衛門の妻の父・宮島五郎太夫については詳細不明。2代目奥左衛門の妻の父・竹田伊右衛門は村松藩年寄・堀玄蕃の家臣(陪臣)だった人物らしい。2代目奥左衛門の次男が用紙になった清水市斎は村松藩士で中小姓、茶坊主を務めた人物で、清水家は茶道に通じていたらしい。2代目奥左衛門の娘が嫁いだ牛丸伊右衛門は村松藩士で勘定方の役人だったと思われる(おそらく同僚)。同じく娘が嫁いだ速水滝衛門も村松藩士の同僚で、速水家は心形流剣術指南の家系らしい。 好田貫蔵の妻の父・松沢忠右エ門は村松藩年寄・堀玄蕃の家臣(陪臣)。貫蔵の三人娘の嫁ぎ先、手島伊右衛門、菊地市右衛門、吉岡故兵衛はいずれも村松藩士。



   3代目奥左衛門の妻の父・宮島ュ右衛門については詳細不明。初代奥左衛門の妻と同じ宮島家の出身か?(村松藩士には宮島家と言う家の記載はある)。次男は赤Z訳の養子となった。赤沢家は村松藩医の家系。3代目奥左衛門の二人の娘は、それぞれ茶道の糺養浩、藩士・吉岡衛士に嫁いでいる。

   4代目奥左衛門の妻の父・松沢清右エ門については詳細不明だが、貫蔵の妻の出身家の松沢家と同系か。次男は秋蔵家の養子となっているが秋蔵家については不明。三人の娘は、村松藩士で中小姓であった斉藤利藤次、堀玄蕃の家臣で旗本の野口嘉内、詳細不明の宝田七郎右衛門にそれぞれ嫁いでいる。

   5代目奥左衛門(好田禧左衛門)の妻の父・宝田七郎右衛門については詳細不明だが、4代目奥左衛門の娘の嫁ぎ先と同姓同名なので自分の妹の娘を娶ったと言うことか? 子がなかったために、稲毛源右衛門の次男・政之亟を養子として家督を継がせた。

   政之亟(好田宗紹:村松尋常小学校校長)の妻の父・杉山喜八郎については不明。
   琢磨(村松純情小学校教員、28歳にて早世)の妻の父・安中石次郎は村松藩士で、宮崎県知事の安中忠雄氏は子孫。