TopNovelおとめ☆扉>ポチとお嬢様・1




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「何だァ、てめえっ! こっちが下手に出てりゃ、いい気になりやがって……!」

 それは安っぽい造りの二時間ドラマの冒頭シーンのように。

 何の前触れもなく、突然に訪れた結末。先ほどから、見るからにチンピラ風の集団がネチネチと絡んできているのは分かっていた。だが、どうしてそんな奴らに関わらなくてはならないのだろう。
  一体、誰の許可を取って話しかけているのだ。人に交渉ごとを持ちかけるなら、まずは事前にアポを取ってからにしてもらいたいものである。だいたいこういう奴らを相手にしてはいけない。自分がターゲットになっていることに気付かないふりで、どうにかやり過ごすのがスマートなやり方だ。

 だがしかし、こいつらと来たらやたらと執念深い。自慢の長いコンパスを颯爽と動かしてずんずんと突き放しているつもりであるが、それでも小走りに間隔をあけることなくくっついてくるのだ。適当に振り切って事なきを得たいと思っても、こっちは初めての土地で右も左も分からない状態。人通りの多い繁華街を歩いていたつもりが、みるみるうちに周囲の風景が寂れてくる。
  とうに日は暮れているが、それにしても辺りが暗い。暗いと言うより黒い。見上げればどす黒い雨雲が広々とした空一面を覆い尽くしていた。今にも降り出しそうな感じ、これは早く今夜の宿を手配しなくては。

「どうしたのですか、私はあなた方には用はありません。あまりしつこくすると、人を呼びますよ?」

 我ながら、的確な受け答えである。涼しげな表情のままであるが、心の中ではしてやったりと思っていた。

 仕事柄、見るからにヤクザ風の相手と交渉することも多い。そう言う人間に対しては、どこまでも毅然とした態度で臨まなくてはならないのが常。少しでもひるめば、あっという間に足下をすくわれてしまう。世の中は食うか食われるか、のんびりと構えていては何も手に入れることは出来ない。

 ――ほらほら、この辺で諦めた方が身のためですよ?

 何とも慈悲深い、海のように広い心であろう。やはり大勢の人間の上に立つ者は、こうでなくては。間違っても今目の前にいるチンピラ親分のように、力任せに相手をねじ伏せるだけの能なしでは駄目だ。

「畜生っ、もういい! お前ら、存分に可愛がってやれ! コイツ見るからに金持ちそうな感じだからな、かなりのものを持ってそうだぞ。へたばったら、身包み剥がしてやろうぜ……!」

 何という下品さだろう、情けないにもほどがある。自分と同じ「人間」というカテゴリに収めるのは御免被りたい感じだ。本当に馬鹿な奴らだと思う。こちらが丸腰だからどうにかなると考えたのだろうが、残念なことに自分には武術の心得がある。一通りの護身術も身につけているし、その気になればこいつらをまとめて片づけることなんて朝飯前だ。

「おのれ〜〜〜〜〜っ!」

 力任せに打ち込んできた握り拳を、華麗なる早業で横にそらす。

 ふふん、恐れ入ったか。こんなのは序の口だ。さてさて、今度は反撃と行きましょうかね。なかなか実践で腕を試すこともなかったから、これはいい機会だ。こっちも色々あって苛ついているんだ、こうなったら容赦しないぞ。

「……ぐわっ!」

 次の瞬間、背後からものすごい衝撃が走った。よろめきながらも振り返ると、集団の中で一番の大男がどこから取り出したのだろう鉄の棒を手にしている。ちょっと待て、こんな風に道具を使うのは反則だろう。男たるもの正々堂々と素手で勝負するのが当然。

「ほほう、ちょっと加減してしまいましたかね。気位ばっか高いお兄さん、この辺で堪忍してくださいと仰った方がいいですよ?」

 厳ついガタイに似合わず、言葉遣いは丁寧だ。そんなことを考えていると、今度は横っ面を思い切り叩かれた。

「ちょ、ちょっと待て! 卑怯だぞ、これは……!!」

 その後のことは思い出したくない。

 四方八方からボコボコにされて、程なくして自分の身体は冷たいアスファルトの上に落ちていった。腫れ上がった頬がひんやりとしたモノに触れて、その瞬間にふっと意識が戻る。ああ、もしかしたらここで死ぬのだろうか。それもいい、結局はこういう人生だったんだ。

 

 霞んでいく視界。墨色の空の下、チンピラたちの顔がいつか僕を裏切った奴らの顔に変わる。

 一体どういうことなのだ、僕が何をしたというのだ。今まで会社のためにと必死で頑張ってきたのに、状況が変わったからと言って人に全ての責任を押しつけるとは何事だろう。およそ忠義者のすることではない。あいつらこそが、最低な人間なのだ。僕は自分を支える者たちの人選を誤ったために全てを失ったに違いない。

「お前など、もう息子でも何でもない。とっとと出て行け、二度とこの屋敷の敷居をまたぐんじゃないぞ……!」

 誰ひとりとして、僕をかばってくれる人などいなかった。あんなに熱心に慕ってくれたはずの部下たちも手のひらを返したように冷たくなる。猫のようにすり寄っていた女どもは、汚らしいものでも見るような目で俺を蔑んだ。
  結局、信じるものなど何もない。自分以外は世の中の全て敵ばかり。そんなこと、最初から分かっていたつもりだったのに。

 

「こういう奴はな、腹巻きの裏に大金を隠し持っていたりするんだぜ? ハハハ、情けない格好だぜ……!」

 いつか雨が降り出したようだ。梅雨の中休みも終わり、これから本降りになっていくのだろうか。だが、僕には傘はない。いや、傘があったとしてもそれを手にするだけの力も残っていない。

 生暖かい大粒の飛沫が頬の上に落ちる。その数を数える暇もなく、すううっと意識が遠のいていった。

 

***


 何かが胸の上に乗っているような息苦しさ。それから逃れようと身体を動かすと、途端に強い痛みが頭の先からつま先までを駆け抜けた。

「……うっ……!」

 およそ人のものとは思えないような自分のうめき声に驚いて、その瞬間に視界が開ける。飛び込んできたのは安っぽい天井板だった。
  見たこともない部屋、痛みを堪えながらもかろうじて起きあがる。あちこちがぼろぼろとはげている漆喰の壁。右手には時代を感じさせる木枠の腰高窓、左手にはこれまた年代物の磨りガラスの引き戸。斜めになったカレンダーだけが、かろうじて平成の代を示していた。

「あーっ、気が付いた!? 良かった、良かった、これで一安心だわ」

 半開きになったガラス戸の向こう、軽快な水音が聞こえてくる。こちらに背中を向けたまま何かの作業をしているのは、どうも女性のようだ。後ろ向きのまま背後の気配を感じ取るとは、コイツはエスパーか。三角巾を頭にかぶって、白地に青のストライプ柄のエプロンをしている。くるぶしまでのGパンの下はサンダル履きだ。
  しばらくは忙しそうに両手を動かしていた彼女だが、一区切り着いたのかようやくこちらを振り向いた。浅黒い肌、くりくりの前髪。小粒ながらまん丸な目がこちらを心配そうに見つめている。こういうタイプは年齢が読めない。身丈こそは小学生でも通りそうであるが、その割りにはしっかりとした口調である。

「急に起きあがったりして、大丈夫? どこか痛くない?」

 彼女が立っている場所とここでは数十センチの段差があるようだ。ガラス戸の向こうは何かの厨房なのか、湯気の立った鍋や大きなフライパンが見える。自分が寝かされていたのは三畳ほどの狭い部屋。普段は物置にでも使われているのか、隅の方にはいくつもの段ボール箱が積まれている。「豆もやし」とか「ジャンボピーマン」とかいう文字が、ほの暗く哀愁をそそった。

 実のところ、身体全体どこもかしこもがみしみしと音を立てるほどに痛い。だが、今はそれよりも先にはっきりさせたいことがあった。自分の体調のことはそのあとでいい。首すじには湿布が貼られているらしく、その匂いが鼻をつく。

「……ここは?」

 別人のように低い声で僕は訊ねていた。あいつらに殴られたときに喉をやられたのだろうか、それとも雨に濡れて風邪を引いたのだろうか。

「父ちゃんとあたしの店、三丁目のラーメン屋だよ。……って言っても、お兄さんはこの辺の人じゃないよね、見たことない顔だもん。もう、昨日はびっくりしたよー! のれんを片づけようと外に出たら、あんたがパンツ一丁で店の前に倒れているんだもん。無駄に体格いいから、ひとりでここまで運ぶのは大変だったんだから」

 えっへんと胸を張る袖口からは逞しい二の腕が見える。まるで肉体労働者のような筋肉質、今までの僕の身の回りにはいなかったタイプの女性だ。「肝っ玉母ちゃん」という言葉は彼女のような人のことを言うのだろう。

「ぱ、……ぱんつ……?」

 仮にもうら若き(と思える)女性の口からそのような単語が飛び出してくることも衝撃なら、自分がそんな姿で倒れていたことも信じられなかった。

「ふ、服を着てなかったんですか? その、確か僕はスーツを……」

 オーダーメイドの三揃えは、お気に入りのテーラーが心を込めて仕立ててくれたものであった。僕は規格サイズよりも手足が長くて、既製品だと必ずお直しが必要になってしまう。そもそも、僕のような身の上の人間が、ありきたりな量販店でスーツを選ぶなどあるはずもないのだ。

「うん、何にも着てなかったよ。最初は怪しい変質者かと思ったんだけどね、近くの交番のお巡りさんが来てくれて言うのにはこの辺をうろついてるヤクザ連中の仕業だろうって。近頃この辺も物騒なんだ、柄の悪い人間がいっぱいでさ。……あ、眼鏡はあったよ。でも粉々に割れちゃってるねー」

 彼女の話をまとめると。

 僕は昨晩、この店の前に裸同然で倒れていたという。とりあえず警察には届けたが、何しろ所持品がないから身元を特定することは出来ない。警察に引き渡すことも考えたが、ここは乗りかかった船と言うことで意識が戻るまでは面倒を見ることに決めたらしい。有り難いことに医者も呼んでくれ、一通りの傷の手当ても終わっていた。

「そ、……そうですか」

 情けないこと、この上ない。見ず知らずの女性にここまで迷惑を掛けて、あろう事か父親のものだという服にも着替えさせてもらった。下着までがすり替わっていることに唖然とする。意識がなかったとはいえ、大事な部分を異性に晒してしまったのだろうか。

「んで、あんた誰? どこの人? 早く連絡しないと、家の人が心配してるよー。……とと」

 彼女がそう訊ねかけたとき、恥ずかしいことに僕の下腹がくうっと鳴った。かなり大きな音だったので、当然のことながら彼女にも聞かれてしまう。

「ああ、おなか空いてるんだね? チャーハンだったらすぐに出来るけど、それでいいかな。……ちょっと待ってて」

 話を途中にしてガラス戸の向こうの厨房に戻った彼女は、すぐさま大きなフライパンを火に掛けて瞬く間に本格的な炒め飯を仕上げてしまった。

「……美味しい」

 プラスチック製のレンゲですくって口に含めば、すぐさま広がる油と卵の奥深いハーモニー。大きめに切った焼き豚も美味ならシャキシャキのレタスも意外な食感を与えてくれる。もしかして、これは本格的な中華飯店のそれにも勝るのではないだろうか。思わず三杯もお代わりしてしまい、腹も胸も満腹になってしまった。

「ふふ、気に入って貰えたなら嬉しいな。スープもあるよ、ウチのは手作りワンタン入りなんだ。デザートには杏仁豆腐、これも自家製なんだよ」

 もう隙間もないほど腹一杯だと思ったのに、次々に並ぶ皿を片っ端から平らげてしまう。本当にこんな美味しい料理を食べたのは久しぶりだ。だいたい、食事などを味わうゆとりなどここしばらくはなかった様な気もする。みるみるうちに身体に活力がみなぎってきた。

「本当に……こんなに良くして頂いて。何とお礼を申し上げたらいいのやら……」

 荒んでいた心までが温かく満たされると、思わずこみ上げてくるものがあった。長いこと忘れていた誰かに感謝する気持ち。ああ良かった、僕はまだそれを覚えていたのだ。

「あはは、いいのいいの。困ったときはお互い様でしょーっ! ほら、もう本当にごちそうさま? 遠慮なんていらないよ」

 彼女は風のような早業で空いた皿を流しに運んで洗い上げてしまう。食器洗い乾燥機などというものはこの店には存在しないらしい。だからあんなに手のひらががさがさに荒れているんだな。
  そうだ 、ここまで良くしてもらったのだからすぐに手配して最新式型の機器をプレゼントしよう。それくらいのことは朝飯前だ。僕の懐など、これっぽっちも痛まないほどの。

「あの、僕は実は……」

 そう、知る人ぞ知る大企業の御曹司。すでに父親からは事業のいくらかを任されて、様々な方面で輝かしい業績を上げている。このところ多少躓くこともあったが、その気になればすぐに巻き返せる。そうだ、本当に今頃は皆が心配して僕のことを探し回っているはずだ。早く連絡して迎えをよこしてもらおう。

 彼女はどんなにか驚くだろう。のたれ死ぬ寸前で倒れていた男が実は白馬の王子様なのだ。身分違いがすごすぎて恋愛まで辿り着けるはずもないが、こういう出逢いもまた一興。元通りに品の良いスーツを着こなした好青年を目の当たりにしたら、腰を抜かすかも知れないな。

 

 こちらを振り向いた彼女に、さりげなく身の上を明かそうと思ったその時。

 乱暴に店表の戸が開いた。そこもやはり木製の引き戸。一体、何十年前の建物なのだろうか。このままどこかの「ラーメン横町」に移築すれば、古き良き時代を再現した店としてかなりの人気スポットになりそうだ。

「おー、今戻ったぞ! 水だ、水! 千鶴(ちづる)、水持って来い!」

 最初は店に客が来たのかと思ったが、そうではなかった。赤ら顔の小男は、年の頃が50を少し出たかと言うところ。ふらふらとした千鳥足で客用の椅子やテーブルにぶつかりながらカウンターのところまでやって来た。

「も〜、父ちゃん! こんなに呑んだら、身体に毒でしょ! ほらほら、横になるなら二階まで行って。ここで寝込まれたら、客商売あがったりだよ!」

 彼女はそう言いながらもかいがいしく世話を焼いている。最初に「父ちゃん」という言葉が彼女の口からこぼれたとき、それが「父親」のことを示しているのか「夫」のことを言っているのか判断に困った。だが、今こうしてふたりの姿を見てれば紛れもない親子だと言うことがうかがえる。

「いいだろうが、俺はちゃあんと仕事はしてんだ。だがな、仕事したって、この通り客のひとりもいやしない。いいんだ、もうこんな店! どーせ、程なく潰れんだからさ。本当に、これも全部サバグラとかいう奴のせいだ。俺がおっ死んだら、必ずあいつらんとこに化けて出てやるんだからな……!」

 とりあえず、昼食時の店内である。確かにここまで人気がないのはまずいと思った。とぐろを巻いている親父さんの背中を叩きながら、彼女は果敢にも言い返す。

「あのね、サバグラじゃないでしょ、真倉(さねくら)。そんな風に言い違いをしたら、海を泳ぐ鯖に迷惑だよ。ホント、もうっ!」

 

 ――は……!?

 

 僕は思わず自分の耳を疑っていた。「真倉」という姓は珍しい、同姓同名と言うことも有り得ない。でも、どうして、彼女の口から僕の名前が……。

「あ、ごめんね。話が途中になっちゃって……もうウチの父ちゃんと来たら、毎日朝の仕入れが終わるや否やこんな風に呑んだくれてさ。全く、どうしようもないんだよ。ま、気持ちも分かるから仕方ないんだけど」

 彼女は父親の方をちらりと振り向くと、困り果てたように大きな溜息をついた。

「半年くらい前だったかな、この辺り一帯を大がかりに再開発しようって話が出てね。いや、別にあたしら地元の人間は今のままで全然良かったのに、いきなりやって来た大企業のお偉いさんがとにかく強硬で。こっちの言い分なんて全く聞かずに、道路の整備から何からどんどん計画を進めていくんだよ。で、ウチの店は新しい道路の邪魔になるって取り壊されることに決まったんだ」

 そんな話があっただろうか、にわかには思い出せなかった。そういえば、部下のひとりがとある地方都市の再開発事業に乗り出そうと提案したことがある。自分もかたちばかりの視察をしたような。どうでもいいような感じだったから、勝手にやれと伝えていた。だが、……まさか。

「この辺の人間は、真倉って名前を聞いた瞬間に頭に血が上るよ。しかもあいつら、言いたい放題言いまくってその後はなしのつぶて。すでに小金を渡されて立ち退いてしまった店もあって、商店街全体が寂れちまったってわけ。本当にどこまでいい加減な奴らなのか、腹が立つったらないよ。ウチもこの店の建物の更新が3ヶ月後でさ、そのときには大家に追い出される運命なんだ。
  今回の開発が見送られたところで、商店街の衰退は免れない。だったら、もっと客を呼び込める店子に貸した方がいいと言われて。ハンバーガーショップか何か、そう言うのがもう後釜に決まってるんだとさ」

「……」

 何というか、頭から冷たい水を浴びたような衝撃に言葉も出なかった。彼女やその父親、この地元の人間の全てが僕のことを僕の会社のことを恨んでいる。そんな因縁の場所に、どうして行き着いてしまったんだろう。父親に反抗して家を飛び出したのはいいが、敵陣に突っ込むなど自殺行為だ。

「……で、あんた。どこの誰?」

 つぶらな瞳がキラキラと輝きながら僕をのぞき込む。しかし、どうして。この状況で本当のことなど答えることができるだろう。途方に暮れた僕は、自分に掛けられていた毛布をぎゅっと握りしめた。生暖かい汗が、背中を流れていく。

「じ、……実は。何も覚えてないんです。何というか……自分がどこの誰かと言うことも……」

 ここはどうにか切り抜けて、あとで彼女の目を盗んで逃げ出そう。それこそ卑怯な手口だが、今はそれしか思いつかない。

「……え?」

 これにはさすがの彼女も驚いたのだろう。目をぱちくりさせながら、長いまつげを震わせてる。

「思い出せないって、……それって記憶喪失って奴? え、本当に!?」

 僕は必死で哀れな表情を作り、もっともらしく頷いた。その渾身の演技が功をなしたのか、彼女の顔にも同情の色が濃くなっていく。これはチャンスだと思った、もう一押しである。

「お、お嬢さん……! お願いします、僕をここに置いてください! 一生懸命働きます、皿洗いでも掃除でも、何でも。見捨てないでください、お嬢さんだけが頼りなんです……!」

 小さな手をぎゅううっと握りしめ、僕の名演は続いた。しばらくは酸欠金魚の如く口をぱくぱくしていた彼女、しかし頼りがいのある最初の印象を裏切ることなくその眼差しはほどなく森の奥にひっそりと佇む湖の如く穏やかな親愛に満ちたものに変わった。

「分かったわ、……実のところね。この間、父ちゃんとケンカしてバイトの子も出て行っちゃって困ってたのよ。じゃあ、とりあえず医者に払った治療費と食事代の分だけ働いてくれる? 父ちゃんにはあたしから上手く言っておくわ。気を落とすんじゃないわよ、こんなの一時的なもんでしょ。すぐに全部思い出すと思うし」

 彼女は天使のような微笑みでそう告げる。手を振りほどかれた瞬間に、僕はどっと大量の汗をかいた気がした。

「でも……、困ったわ。あんたのこと、いつまでも名前がないと呼びづらくて。そうねえ……どうしよう」

 そのとき。そう言って首をひねった彼女の後ろ、カウンターに伏していたはずの親父さんが急に起きあがった。

「何言ってんだ! そいつは千鶴が拾った捨て犬だろうが。犬の名前はポチって決まってるんだよ、ポチって!」

 

 そして僕は。この親父さんのひと言と共に、三丁目のラーメン屋に「飼われる」こととなった。

 

つづく♪ 

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