TopNovelおとめ☆扉>ポチとお嬢様・5




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 夜になって、また強く降り出したらしい。ばらばらと窓ガラスを打ち付ける雨粒、早々にのれんを下げてしまった店内はひっそりと静まりかえっていた。

「あー、参ったわ。急に降り出すんだもの」

 引き戸を開けて入ってきたのはお嬢さん。その前に不格好な男物の傘が影になって窓ガラスに映ったからすぐ分かった。

「お帰りなさい、お疲れ様です!」

 月に一度の商店街の会合は路地を挟んですぐの集会所で行われていたが、いくらでもない距離なのにお嬢さんはずぶ濡れ状態だ。大きく広げた傘も役に立たないほどの横殴りなのだろうか? 「今更、そんな面倒なところに出て行けるか」と親父さんに言われ、代わりに出るようになって久しいと聞いている。しかし、どうしてそれが今夜だったのだろう。

「あれぇ……父ちゃんは? もう寝てるの?」

 厨房の奥にある畳の部屋では、親父さんがすでに高いびきで寝入っていた。先ほどまでは野球中継を見ながら上機嫌であったのに、急に静かになったと思ったら。出来ればもう少し起きていて欲しかったが、疲れているのだろうし仕方ない。

「お嬢さん、夕食は?」

 タオルを頭から被ってごしごししている背中に声を掛ける。「あっちで済ませて来ちゃったから」と言われたらどうしようかと思った。だが、振り向いたお嬢さんは何気ない調子で言う。

「ううん、まだ。残り物で何とかするよ、ポチの分も作ろうか?」

 そのときまで。

 僕は極力お嬢さんの視界に入らないようにとシンクの下に潜っていた。別にかくれんぼをしたかった訳ではない、ただちょっと恥ずかしかったから。かなり不可解な行動ではあるが、片付けをしている最中だと思ってもらえたら心底有り難い。

「いっ、いえっ……! でしたら、少しお待ちください。すぐに僕が準備しますから……!」

 仰々しくするつもりはなかったのに、無駄に気合いの入った声になってしまった。何でこんなに緊張しているんだろう。大丈夫だ、あんなに繰り返して練習したんだから。慌てて自分に言い聞かせるが、腕の震えが止まらない。

「―― ポチ?」

 おそらく顔面がどうしようもなく真っ赤になっているであろう僕がようやく姿を見せると、すぐにお嬢さんのまん丸の目玉にがっつり捉えられてしまった。

「ど、どうしたの? その格好……」

 あまりの恥ずかしさにすぐに目をそらし、そそくさと作業を開始する。ガスに火を付けて湯を沸かし、もうひとつでスープを温め始める。さらに一番火力の強いそこに中華鍋を乗っけてガンガンに熱した。

「お、お誕生日、おめでとうございますっ! 今夜は僕がお嬢さんにごちそうさせていただきますっ……!」

 

 練習は、この二日間に何度も何度も繰り返した。

 本当ならば何から何まで自分ひとりの手で作り上げてみたかったが、その提案はすぐさま親父さんに「そんなの百年早い!」と一喝されてしまう。そこで腕試しにとラーメンを一杯仕上げてみたが、その無惨きわまりない出来に驚愕した。僕は多方面に器用なたちだったし、何をやっても一発で平均点を遙かに越える自信があったはず。それがどうした、一体どうなっているのだ。
  まあ、やはり専門家は専門家。ここはこの道何十年の親父さんに花を持たせてやらなければならない。素直に忠告を受け止めスープや麺は親父さんのものを使い、僕はラーメンの仕上げに専念することにした。

  だがしかし、ならば簡単だとは言えない。スープを温めつつ麺を茹で、さらにトッピングの野菜炒めも同時進行で仕上げなくてはならないとは。その上、一瞬の呼吸が乱れると全てが台無しになってしまうのだ。

  一杯を作り上げるまでの時間はわずか二分三分。
  だが、お嬢さんには内密にことを運ばなければならないから練習時間の捻出は大変だ。昼休みにお嬢さんが買い物に出掛けたわずかな間に、何度も何度も試作する。中華鍋を扱う手にはまめが出来、麺を茹でた汁が飛んで腕に火傷が増えた。

 こんなに真面目にひとつのことに取り組んだのは何年ぶりだろう。必死になって頑張ってもなかなか上手くいかず、出来るのは失敗作ばかり。食べ物を粗末にするわけにもいかないから、ふにゃふにゃ麺や油まみれの野菜炒めは全て僕の胃の中に収まった。何だこの恐ろしすぎるまずさ、同じ食材を使っているのに親父さんやお嬢さんのとは雲泥の差。ここまで来ると、本気で情けない。
  幾度「もう止めよう」と思ったか知れない。こんな無様な姿を晒すくらいなら、諦めてしまった方がいいのではないか。いや、でも。だが、しかし。たとえ「他人のふんどしを借りる」だけの行為でも、最後までやり遂げてみたかった。お嬢さんに千分の一秒でも喜んでもらえればそれでいい、ラーメンの出来云々よりもそれが一番大切だと思う。

 

 頃合いを見計らって、味噌だれをスープでのばす。ここであまり時間を掛けては駄目だ、温度も下がってしまうし麺も茹ですぎになってしまう。続いて麺を片手ざるごと引き上げて、水切りする。ここも素早くリズミカルに、何気ないように見えてかなり難しいんだ。
  麺をスープに加える場面では細心の注意を払って。手首のひねりの微妙な加減がポイントだ。そして野菜炒めを乗せ、チャーシューとメンマ、ネギを添えて。よし、時間は掛かりすぎてない。今まで練習してきたが、どうにか及第点が出せる仕上がりになるのは二分の一の確率だった。だが、もう後戻りは出来ない。

「お待たせしました!」

 三分間が経過しても、お嬢さんはまだ目の前の現実を受け入れることが出来ない様子だった。目の前に差し出されたどんぶりと僕とを代わる代わるに見つめている。

「どうぞ、麺がのびてしまう前に召し上がってください」

 どんぶりの中にどうにか収まっているものの、その見栄えは散々たるものであった。野菜炒めは教えられたとおりに「中央にこんもり」とは行かずにあちこちに飛んでるし、塊から自分で切り分けたチャーシューは厚さがバラバラ。スープに漂う麺も、少し茹で過ぎになってしまったようだ。
  しかし実際、これでもかなりの会心作と言える。何事もプロの道を極めるのは大変だとは知っていたが、これは想像を遙かに越えていた。これからは自分の毎回の食事を作ってくれる人に対して、もっと敬意を払わなくてはならないと思う。いや本当、頭の中で組み立てているのと実際に作り上げてみるのでは雲泥の差なのである。

「う、うんっ。じゃあ、いただきます!」

 僕の緊張が伝染してしまったのだろうか。お嬢さんの箸使いがいつになくぎこちない。だけど、どうにか。どうにか最初の一口を飲み込むと、そこでまたお嬢さんの動きが止まってしまった。

 

 そして、沈黙の時間が流れる。

 ふたりとも黙ったままだから、耳に響いてくるのは外の激しい雨音だけだ。一分、……それとも十分? お嬢さんはカウンタの前で俯いたまま、ぴくりとも動かない。

 

「あっ、……あの」

 もしや、破壊的にまずかったのだろうか? いや、親父さんのスープに直伝のタレ、吟味を重ねた手打ち麺に自家製チャーシューの組み合わせならば、どんなヘマをしても口が曲がるような代物になるわけはない。そうは信じたくても、やはりこの静寂には不安になる。

「ごめっ、おしぼり取ってくれる?」

 小さく鼻をすすり上げて、ようやくお嬢さんが反応してくれた。一度すすいだそれを差し出したときに、僕の動きも止まる。だって、……お嬢さんが泣いていた。

「お、おいしいよっ、おいしいよ、ポチ。ごめん、あんまり驚いて……あたし、どうかしちゃった」

 顔をごしごしと拭いてから、お嬢さんは元のように箸を動かし始めた。そしてすでに生ぬるくなってしまったと思われるスープも残さず、全てを平らげてくれる。お腹いっぱいになった彼女は、いつも通りの笑顔になった。

「ごちそうさま、ポチ。驚いたよ、いつの間にこんなの練習したの? あたし、父ちゃんから合格をもらうまで半年もかかったんだけどな〜。ポチってやっぱりすごいんだね」

 吸い込まれそうなまん丸の瞳。真っ直ぐに見つめられて、思わず胸が高鳴る。そんな自分自身にひどく驚いていた。

 かつてはブラウン管の中にもたびたび登場する最高級の美女を手玉に取ってきた僕である。別段こちらが働きかけなくても相手が勝手に擦り寄ってくるのだから、楽なものだ。面白いもので綺麗な女を連れていると、今度はもっとレベルの高い女が現れる。彼女たちにとっては僕の富と名声が、僕にとっては彼女たちの美貌がこの上なく魅力的だったのだ。

 正直なところ、彼女たちに比べたらお嬢さんの容姿はどうしても見劣りしたものになってしまうだろう。まあそれも当然のことだ。美はそれを追求するために多くの投資をしたものこそが頂を掴むことが出来る。そうじゃないと否定する輩も存在するが、これは疑いようのない真実だ。
  しかし、お嬢さんの心には、どんな大金を積んだところで決して手にはいることのない天然色の宝石が埋め込まれている。こんな場末の寂れた店で、それでも必死で現実と向き合っていたひたむきさ。全てを失った僕だからこそ見つけられた宝物だ。

「あ、ありがとうございますっ!」

 謙遜の言葉も忘れ、僕はただただ頭を下げていた。お嬢さんの喜んでくださる笑顔は、何物にも代え難い大切なもの。その輝きをこんな風に近くで見つめていたい。これは僕が「犬」だから出来る行為。それは痛いくらいによく分かっている。だけど、それでも全く構わないんだ。これから先も僕の全てをかけて、お嬢さんを幸せにして差し上げたい。もちろん、見返りなんていらないから。

 ―― もう、過去にすがるのはやめよう。

 その瞬間に、僕ははっきりと今までの全てのしがらみを捨てる覚悟を決めた。偉大な権力にすがったところで、その柱が根本から崩れてしまっては仕方ない。砂上の楼閣など、もう必要ないのだ。僕には「今」と「未来」があればいい。

 たかがラーメン一杯で大袈裟だと、笑いたい奴は笑えばいい。だけど自分の意志で動いて実現したことをしっかりと受け止めてもらえた嬉しさは何者にも代え難いのだ。

 

「あのね、ポチ」

 自分の中からこみ上げてくるものに知らず目尻が浸みてくる。ぼんやりとした視界を元に戻すためにそっとその場所をぬぐい取ると、お嬢さんはパイプ椅子から立ち上がったところだった。

「店の片付けが全部済んだら、あたしの部屋まで来て。待ってるから」

 そう告げたお嬢さんの瞳は、僕の姿を突き抜けて遙か遠くを見つめているようだった。

 

***


 先ほどまでの嵐が嘘のように、木枠の窓の向こうには月明かりが眩しく輝いていた。

 空の汚れまで全て洗い流してしまったかの如く、神秘的な美しさ。板張りの廊下に映る青白い光が当たり前の風景を全く別のものに感じさせる。

「あのう、……お待たせしました」

 階段の電気を点けると、せっかく寝入っている親父さんを起こしてしまうかも知れないと思った。あと数時間後には仮眠から目覚めて仕込みにはいることになるのだから、それまではゆっくりと休ませてあげたい。ラーメン一杯、餃子ひと皿の売り上げは微々たるものでも、やっぱり親父さんの作るメニューは天下一品だ。明日も一日、頑張ってもらいたいと思う。
  この数週間でどうにか身体が覚えた段差を手探りで上り、ようやく目的の部屋の前へと辿り着く。そうは言っても二階にあるのはお嬢さんと親父さんの寝室がひとつずつ。それも無理矢理分けたような不思議な区切りになっている。二階の物干し場に洗濯を取り込むために上がったことはあったものの、こうして部屋を訪ねるのは初めてのことだ。

「開いてるから、入っていいよ?」

 そう言われたものの、どこにでもありそうなふすま戸に最初から鍵など掛かっているはずもない。そうする必要もないと知りながら、茶道の作法のように膝をついてふすまを開ける。驚いたことに部屋の中は真っ暗、お嬢さんは灯りを点けていなかった。

「あ、いいよ。電気代がもったいないし」

 思わず中央からぶら下がっている紐を引っ張ろうとしたら、再びお嬢さんの声がした。その出所を探ろうと視線を泳がせれば別に隠れていたわけでもなかったのだろう、窓枠のすれすれのところに丸い頭が見えた。

「さっきの調理着、脱いじゃったんだ」

 窓に背を向けてこちらを見ているお嬢さんの姿はほとんど闇色で真っ黒、一方月明かりを全身に浴びている僕はお嬢さんの視界にくっきり映るのだろう。何だろう、この気持ち。全身がとてもこそばゆい。

「あ、……はい。綺麗に洗ってお返ししなくてはと思いまして」

 

 やっぱり気付いていたんだな、と心の隅で確信する。

 今夜店を閉めてお嬢さんの帰宅を待つばかりになったそのときに、短い期間に僕をスパルタ指導(ちょっと大袈裟か?)してくれた親父さんが例のロッカーを開けた。そして取り出されたのは、僕も気に掛けていた新品同様の白衣。そう、胸のポケットに「日の出ラーメン」という店名の入った親父さんのとお揃いのものだ。

「これを着ていいぞ、今日は千鶴の誕生日だから特別だ」

 それがどういう意味なのかは分からなかったが、とにかく嬉しかった。きっと親父さんは今までの僕の努力を少なからず評価してくれて、それでこの仕事着を貸してくれることにしたのだろう。袖を通すと、糊のパリッときいたそれは思いの外、気分がいい。何だか自分が本当の料理人になった気持ちになってしまうのだから不思議なものだ。

「とびきり美味いのを作ってやれ」

 初めて会ったときには、鬼のように真っ赤な顔で呑んだくれて怖い人だなと思った。ああいう人間に関わるとろくなことがない、だから出来るだけ近寄らずに過ごそうと決めていたのである。だけど、僕のそんな勝手な認識は間違っていた。さすがはお嬢さんのお父上、親父さんもまた素晴らしい御方だったのだ。

 

「……ふうん、似合ってたのに。もう少し眺めていたかったな」

 幾分暗がりに目が慣れてきて、お嬢さんの小さな輪郭をどうにか捉えることが出来るようになった。風呂上がりなのか、濡れた髪からしずくがしたたっている。そこにも月明かりが反射して、キラキラと輝いていた。

 その後、しばらくの沈黙が流れる。お嬢さんが次の言葉を探している気配は感じていたから、僕は黙って待つことにした。そう広くない部屋の隅と隅。互いに正座して向き合って黙りこくってるふたり。端から見たら、何とも滑稽な状況だろう。

「あれね、兄ちゃんの調理着だったんだ。見ればすぐに分かると思うけど、父ちゃんのとお揃い。多分、一度か二度しか袖を通していないと思う」

 月明かりの空間に静かに言葉を置いていくように、お嬢さんはゆっくりと話し出す。

 突然、全く知らない第三者のことを切り出され、僕は途方に暮れてしまう。お嬢さんの、お兄さん? ここって、父娘ふたりだけの店ではなかったのか。でも……それにしては彼の存在を知らしめるものがどこにも見当たらない。

「今夜はね、本当に驚いた。あまりびっくりしすぎて、しばらくは何も考えられなくなったよ。ポチが家に来てから、本当にこんなことばっかり。父ちゃんが急に正気に戻ったのも信じられなかったけど、……一体どうなっているんだか」

 くす、と小さな笑い声。だけど、そこには確かに湿り気が含まれていた。するりと俯いて角度が変わった刹那、お嬢さんの顔が月明かりを浴びて明るくなる。

「母ちゃんがいなくなって、父ちゃんが人が変わったみたいになって。家の中が急に荒れ果ててしまったんだ。だけど兄ちゃんは負けなかった、あと半年で卒業だったのに高校を中退して見よう見まねで店を切り盛りし始めたんだ。あたしはまだ小さかったけど、その頑張りには本当にすごいなと思っていたよ。
  兄ちゃんは口には出さなかった、でもやっぱり父ちゃんに元通りになって欲しかったんだと思う。だからこっそり注文してたんだろうね。ある日、あの調理着を見せられたときのことは忘れられない」

 それから、たった三日目の雨の夜。

 出前の途中に信号無視の車と接触事故を起こして転倒、彼はそのまま帰らぬ人となってしまったと言う。「雨だから、今日は脱いでいこう」とロッカーに掛けられた白衣だけがそのままひっそりと残った。

「そう……だったんですか」

 僕は何も知らないままに、とんでもない過ちを犯してしまったのではないだろうか。お嬢さんと親父さんの大切な思い出の中に割って入ってしまったことで、ふたりはどんなにか傷ついただろう。わずかな躊躇いが作り出したわずかな間合いに、全てを感じ取るべきだった。

「何で、そんな顔するの? 今夜はポチが思いがけない贈り物をくれたからね、あたしもご褒美をあげなくちゃって思ったんだよ。ほら、そんな離れてないでもっと近くにおいで?」

 

 無邪気な微笑みに導かれて、足が自然に前に出る。膝頭がぶつかるほどに近づいたそのとき、柔らかい体温が音もなく僕の胸に飛び込んできた。

 

つづく♪

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