「ただいま戻りましたーっ!」 建て付けの悪い木製の引き戸を開けるコツもすぐに習得した。今にも泣き出しそうな黒雲を吹き飛ばすような明るい声。そうそう、やはり飲食業は従業員の活気が何よりのスパイスだ。 「お帰りー、ポチ! もう次出来るよ? ちょっと座って待ってて」 カウンター奥の厨房ではお嬢さんが忙しそうに鉄のフライパンを振り回している。脇の柱に貼り付いたメモ書きの列、この分じゃまだまだゆっくり休めそうにもない。 待機用のパイプ椅子に腰掛けると、目の前にオレンジジュースの瓶と栓抜きが差し出される。 「はい、これ飲んでて」 ほとんど合成着色料と甘味料を溶かしただけの液体も、店で注文すれば二百十円。この分の料金もバイト代から引かれるのだろうか? いちいちそんな心配ばかりをしていても仕方ないが「身体で払う」と決めた以上、些細なことも確認したくなる。 そうは言え、喉がカラカラに渇いているのは事実。ただ近所を歩き回っているだけなのに、何でこんなに疲れるんだ。 「ほいっ、味噌チャーシュー上がりっ!」 山盛りのどんぶりをお嬢さんが重そうに運んでいく。その威勢のいいかけ声に改めて店内を見渡せば、数日前には人っ子ひとりいなかった昼時に今は半分くらいの席が埋まっていた。 ―― ふふふ、ざっとこんなもんさ。 もちろん口に出して言いはしなかったが、僕は心の中で思い切りガッツポーズを取っていた。「よっしゃーっ!」というかけ声つきで。数日前まではこんなキャラじゃなかった気もするが、やはりどこか庶民かぶれしてしまったらしい。 小走りに目の前をすり抜け厨房に戻っていくお嬢さんは全く気付いていないだろう、この賑わいも全て僕のお陰なのだということを。 たとえば、である。 お嬢さんが用意してくれた出前用のケース、それを手に店を出る。そのときの「行ってきます」のかけ声は、出来るだけ通りの隅々にまで響き渡るようにしていた。まずはここにラーメン屋があること、そしてその店が繁盛していて出前注文がひっきりなしであること。そのことをアピールしなければ、新規客の開拓は望めない。 何でそんな一文の得にもならないことを繰り返すのか。そう言う質問を思い浮かべる馬鹿に、経営者としての未来はないのだ。やはり何事も心がけ次第、塵も積もれば山となると言うじゃないか。 とにかく、一度店に足を運んでくれればいい。親父さんとお嬢さんが作るラーメンを口にすれば、その美味しさに必ず気付くはずだ。二度三度と足を運んでくれるウチに、さらに口コミで情報を流してくれれば最高である。 「はいっ、ポチ。4丁目のクリーニング屋に行ってきて。ちょっと重いけど、頑張ってね!」 ―― そこなら、公園通りを真っ直ぐに下った突き当たりだな。 お嬢さんから出前を受け取りながら、僕はもうその場所に行き着くまでのルートとその道中で何をすべきかを考える。二つめの信号の先にある自販機の周りはいつも空き缶が散乱していたっけ。戻りにあれをちょいちょいと拾い集めるのもいいだろう。 「行って参ります! お嬢さんっ!!」
出前を始めて三日目、僕の足取りはどこまでも軽やかだった。 全くの単純作業の中にここまでのやりがいを見いだせるとは、我ながら素晴らしく偉い。しかもささやかな努力のどれもがダイレクトな結果として戻ってくるのだ。注文の電話も日を追うごとにうなぎ登り、これも全て僕のお陰である。 駅前に広々と広がる公園は、以前どこぞの武家屋敷があったとかなかったとか。とにかく見事な造りになっている。こういう施設を有効活用すれば、もっともっと地域の繁栄に繋がるのにろくな手入れもせずに放置している辺りが情けない。お役所は一体何をしているのだ、書類に印をベタベタ押してるだけじゃ始まらないんだぞ。 ああ、やはりこういうゆとりある生活が僕には必要だったのだな、何しろ方々から頼りにされすぎて休む暇もないくらいだったから。いくら有能な人材だからと言って、あの状況は辛すぎた。その上、ちょっとしたほころび程度のミスをあのように大袈裟に。悪いことを全部人に押しつけるなんて、とんでもない父親だ。あんなトップがのさばっているようじゃ、先は長くないな。 だいたいな、税務署の調査が入ると聞いただけで情けないほどの慌てよう。あれではこちらに後ろ暗いことがあることを相手に教えているようなものじゃないか。何があろうと面の皮を厚くして堂々と構えているべきなのだ。そういう人間でなければ、過酷な競争社会を勝ち残ることは出来ない。 あんな風に口汚く罵って追い出したりして、今に見てるがいい。にっちもさっちもいかなくなって崖っぷちに立たされたそのときに、初めて僕の存在の大きさに気付くだろう。 「あ、ラーメン屋さんのお兄ちゃんだ!」 通りの向こうから僕の姿を見つけて、ランドセルをしょった子供たちが手を振る。ああ、何と愛らしい。無垢な笑顔を見ているとこちらまで心が洗われる気分だ。 「やあ、みんなっ! 今度、お家の人と一緒に食べに来てね!!」 うーん、気分は幼児番組の看板お兄さん。皆から慕われるのはたまらなく気持ちいい。この調子、この調子。さて、ちょちょいのちょいとこの出前を片付けてしまおうか――……。
と。
公園通りを半ばまで来たところで、僕の足がぴたりと止まった。 もしや。……いや、そんなはずはない。どうにか心を切り替えようとするが、どうしても上手くいかなかった。僕の進むべき方向から歩いてくる集団。いかにも目つきが悪いチンピラ風、……その中に見覚えのある顔を見つけた。そうだ、あの夕べに僕にとんでもない言いがかりを付けた連中。同じメンバーかどうかは分からないが、少なくとも数人が混じってることは確かだ。 ―― ヤバイ! このままやり過ごすことも出来るだろうと思ったが、こちらも忙しい身の上で面倒なこととは極力関わりたくない。ラーメンは出来たてが一番おいしい、一分でも一秒でも早く届けなくては。 「おいっ、そこの出前……?」 しかし、ひらりと身をかわした背中に突き刺さる野太い声。先ほどのチンピラ連中のひとりが、僕に話しかけてくる。まずいぞ、もう気付かれたか。完璧にすり抜けられると思ったのに。 「しっ、……失礼しますっ!!」 いや、別に僕が逃げることはない。だって何も悪いことはしていないのだから。だが今は困る、お前たちと関わっている暇なんてないんだから。それにあいつら、僕が真倉の人間だってことをすでに知っているかも知れない。そんなことを触れ回られたら、一巻の終わりだ。
何がそんなに恐ろしかったのだろう、だがそのときは本当に必死だった。 しばらくは闇雲に走り続け、突き当たりまで来れば、すぐ側の道に滑り込む。だがいくらいくら走っても、あいつらが後ろから追いかけてくる気がしてならない。しかもこちらの顔をしっかりと見られることが怖くて、振り向くことすら出来ないのだ。 走って、走って、走って。 ハッと我に返ったときには、目の前に全く知らない風景が広がっていた。
「……え……」 もっと早く気付けば良かったと思っても、後の祭り。念のために後ろを伺ってみたが、そこには誰もいなかった。一面広がる更地、何だこの平原はその向こうに広がる山々は。 慌てて今来た道を戻ってみたが、すぐに二股になったどちらからやって来たのか分からなくなる。多分こちらだろうと思った方に進んでみたが、またすぐに新しい分かれ道にぶつかった。 「ちょっと待て、……とにかく落ち着くんだ」 軽いパニック状態になりながらも、どうにか平静を取り戻そうと頑張ってみた。一体、どれくらいの間走っていたのだろうか。一分か二分、それとも一時間……? 電信柱で現在地を確認してみたが、全く覚えのない地名。少なくともお嬢さんが渡してくれた地図には記載されてなかった。 電話で連絡を取ろうにも、携帯を持っていない。さらに出前先がお得意さんでまとめ払いということで、おつりなどの小銭も持参してなかった。というか、店の電話番号も知らないぞ。そう言えば、頭の中にインプットされてない。 「おいっ! 危ねえじゃないかっ……!!!」 それでもどうにか、賑わいを感じる方向へと一歩踏み出したそのとき、目の前をバイクが猛スピードで突っ切って行った。 「す、すみませんっ……!」 反射的に身を翻して衝突は免れたが、次の瞬間にぐらりと姿勢を崩していた。 ―― がちゃん! 自分自身も倒れ込んだまま音のした方向を見る。お嬢さんが渡してくれた銀色の出前ケース、それが無惨にも横倒しに転がっていた。
***
僕の発案によるプロジェクトはどれもこれも大当たりで、笑いが止まらない状態。行く先々で声を掛けられ、褒め称えられるのだから気分がいいことこの上ない。卒業と同時に親の会社に入った僕を待っていたのは、成功が成功を呼ぶ輝かしい毎日であった。 元々の立場が恵まれているから当然だと陰口を叩く者も中にはいたが、そんなの負け犬の遠吠えとしか思えない。世の中には親の後ろ盾があっても上手くいかない奴らがたくさんいる。やはり僕の成功はそれなりの才能と努力があったからこそのものなのだ。 女なんて、こっちの言う通りにどうにでも動く生き物。だったら、見栄えが良くさらにこちらに利益を与えてくれる相手を選ばなくては損である。幸いこちらが誘いを掛けなくても、次から次からすり寄ってくるのだからたまらない。振り払うのも面倒になって適当にあしらったりもしたが、いつでも後腐れなく過ごしていたつもりだ。 「すみません、私には好きな人がいるんです」 最初は何冗談を言ってるのかと思った。十五やそこらの小娘が愛だ恋だと抜かすとは片腹痛い。しかも泣き出しそうな真剣な目で訴えられては、ただ突き放すだけで話を終わりにすることは出来なかった。まだ時間はある、ここは素晴らしい余興を楽しませてもらうことにしようか。こちらは大人だから、お遊びに付き合ってやる精神的な余裕があったのだ。 親同士が決めた婚約者、だが相手に不足はなかった。かの大企業、久我商事のご令嬢。年齢こそは離れていたが、その方がかえって扱いやすいというもの。こちらの思うがままに動かすことが出来るではないか。 しかし、あの女。ちまちました外見には似合わず、誠に諦めが悪かった。途中からはこちらも高みの見物を止めて巻き返しに掛かったが、時すでに遅し。相手が現職の教員と言うことで「よもや商品である生徒に手を出すわけはない」と簡単に決めつけてしまったのもまずかった。全く乱れた世の中である、ああなってしまうと手のつけようがない。 思えばあの裏切りこそが、僕の人生の暴落の始まりであった。強力なバックアップと財源を手に入れることが出来ると見込んで手を広げ続けた事業があっという間に立ち行かなくなる。そして残ったのは中途半端なまま中断された開発の数々と、膨大な借金。そして父親はその全ての責任を僕ひとりに押しつけて自分は火の粉から逃れようとした。 ―― 全く、だから女って奴は。 あの娘さえ、こちらの思う通りに動いてくれれば全てが上手くいったのだ。それをどういうことだ、僕のどこが気に入らないというのか。あんなむさ苦しいばかりの大男を相手にして、すぐに音を上げるに決まってる。それなのに孫に甘いあの爺さんは、全てあいつらの言いなりなのだから始末に負えない。ええい、みんなまとめて不幸になってしまえ。最後に笑うのは僕なのだ、僕ひとりでいいのだ……!!
ぽつりぽつりと降り出した雨が、気付けば辺りをしっとりと濡らすほどになっていた。 すっかり暮れた空、ようやく見慣れた町並みまで辿り着くことが出来たときはすでに店を出てから信じられない時間が経過していた。 自分でもどうしてしまったのか分からない。何をあんなに慌てる必要があったのだろうか、もう少しスマートにやり過ごす方法だっていくらでも探せたはずなのに。あいつらの顔を見た途端に、精密に動いていたはずの僕の思考回路が狂い始めた。そうだ、僕は何も悪くない。タイミングが良くなかっただけだ。 ぐしょぐしょに濡れた服が重い、そして心はもっと重い。もうこのまま、雨と一緒に下水口へと流れ落ちてしまいたいのにそれも出来ないなんて。 実の父親に罵倒され、信頼していた側近たちには見放され。そして今度は、ほんの余興程度に考えていた簡単な作業すら立ち行かなくなる。
―― なのに、何故ここまで戻ってきてしまったのだろうか。
ずらりと並ぶ家並みの端、オレンジ色の灯りがともった窓。「日の出ラーメン」ののれんが揺れるその下、小さな人影が見える。 「……あ……」 咄嗟に茂みに身を隠していた。あれはお嬢さんだ、間違いない。背伸びしないとのれんに手が届かないほどの小柄な身体、薄汚れたエプロンにサンダル履き。 「―― ポチ!」 上手に隠れたつもりだったのに、もう見つかってしまった。水たまりを踏みつけるサンダルの音がどんどん近づいてくる。駄目だ、逃げなければ。こんな情けない姿、絶対に人目に晒したくない。頭ではそう分かっているのに、悲しいかな身体がぴくりとも動かなかった。 「ほら、ポチ。そんなところで何してるの、早く出ていらっしゃい!」 トゲトゲの茂みをかき分けて、お嬢さんが進んでくる。何だか本当に犬になってしまった気分、振り返って「ワン」と叫びたい気分だ。いや、いくら何でもそんなことは出来ないが。
ああ、きっと怒鳴られるんだ。今まで何していたのかと聞かれるんだ。 どうやって答えよう、素直に話したところでかなり嘘っぽい理由になってしまう。相手を納得させるだけのもっともらしい言い訳がないかと、この期に及んでも往生際悪く探し続ける僕がいた。 どうしたら許してもらえるのだろう。いや、そもそも許してもらいたいなどとどうして思うのだろうか。別にたいしたことじゃない、これくらいのミス僕に掛かれば何でもないはず。この場はどうにか言い逃れて、あとから改めて詫びを入れれば良いのだ。与えた損害など微々たるもの、いくらか上乗せして支払えばそれで済む。 分かっている、頭では分かっている。でも、背中の向こうから近づいてくる足音に気付いても振り向くことが出来ない。
「―― ポチ……」 うなじに降り注いでいた雨粒の気配が急に止んだ。そして次の瞬間、ふわふわの柔らかいものが背中に貼り付いてくる。 「ごめんね、ポチ」 続いて、信じられない言葉。まさかお嬢さんの方からそんな風に切り出されるとは思わなかった。謝らなくてはならないのは僕の方だ、お嬢さんは何も悪くないのに。 そんな風に思いながら、ようやく振り返る。心配そうに僕をのぞき込むお嬢さんの顔は涙でくしゃくしゃだった。 「そうだよね、まだ慣れてないんだから迷子になることだってあるよ。こんなことになるなら、最初から首輪を付けておけば良かった。そうしたらすぐに誰かに気付いてもらえたのに……良かった、戻ってきて」 お嬢さんはそこまで言うと、またわんわんと泣き出してしまった。こんな風に植え込みにしゃがみ込んでいたら、ふたりとも泥だらけだ。ああ、僕の方はもうすでにとんでもない姿になっているが。
良かった良かったと繰り返しながら、泣き続けるお嬢さん。どんな言葉を掛けたらいいのか分からないまま、僕はその姿を呆然と見守っていた。
つづく♪ |