『松平矩典判物』 松平斉典著 

松平大和守家文書(好田石見署名あり)

早稲田大学図書館所蔵

オフィス才園巣

ファミリーヒストリー


1.村松藩と好田家の関係

1.好田家の系譜


 





渡辺作兵衛は代々加賀藩前田公に仕え、十七歳で家督を継ぎ3千石を賜っていたが、萬治年間(1660年頃)に事があって家督を養子の弟に譲って、自らは加賀を出て、越後の村上藩の藩士・好田石見氏の下に身を寄せた。道義を守る志に感じた村上城主・松平直矩大和守より再三、我に仕えるように言われたが、二君に使えずの義を以て固辞し、久保田に閑居した。六男に渡邊姓を継がせて、家紋として九三星亦鉈遼を用いさせた。作兵衛家は代々久保田に住み続けた。  渡辺作兵衛に関しては、金沢近世史資料館には関連資料は残されていなかった。丁度、作兵衛の時代、前田家は第3代利常の時代で金沢ではなく、小松に居たため、その時代の資料はほとんど残っていないらしい。作兵衛の息子・宗義(好田奥左衛門)は、元禄三年四月村松藩第三代城主・堀利公にお仕えすることになった。経緯は不明。その際、直利公は、好田石見氏の恩義を忘れないめとして、好田姓を名乗るように命じ、家紋として分銅紋を用いさせた。これ以降、代々村松藩にお仕えすることとなった。

2.村松藩でのお役目



 勘定方、紙役、大坂加番の札場物書、用人方支配の次仕小坊主、中小姓などを務めたとの記載があるが、詳細は不明である。税率を知らせる万雑紙には、好田奥左衛門の署名がある(好田奥左衛門は何代にも亘って名乗っているので、何代にも亘ってそのような役職に就いていたものと推察される)。

            宝暦一年(1751年)十月                        宝暦四年(1754年)十一月
              第2代奥左衛門                               第2代奥左衛門


 
               安永七年(1778年)十一月                      寛政三年(1791年)十一月
                第4代奥左衛門                              第4代奥左衛門


            慶応一年(1865年)十一月
               第6代奥左衛門


好田禧右衛門(?渓)は、万延(1860年前後)の人で、有事ありて(詳細は不明)藩を追われて五泉に住んだ。節操が堅く、貧なれども自立していた。漢詩を作り、『北越詩話』にも略歴と作品が掲載されている。

  




 好田政之亟(宗紹)は、子供がいなかった好田禧右衛門【ばん(石偏に番)渓】の養子で、元は
稲毛源右衛門の次男。桐林に住み、戊辰戦争で米沢に出兵するも降伏し村松に帰還した。父・稲毛源右衛門は好田政之亟(宗紹)を呼び遺言を残し、5日後に切腹した。
*我が家には、『加藤松斎』の掛け軸が伝わっている。
 現在の好田家は、この好田政之亟(宗紹)の血、即ち稲毛源右衛門*の血を引いていると言える。
*新発田市の来迎寺には、稲毛源右衛門が自刃した血塗りの厠が現在も残っている。


3.村松藩での住まい

〇年〇月〇日
第三代藩主直利公の時、お仕えすることになった宗義(奥左衛門)以来、どこに住んでいたか定かな記録はない。宝暦の城下絵図には屋敷の記載がないが、第三代奥左 衛門(性盈)が紙役として上役に連座してお役御免(後日ご赦免された)になっていたためではないかと思われる。寛政11年の第八代藩主直庸公の時の諸臣の図では御徒町内に居を構えていたことが記されている。好田禧右衛門(?渓)は、蟄居中は五泉に住んだと記載されている。


     


 慶応二年に村松校長だった好田芥舟(宗紹・政之亟)が桐林に住んだとの記録がある。その後、好田琢磨までは村松に住んでいたが、恕乎は秋田裁判所書記官として秋田県に、そして新潟裁判所書記官として新潟県内に住んだ。俊夫は東京歯科大学時代、歯科医師時代、東京に住んだ。肇は大学卒業までは東京都杉並区に、その後、町田市を経て相模原市に住んでいる。

4.村松と好田家の現在の繋がり


 現在、村松に縁故者はいないが、寺町の安養寺(曹洞宗)には、今でも好田家の墓があり、菩提寺である。安養寺とともに、長養寺(真宗大谷派)にも墓所があった。江戸時代には男性は安養寺、女性は長養寺の墓に埋葬されたらしい。昭和41年に肇が両寺の了解を得て安養寺に合葬した。

 

 安養寺の本堂の?子には、『施主 好田奥左衛門』の銘が刻まれている。安養寺保存の勧進帳によると第三代奥左衛門(宗珍)が1825年(文化年間)に寄進したものと思われる。

      

  また、現在の当主・好田 肇が平成20年に寄進した和幡本堂の柱に掛けられている。

    

 好田 肇が平成20年に旧村松藩士の『松城会』に入会し、旧藩士の方々、および村松在住の「お城の会」の方々との友好を深め、村松との関係を保っている。





5.好田家 系図