「はい、これでもう大丈夫。どこで迷子になったって、今度はちゃあんと戻ってこられるからね」 翌朝、仕事着に着替えた僕の首にお嬢さんが巻いてくれたのは「首輪」ではなく「スカーフ」。 恥ずかしいくらい真っ赤なそれは、有名料理店のシェフの襟元に巻かれるよりも二昔くらい前の正義のヒーローにお似合いな気がした。裏には店の住所と電話番号、それから十円玉が一枚縫いつけられている。 「ほら、背中を伸ばして姿勢良く! 今日も一日、頑張るんだよっ!」 まだ少し赤い目のお嬢さんが笑顔で檄を飛ばしてくれる。 雲間から差し込む日差し、僕の新しいスタートに相応しい朝だ。頬をくすぐる風は多少の湿気を含んでいるが、今の時候ならばそれも致し方ない。 「おら、千鶴っ!」 ぼんやりと感慨にふけっていたら、突然背後から荒々しい声が飛んでくる。 「いつまでちんたら犬の世話なんてしてんだっ! さっさと野菜を刻んでしまえ、開店まで時間がねえぞっ!」 カウンタ奥の厨房でスープの大鍋をかき混ぜている親父さんは、ぱりっと糊のきいた仕事着を身につけていた。僕にとっては見慣れない姿ではあるが、よくよく考えればこの人が店のオーナーなのである。だったら、これも至極当たり前の光景だと思わなくてはならない。でも昨日までとはあまりに勝手が違うから、物珍しくてついつい見入ってしまう。 「はいよ、そんなに大声で怒鳴るなって言うの。ポチも驚いてるじゃないか」 対するお嬢さんは慣れたもの。そりゃ、二十年も親子していれば当然か。その後もあれこれと軽口を言い合いながら、何とも楽しそうに作業を続けている。そんなやりとりを何とも眩しく見守ってから、僕は箒とちりとりを手に引き戸を開け表に出た。
昨晩、涙涙の出迎えをしてくれたお嬢さん。思いがけない成り行きに僕はいつまでも信じられない気分でいた。 だがしかし。ガラガラと立て付けの悪い引き戸を開けたとき、店の中にはさらなる「ドッキリ」が待ち受けていたのである。 「……何だ、やあっと戻ってきたか」 この店のささやかな厨房は、カウンタ席のお客と中で調理をする料理人が向き合う形になるように設計されている。一列に並んだガス台や洗い場、そして上の方にも調理器具や食器をしまう棚が造られていて、少なくともお嬢さんよりは上背のある親父さんだから猫背になって覗き込むようにしないと食堂が見渡せない。 「全く心配ばっかかけやがって、いい加減にしろ。付き合わされるこっちはいい迷惑だ」 そう言っている間も、中華鍋を動かす手を止めない。ドスのきいた声も確かに恐ろしかったが、それにも増して信じられなかったのは親父さんの姿であった。だって、普段の日だったら呑んだくれて戻ってきた挙げ句、二階の部屋で大イビキでひっくり返っている時間。ここに来てすでに一週間が経過していたが、一度だってあり得なかった異常行動だ。 「ほら、千鶴。2丁目の木村さんちに行ってこい! 外は雨だからな、気をつけろよっ!」 注文の品がすべて仕上がったのか、親父さんはラップをした皿やどんぶりを手際よく出前ケースに入れていく。何気ないその仕草までがたまらなく物珍しくて目を離せないでいると、視線に気付いたんであろう彼が無愛想な表情で振り向く。 「いつまでそこに突っ立ってるんだ。営業妨害だぞ、さっさと風呂に入ってこい!」
後から聞いた話によれば。 僕が見知らぬ街角をあてもなく放浪していた頃、出前先からの催促電話で異変に気付いたお嬢さんは入っていた注文をひとりでやり終えた後に親父さんを探してあちこちの飲み屋を回ったらしい。ようやく居場所を突き止めたら、今度は人目も気にせずおいおいと泣き出す。これには親父さんもびっくり、気持ちよく回っていた酔いもいっぺんに醒めてしまったと言う。 「久しぶりに身体を動かしたら、えらい疲れた。もう外に出直す気にもなれん」 店を閉めた後に冷や酒を一杯あおっただけで、親父さんはさっさと休んでしまった。明けて今朝もこの通り、お嬢さんをけしかけるほどの勢いで張り切っている。
「一体、どんな風の吹き回しなんだろうねえ」 ドングリ眼で首をすくめるお嬢さん、だけどその表情は本当に嬉しそうだ。そして僕も、笑顔のお嬢さんを見るのが嬉しくてたまらない。昨日は僕のせいでふたりには大変な迷惑を掛けた。どう考えてもあれは僕ひとりの責任である。それなのに、―― 何故こんなにすがすがしい気分になっているんだろう。 「あれえ、ポチ。いいのに、そんなところまで丁寧に拭かなくても」 店先を一通り掃き終えた後、今度は窓拭きを始めていた。曇り硝子なので拭き上げたところで見た感じそう変化があるわけではないが、やはりすっきりと気持ちがいいものである。窓が綺麗になると、今度はその脇の壁が気になってしまう。ぞうきんを一度絞った後でそこをぬぐうと、何たること。古くなった塗料がぼろぼろ崩れてきた。 「うわっ、……す、すみませんっ!」 気を利かせたつもりが、大失敗。とんでもないことになってしまった。青ざめて頭を下げる僕に、それでもお嬢さんはどこまでも優しい。 「いいの、いいの。どーせボロなんだし。もうしばらくで取り壊しなんだから、今更何てことないよ。こんなの誰も気にしやしないって!」 そうは言われても、このままでは済まされない。器物損壊の罪は重い、いくら立ち退き間近だとしても食堂として経営している以上は店の外装も好印象を与えるに越したことはないはずだ。そう考えて今一度表全体を見渡せば、あちらもこちらも塗料が剥げ落ちて全体的にすごいことになっているではないか。 「いっ、……いいえっ、でもっ!」 ああ、身分を隠した我が身が恨めしい。以前の地位にあれば、これくらいの修繕は朝飯前なのに。僕自身が手を下すまでもない、一声掛けるだけでその道の達人と呼ばれる職人が最高の技術で請け負ってくれる。 ―― いや、それは駄目だ。 浮かびかけた名案を自分自身で打ち消し、さらに首を横に大きく振って頭の外に追いやった。今、僕の素性が知れてみろ。もう一秒だってここにはいられなくなる。そんなのは絶対に嫌だ。 「お嬢さん、……その、お願いがあるんですが」 不思議そうな面持ちでこちらを見上げる大きな目。お嬢さんはとにかく瞳の輝きが印象深い人だ。初めて出会った人間も、たちどころに漆黒のその部分へと吸い込まれそうになるだろう。 「お金、少し貸していただけないでしょうか? も、もちろん、きちんと働いてお返ししますからっ!」 何て情けないのだろうか。僕は物乞いをすることすら、躊躇しなくなっている。いきなりの借金申し込みにうーんと首をひねっていたお嬢さんも僕の真剣さに圧されたのだろう、やがてポケットの財布を取り出した。
***
親父さんが厨房を取り仕切りお嬢さんは店内のテーブルの係で僕は出前。最初の日の閑古鳥はどこへ旅立ってしまったのやら、言葉通り「目の回るような」忙しさであった。昼の二時を回ってようやく休憩。奥の畳の部屋で高いびきをかき始めた親父さんを確認してから、僕は行き先も告げずにこっそりと抜け出した。
次の朝、東の空がようやく白み始めた頃に布団を出る。 まだ誰もいない店内を抜けて外へ出ると、静まりかえった町並みがひっそりと夜明けを待っていた。 落ち着いて、落ち着いて。 教えられた手順で、慎重に作業していく。程なく額を流れていく汗、それをぬぐう暇もなかった。
「うわ、ポチっ! 一体、どうしちゃったのっ!?」 数時間後、素っ頓狂な声で店に戻ってくる僕を迎えたお嬢さん。 それもそのはず、寝間着代わりに借りていた親父さんの古着は元の色が分からないくらいに真っ白。完全防備をしていたつもりだったが、それでも手に足に顔に塗料が飛び散っていた。 「いえ、その……すみません。申し訳ありませんが、これでは仕事になりませんので別の着替えを出していただけませんか? それから―― 店の表に出てみてください。あ、まだ直接触っちゃ駄目ですよ?」 それだけ告げると、奥の風呂場に飛び込んだ。ペンキだらけなだけではなく、全身が汗だく。こうしている間も臭ってきそうな感じである。猫の額ほどの脱衣室の鏡に映ったのは、思わず目を背けたくなるほどのみすぼらしい姿。それなのに胸の底から叫びたいほどの達成感が体中を駆け抜けていた。 まさか自分自身の手で壁のペンキを塗る日が来るとは思わなかった。あまりにでこぼこな壁でスポンジローラーも無理だと言われたため、昔ながらの刷毛塗り。しかもあまり時間を掛けられないために、マスキングもせずに一か八かの一発勝負だった。 「すごい、驚いたよーっ! ポチって見かけによらず器用なんだね、専門家みたいに上手に塗れてた。でもどうしたの? 気にすることないって言ったじゃない、あたし」 風呂を出て、そそくさと次の仕事を始めようとしたときにお嬢さんに捕まった。 酸素の足りない金魚みたいに口をパクパクしてる姿が可愛らしいなと思う。でも余裕で微笑み返すゆとりなんて持てず、僕はただ恥ずかしくて俯いていた。 「でも、こんなにお世話になってるのですし。少しでも恩返しがしたかったんです……」 「なぁに、余計なことやってんだか。これじゃあ目立ちすぎて、こっ恥ずかしいだろうが」 いつの間に表に出ていたんだろう、親父さんも引き戸を開けて戻ってくる。その脇っ腹をお嬢さんが突いた。 「その言い方はないだろ? ポチがひとりで頑張ってくれたんだ、お礼のひとつも言ったらどうだい」 親父さんは「けっ」と小さく呟くと、そのまま厨房に戻っていった。そして乱暴に鍋を動かし仕込みを再開する。迷いのないその手つきは、熟練の技を感じさせた。 お嬢さんの言うとおり、この親父さんも以前は大変な働き者でせっせと店を切り盛りしていたに違いない。だけど、一体どうして? 何が彼を酒に溺れさせたのだろう。そんなこと、部外者の僕が訊ねることなど出来ないが、やはり気になる。このまま、親父さんが真面目に働き続けてくれればいいのだが。二度とお嬢さんが悲しまずに済むように。 「じろじろ見てんじゃねえよ、さっさと開店準備しな」 鼻の先に台ぶきんが飛んでくる。僕の反射神経も捨てたもんじゃない、幸い顔面で受け止める直前に手でキャッチすることが出来た。
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でも、今朝は違う。 周囲に気を遣うことも出来ず急ぎ足で仕事場に向かう車体を後ろから見送りながら、どうか安全に目的地まで辿り着いて欲しいと思う心のゆとりがある。少しぐらい仕事が増えたっていいじゃないか、片付け直すくらいたいした手間じゃない。自分の中に芽生えた不思議な心地が何だかとてもくすぐったかった。 振り向けば、ペンキを塗り立ての壁が朝日を浴びて燦然と輝いている。ああ、眩しい。どこから見ても素人仕事。多少の寝不足という代償も伴ったが、やはり実行に移して良かったと思う。何より、お嬢さんが喜んでくれた。もうそれだけで十分すぎる。
僕は一体どうしてしまったんだろう。こんな感情、今まで抱いたことがあっただろうか。 確かに以前の暮らしでも、その業績を手放しで褒められることなど日常茶飯事の出来事であった。社長の息子として皆が持ち上げるのは当然であるが、何も全てが全てお世辞で塗り固められていた訳じゃない。僕はボンクラの二世ではなかった、恵まれた環境に溺れないだけの確かな知性と教養を伴っていたのだ。 「ご立派です、毅(たけし)様。もう私がお教えすることはなくなってしまいました」 父親が連れてくる家庭教師たちは、いつも決まって最後に同様の言葉を口にした。何とも耳に心地いい響き、しかし僕が現状に甘んじることは決してなかった。目標をクリアしたそのときには、また新たな頂を定める。どこまでもどこまでも登り続けて、誰よりも高い最高の場所まで辿り着くことを願っていた。そして、それを達成するだけの自信も絶えず持ち合わせていたのだ。 「褒められて当たり前」―― いつの間にかそんな気持ちになっていた気がする。少しくらい失敗しても、すぐに盛り返すことは出来るはず。天はいつも自分に味方しているのだなどと根拠のない自信すら生まれていた。時間を掛けて知恵を絞って綿密に積み上げた城がそう簡単に落ちるはずもない。 そして。―― あの日、全てが崩壊した。 何が悪かったのか、その理由は今でも分からない。少なくとも、僕ひとりが責められる問題じゃないと思う。それなのに父親は、全ての責任を自分の息子であり次代を背負う後継者である僕に押しつけた。あんな奴が経営する会社に明日はない、今はまだどうにか持ちこたえているようであるがこの先は危ういものだ。 「偉いね、ポチ」 お嬢さんは僕の全てを受け入れてくれる。慣れない仕事で失敗することも多いのに、決して見捨てたりしない。とんでもないヘマをしても絶対に許してくれるのだ。そんな人間には、今までひとりも出会ったことがなかったと思う。父親も、そして母親すらも。僕の成功だけを喜び、失敗は決して認めなかった。 あんな奴ら、こっちからさっさと見限ってやる。せいぜい悪あがきを続けるがいい、終いに何もかもを駄目にしたところで僕の知ったことじゃない。「どうしたらいいんだ」と泣きつかれたところで、同情の余地もないぞ。まあ……「どうしても」と言うなら戻ってやらないこともないが、今はまだその時ではない。 僕は生まれ変わることが出来るのだろうか。この町で、一から出直すことは可能だろうか。
「ポチーっ、そろそろ表の窓を開けてくれる? 今のうちに店の中に風を入れておこうと思うの」 お嬢さんの身長では、高い位置にある窓にはとても手が届かない。僕が来るまでは椅子に乗ったりテーブルに上がったりとかなり危険なやり方をしていたと言う。でも、これからはもう大丈夫。僕に出来ることなら、何でもして差し上げたい。 「はいっ、今すぐに!」 褒められるためじゃない、喜んでもらうために頑張るのだ。新たなる喜びを見いだした僕は、また一歩「犬」に近づいていた。
***
それだけじゃない。 この店には、お嬢さんでも親父さんでもない第三者の気配があるのだ。そんなオカルトチックなことを言い出して、と笑われるかも知れないが思い違いなどではない。たとえばふたりの会話に、常連のお客とのやりとりの中で、僕の知らない人間が見え隠れしている。でも、誰もそれを僕にはっきりと教えてくれようとはしなかったし、そうなってしまうとこちらから訊ねることも出来なかった。
「よぉ、ポチ」 そんなある日。 一日の仕事を終えた後にふらりといなくなった親父さんが、小一時間ほどして戻ってきた。お嬢さんが風呂を使っていることを確かめると、奥の畳の部屋に手招きして僕を呼ぶ。そしてもっさりしたその外見には似合わない乙女チックな包み紙を開いて、中身を取り出した。 「どうだい、これ。千鶴に似合うと思わねえか?」 それは。多少時代がかった花柄プリントのワンピースだった。でもレトロな雰囲気が小柄なお嬢さんにとても良く合いそうだ。日に焼けた肌にはひまわり色のそれが相応しい。親父さんにしてはかなりのセンスだと思う。 「は、はいっ! でも……、どうして?」 僕の反応が気に入ったのだろう、親父さんはいつになく上機嫌で返事をしてくれる。 「明後日の土曜が、あいつの誕生日なんだ。ま、大したことはしてやれねえけどな、たまには無駄金を使うのも悪かないだろう。ちったぁ色気でも出せって言うんだよ、あのじゃじゃ馬が」 反射的に壁のカレンダーを見ていた。いつの間に誰が付けたのだろうか、確かに今週の土曜に赤丸がしてある。そうか、……誕生日。お嬢さんはいくつになるんだろう、それすらも訊ねたことがない。 「そう……ですか」 当日は夜まで店がある。大人三人でホールのケーキを囲むのも変な感じだし、実現しそうにもない。……だけど。先ほど一瞬だけ見た鮮やかな色彩が、脳裏に焼き付いて離れない。
「んじゃ、そろそろ仕込みの続きを始めるとすっか」 何事もなかったかのように、厨房へと下りていく親父さん。この頃では夜のうちに仕事を進めておかないと間に合わないと言う。しばしの仮眠を取ったあとで、明日のための作業が夜中まで続く。 「あっ、あのっ……!」 少し前までだったら、半径三メートル以内に近づくことすら恐怖だった。今だって、面と向かって話をするのは怖い。だけど、僕は勇気を振り絞って声を掛けた。 「何だ」 案の定、面倒くさそうに振り向く親父さん。その眼差しが鋭すぎてびびってしまう。握りしめた拳の内側がじっとりと汗ばんだ。 「折り入ってお願いがあるんです、どうか話だけでも聞いていただけますか?」
つづく♪ |