1.村松藩と好田家の関係1.好田家の系譜 |
---|
|
2.村松藩でのお役目 |
---|
宝暦一年(1751年)十月 宝暦四年(1754年)十一月 第2代奥左衛門 第2代奥左衛門 安永七年(1778年)十一月 寛政三年(1791年)十一月 第4代奥左衛門 第4代奥左衛門 慶応一年(1865年)十一月 第6代奥左衛門 好田禧右衛門(?渓)は、万延(1860年前後)の人で、有事ありて(詳細は不明)藩を追われて五泉に住んだ。節操が堅く、貧なれども自立していた。漢詩を作り、『北越詩話』にも略歴と作品が掲載されている。 好田政之亟(宗紹)は、子供がいなかった好田禧右衛門【ばん(石偏に番)渓】の養子で、元は 稲毛源右衛門の次男。桐林に住み、戊辰戦争で米沢に出兵するも降伏し村松に帰還した。父・稲毛源右衛門は好田政之亟(宗紹)を呼び遺言を残し、5日後に切腹した。 *我が家には、『加藤松斎』の掛け軸が伝わっている。 現在の好田家は、この好田政之亟(宗紹)の血、即ち稲毛源右衛門*の血を引いていると言える。 *新発田市の来迎寺には、稲毛源右衛門が自刃した血塗りの厠が現在も残っている。
|
||||
|
現在、村松に縁故者はいないが、寺町の安養寺(曹洞宗)には、今でも好田家の墓があり、菩提寺である。安養寺とともに、長養寺(真宗大谷派)にも墓所があった。江戸時代には男性は安養寺、女性は長養寺の墓に埋葬されたらしい。昭和41年に肇が両寺の了解を得て安養寺に合葬した。 安養寺の本堂の?子には、『施主 好田奥左衛門』の銘が刻まれている。安養寺保存の勧進帳によると第三代奥左衛門(宗珍)が1825年(文化年間)に寄進したものと思われる。 また、現在の当主・好田 肇が平成20年に寄進した和幡本堂の柱に掛けられている。 好田 肇が平成20年に旧村松藩士の『松城会』に入会し、旧藩士の方々、および村松在住の「お城の会」の方々との友好を深め、村松との関係を保っている。 |
|
|
|