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好田ばん(石偏に番)渓 (蒲生重章著『近世偉人伝』より)


蒲生重章著『近世偉人伝』中の好田ばん渓(禧右衛門、宗信)に関する記述

蒲生けい亭『近世偉人傳』

好田ばん渓者、村松浪士也。為人耿介不荀合。目中無人。常見世人。
皆稱愚人。莫足共談者。庚申歳。予以事歸郷。遭權貴怒。遂被放逐。
訪?渓於五泉。?渓大喜曰。畏友也。強留一月。日對酌。口角飛沫。
縦談天下事。且罵權貴日。愚人愚人。一日外出醉歸。謂予日。今日
以愚事過一愚人。愚人強留。以愚酒愚肴饗予。索愚庭詩。予乃賦愚詩
一篇以與之。請子評之。予日。此非愚詩。?陸放翁佳境也。?渓笑日。
子亦吐此愚言乎。奪而?裂之。葢?渓以予為諛也。故不喜。時座有狂僧。
書詩示?渓一讀。仰天而笑日。佳絶佳絶。其詩日。遠訪?渓村路斜。
炊煙薄處有貧家。停?坐愛竹林晩。尊鼻紅於二月花。葢?渓酒?鼻。
鼻尖如紅葉。鼻與花、國訓相通。故戯之也。而?渓不怒。?渓遂乎算數。
善播奕棋。毎與人對?。人下一子。輙日愚手愚手。臨収局日。予勝若干子。
算之果然。初?渓住村松。傲骨稜稜。不能與俗協。遂以事被放遂徒于五泉云。
其疾病也。瞠目顧四方。獨語日。愚天下愚天下。遂瞑。年五十餘。




滿地青松寒更秀。
一籬黄菊痩猶香

(大意)
 青松が地面一杯に繁り、寒くなって一段とすぐれて色鮮やかだ
 垣根の黄菊は枯れ細ってしまったが、それでも猶香が漂っている



蒲生 重章(がもう しげあき、1833年 - 1901年3月8日)は、幕末から明治時代にかけての漢学者・医師。堀氏だが故あって蒲生氏を名乗る。名は重章、字は子闇、けい亭(けいてい)と号す。別号に精庵・白嚢子・蠖屈潛夫など。
越後国・村松(現在の新潟県五泉市)の出身。幼い時に両親を失い孤児となり、伯父(堀玄意)によって育てられる。村松藩の儒者・加藤松斎に師事。19歳の時に必ず家を復興すると誓いを立て、江戸に出て湯川安道に医学を学ぶ。10年後に村松藩主・堀直賀に仕えるが、家老を詩で風刺して放逐される。諸国を歴遊して江戸に帰り麹町に学塾・青天白日楼を設け、漢学を教える。重章は尊皇攘夷の立場をとり、国事に奔走して幕府に嫌疑を受けた者をたびたび塾にかくまった。明治元年(1868年)に医学館に出仕、昌平学校三等教授となる。のち修史局史官をへて退官後は私塾をひらいた。69歳で没し谷中の天王寺に葬られる。
作家の永井荷風は昭和3年2月に蒲生?亭『近世偉人伝』を読み、「此の書は維新前後の英雄志士学者奇人の傳を叙し暗に著者平生の抱負不満を漏せしものなり、余も亦今日の時勢に対して心平らかなること能わざるものあり、此の書に倣って平素私淑する諸家の略伝をつくらむかとこの頃窃かに思いを凝らしつつあるなり」と日記に感想を書く。
著作
"『近世偉人伝』(1877−1895年)
"『近世佳人伝』(1879−1880年)
"『蒲門盍簪集』(1894年)
"『?亭文鈔』(1898年)
"『?亭詩鈔』(1902年)