四方八方敵だらけ。 こんな場所に、長居が出来るはずもない。どうにかお人好しな住人の隙をついて、窓からでも逃げ出すのだ。そのあとは、誰かに連絡してとっとと迎えに来てもらおう。 そうは思ったが、目と鼻の先のカウンターでは店主である親父さんが大いびきで寝ている。別に寝ているんだから構わないと思ってはいけない。丸くうずくまった背中には何とも形容のしがたいオーラが漂っている。それが何とも恐ろしい。僕が怪しい動きなどしたら、容赦ないという感じであった。 しばらくは後頭部がガンガンと痛み、頭が異様に冴え渡ってどうしようもなかった。だが、そのうちに医者のくれた薬が効いてきたのだろう。僕は半ば無理矢理に、と言った感じで眠りの国にいざなわれていった。
ようやく目が覚めたのは、翌日の昼過ぎ。 とうの昔にあの親父さんの姿は消え、昨日と同じようにお嬢さんがたったひとりで店を切り盛りしていた。ああ「切り盛りしている」という形容は妥当ではないかも知れない。何故なら、そう広くはない店内に、昼時であるにもかかわらず客のひとりもいないのだ。 「あのー、お嬢さん……?」 休憩用のパイプ椅子に座り込んで。ふわわわっと、猫のように伸びをした背中に声をかける。彼女は片手では覆いきれないほどの大あくびをかみ殺しながらこちらを振り向いた。 「あー、ポチ。おはよう、おなか空いた?」 一緒にお昼にしようかー、ラーメンでいいかな? そんな風に訊ねながら、慣れた手つきでプラスチックのラーメンどんぶりを取り出す。 「ほら、お待たせ! お代わりだってすぐ出来るから、遠慮しないで。たくさん食べて、早く元気になるんだよ?」 昔ながらの丸いちゃぶ台を部屋の隅から運んできて、ふたりの間に置く。黒光りしたその表面にはいくつものへこみや焼けこげがあって、長いこと使い込んでいるのがよく分かる。 「はい、いただきます! ポチ、ご飯の前にはちゃんと挨拶をしなくちゃ駄目だからね」 僕の目の前には使い捨ての割り箸が置かれていたが、お嬢さんのは剥げ剥げの塗り箸だ。今日の服も着古してあちこちがすり切れかかっている長袖Tシャツに膝の薄くなったGパン。しかもそのどちらもがかなり大きめで小柄な身体に全く似合ってない。 「は、はあ……。い、いただきます」 言われるがままに、ラーメンどんぶりに手を合わせる。僕のどんぶりにだけチャーシューが三枚乗っかっていた。どういうことだろう、これも「特別料金」として身体で返さなくてはならないのだろうか。 ああ、情けない。どうしてこんな風にみみっちくいちいち怯えているのだろう。思えば生まれてこの方、食べるものや着るものの心配をしたことなど皆無に等しかった。自由に使える金などいつも有り余るほどあって、多少無理をしたところで懐が痛むことなど有り得ない。光り輝く金色のカード、あれは特注スーツと一緒に何処へ行ってしまったのだろうか。 それより何より、あっという間に僕の名前が「ポチ」で馴染んでいるのはどういうことだ? もうちょっと、その、少しは躊躇しつつ遠慮がちに……という素振りがあってもいいようなものだが。 冷たい気持ちでレンゲにすくったスープをすする。その刹那、口の中に広がっていく奥深い香り。 「美味しい! ああ、すごく美味しいです……っ!」 そう言えば、昨日も同じようなことを感じた気がする。だがこれは食事を恵んでもらった手前のお世辞などではないのだ。老舗と言われる折り紙付きの店でいただく中華にも引けを取らないような美味しさ、火の通し具合もほどよく味付けにも安っぽい調味料ではとても出せないような豊かなコクがある。そしてこの、しこしこの手打ち麺はどうだ。一度食べたらやみつきになりそうな食感ではないか。 「とても美味しい……のですが、その……」 一気に半分くらいを胃に収めて、ハッと我に返る。 ああ、そうだ。目覚めたそのときに是非質問したいことがあったのである。思えば昨日から不思議で不思議でたまらなかったこと、今聞かずにいつ聞くのだ。いつまた、あの恐ろしい親父さんが戻ってくるか知れないのに。 「どうして、ここのお店にはお客さんが来ないんですか? あの時計狂ってませんよね、今12時45分ですよね……?」 昼時、正午から午後一時までの間と言えば、オフィスの昼休みである。交代で昼休憩を取る職場もあるだろうが、まあこの時間帯にランチを提供している店は何処もかき入れ時の大賑わいになるはずだ。僕の舌に間違いはない、ここのメニューはどれも美味い。なのにどうして、客が来ないのだ。 「えー、そうかなあ。でもね、この辺は工場とか多くてね、どっちかというと昔から出前が中心なんだ。さっきもね、運んだんだよ。ラーメン三つと餃子を二皿。ポチは寝てたから知らなかったんだね――」 そう言い終わると同時に、カウンターの隅にある黒塗りのダイヤル電話が鳴り出す。お嬢さんはとくに急ぐ素振りもなく、ひょこひょことそこまで辿り着いた。 「はいっ、日の出ラーメンですっ! あ、まいどっ! いつもどうもです、はいっ、分かりましたー!」 がちゃんと乱暴に受話器を置く音。おいおい、あれでは相手に対して失礼ではないか、仮にも注文してくれたお客さんなのに。別に僕が心配することでもないのに、お嬢さんの一挙一動が気になって仕方ない。しかしいちいち突っ込むのもどうかと思い、ちまちまとチャーシューを食べていた。 「よーし! やったね、ポチ! 今日は二件目の注文だ、頑張らなくちゃあねっ!」 お嬢さんは先ほどと同じように上の棚からラーメンのどんぶりを取り出して、冷蔵庫から野菜も出してくる。ガスの火を付けたあとで、一気に野菜炒めを作り始めた。少し背伸びした体勢、お嬢さんが使うにはガスレンジが少し高すぎるらしい。あれでは腰を痛めてしまうのではと不安になる。 こっちがはらはらしているうちに、お嬢さんは野菜ラーメンをふたつと餃子を二皿作り終えた。そして出前用の銀色のケースの蓋を開け、それらをこぼさないようにセットする。もう一度確認してから元通りに蓋をしめると、そこで初めてこちらを振り向いた。 「んじゃ、ちょっと行ってくるね。ポチ、お留守番よろしく!」 突っかけサンダルを履いて、飛び出していきそうになる小さい背中。しかし、僕はそこではたと気付いた。 「あ、あのっ……! 待ってください、お嬢さんっ! ええと、いらっしゃらない間に注文の電話が掛かってきたら、僕はどうしたらいいのでしょうか!?」 ぱたぱたと狭い店内に響いていたサンダルの音が止まる。あっという間に辿り着いた入り口のガラス戸に手を掛けて、お嬢さんはのほほんと振り向いた。 「あ、そっかー! ポチがいれば、私がいない間も注文を取れるんだね。良かったー、助かるわ。頑張ってねー!」 ひらひらと手を振って、そのまま外に飛び出していく。途方に暮れた僕を嘲笑うかのように、軽快な電話のベル音がタイミング良く鳴り響いた。
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ほんの5分かそこらお嬢さんが不在の間に、僕は2件の注文電話を受けた。たったそれだけの仕事をこなしただけで、精も根も尽き果てる。どういうことだ「メンみっつ」って。「レバ炒」「エビチャー」とか省略しすぎ。お客と店の人にしか通じない秘密の暗号があるなら、最初からしっかり教えてくれなきゃ駄目じゃないか。 「あー、お久しぶりですっ! はいっ、はいっ、……あーすみませんっ! ちょっと今無理、混み合っちゃってるから他を当たって。ごめんなさーい、またよろしく!」 しかし、僕の目の前で。 出前から戻ってきたばかりのお嬢さんは、お客さんの注文の電話をあっさり断ってしまった。呆然と立ちつくす僕に、メモを確認しながらにこにこと笑いかけて。 「ありがとうー、ポチっ! いっぱい注文取れたね、偉い偉いっ! んじゃ、また頑張らないとねー!」 だらんと伸びきったシャツの袖をまくり上げ、お嬢さんは腕をコキコキ回す。蒸し暑い梅雨空の元で全力疾走したためか、額どころか顔全体が汗だらだらだ。それを薄汚れたエプロンで拭う。何ともまあ、勇ましい姿だ。娘がこんなにひとりで頑張っているというのに、父親の方はどうしているのやら。飲んだくれてくだを巻くのは勝手だが、これでいいのか。 「あの、……その。お嬢さん?」 忙しく働いているところに話しかけるのはどうかと思うが、これが訊ねずにいられるものか。 「今の電話、注文を断ったんですよね? いいんですか、そのようなことをしたら次から頼んでくれなくなるのでは……」 こんな小さな店、馴染み客との信用で成り立っているようなものである。それをあっさりと断ったばかりか他を当たらせるとはいかなるものか。 「えー、何言ってるのよ。仕方ないじゃない、そんなの」 お嬢さんには僕の心配など全く伝わらないらしい。細腕で中華鍋を豪快に振り回しながら、カラカラと笑う。 「今のはね、川向こうの駐在所のお巡りさん。パトロールに出掛ける前のほんの数分で昼ご飯をかき込まないといけないの。だから、すぐにでも出前しないと間に合わないってこと。でも、これだけ立て込んでたら無理よ。諦めてもらうしかないわ」 まあそれは正論だと思う、だが無理を承知で頑張らなければならないときもあるだろう。だいたい、いかんせん人手が足りない。昼のかき入れ時だけでも、どうにかならないものか。 「――さ、出来上がりっと! んじゃ、また言ってくるわ。電話番よろしくね、ポチっ!」 お嬢さんが表へ飛び出していくのと同時に、またも電話がけたたましく鳴り響き始めた。
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お嬢さんは配達から戻ると、すぐに不在の間に僕が受けた注文の品を作る。そしてまた配達に出掛けて、戻って調理して……を三時のおやつ時まで続けた。やっと電話が大人しくなった頃に、そのことを知っているかの如く親父さんがふらふらと帰ってきた。 「千鶴っ! おいっ、水だっ、水!!」 毎日のことで慣れているとはいえ、やはりかなりの体力を消耗したのだろう。しばらくは椅子に座り込んだまま微動だにしなかったお嬢さんも、その声を聞いて跳ねるように立ち上がった。 「ああん、馬鹿だねえ! ほら、父ちゃん! 寝るなら布団だよ、布団!」 そしてまた、昨日と全く同じようなやりとりが繰り返される。親父さんの口から「サバクラ」という言葉が飛び出し、それをお嬢さんが「真倉」だと訂正する。そのたびに僕の心臓がびくびくと大きく振動した。ああ、恐ろしい。やはりこんな場所にいつまでもいられない。キリキリ痛む胃を抑えながら、僕はどうにか恐怖に耐えた。 「もー、仕方ないねえ。こんなに飲んだくれて、稼ぎのほとんどがなくなっちゃうじゃないか。ごらん、ポチも驚いてるよ。少しはしゃんとしたらどうなんだい?」 娘の罵声もそのまま子守歌なのか、親父さんは程なく気持ちよさそうにいびきをかき始めた。山のような背中にこれまた古びた上着を掛けると、お嬢さんは大きな溜息をつく。 「これでもさ、昔は本当に働き者のいい父ちゃんだったんだよ。あたしたちのことも可愛がってくれてさ、それが今では……本当に誰が悪い訳じゃあなんだけどね。どうしてもどこかに怒りをぶつけなくちゃ収まらないんだろうよ」 毎日重い中華鍋や寸胴鍋を持ち上げて、サンダルの音もけたたましく町内のあちこちを出前して回るお嬢さん。若さの勝利なのだろう重労働でも肌つやの衰えも感じないが、それでもだいぶ疲れが溜まっているに違いない。
何というか、……何というかだ。 いいのだろうか、こんなで本当にいいのだろうか。精一杯の頑張りが、虚しく空回りしている。軋みをあげてかみ合う相手もなく回り続ける歯車。あと数ヶ月後にはそれが跡形もなく消え失せるのに。 僕はきっと気弱になっているんだ、だからこんなことを考えたりする。闇雲に手を広げ続けた事業が少しばかり躓いたからと言って、その責任の全てを僕ひとりに押しつけて口汚く罵った父親。その影で何も言えない母親、側近や部下たち。誰もかもが自分から去っていく、あとには何も残らない。どうにでもなれ、僕を捨てたことを裏切ったことをあとで後悔すればいいと思った。 ――と、いうかだ。 やっぱり問題だと思う、この効率の悪いやり方。お嬢さんが必死で頑張っているのは分かるが、やはり限界がある。このままでは売り上げが全く期待できないどころか、働けば働くほどにさらなる赤字を増やすだけじゃないだろうか。商いには良くあるカラクリ、これに気付かないといつか借金まみれの蟻地獄に陥ってしまう。
「どうしたの、ポチ。いきなり難しい仕事をして、顔面神経痛になっちゃった?」 少しばかり強ばった表情をしていただろうか、しかしいくら何でもあんまりである。僕の顔をのぞき込むお嬢さんの表情は何処までも真剣だった。
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次の日、今度はちゃんと朝の7時に目が覚めた。まああれだけ惰眠をむさぼり続けたら、いい加減飽きるのも無理はない。どこまでも自堕落に走るのも悪くないとは思ったが、今日はすっきりと人間らしい生活を送ろうと決意した。 「何、どうしたの? お金だったら貸せないよ、ポチ」 ラーメン屋だとは言っても、三度三度中華メニューばかりが出てくるわけでもないらしい。今朝のテーブルに並んでいるのは、鮭の切り身に味付け海苔、それからワカメのみそ汁だ。どんぶりに山盛りのキムチ漬けもさりげなく置かれていて、これがまた美味い。それを箸でつまみつつ若い女性にしては大振りな茶碗に山盛りのご飯を、お嬢さんはばくばくと豪快に平らげていく。 「いえ、……その。そう言うんじゃなくて。もしもこの辺りの詳細な地図があれば貸して頂きたいんです」 お嬢さんは僕の言葉の真意は全くくみ取れない様子であったが、とりあえず電話台の下から日に焼けた市街地マップを出してくれた。 「なあに、ポチ。元気になったから、散歩にでも行きたいの? だったら、三丁目の酒屋でみりんをひと瓶買ってきてよ。もうじきなくなりそうなんだ、領収証ももらってきてね?」 二杯目のご飯を茶碗に盛りながら、お嬢さんは僕に訊ねてくる。朝から素晴らしい食欲だ、その辺の大男に張るくらいの量ではないだろうか。 「いいえ、そう言う訳じゃなくて……」 家族用のキッチンというものはこの家に存在しないらしい。お嬢さんの背後にある店の洗い場には一人前用の食器が片づけられていた。 「もう身体も元通りになりました。今日からは電話番だけでなく、出前の仕事もさせて頂きたいと思います」 未だに身体の節々は多少痛むが、これは打撲の後遺症と言うよりも煎餅布団が原因だと思う。昨日一晩寝ながら考えたが、料理人の腕を仕込んでもらうよりは配達に回った方が手っ取り早い。僕が出前を届けている間にお嬢さんが次の料理を作っていれば、時間のロスも少なくより多い注文をさばけるはずだ。 「えー、でも大丈夫? この辺って、だいぶ入り組んでるし。初めての人間には難しいと思うけど」 ほらほら、思った通り。お嬢さんはとても心配そうな顔になる。この辺までは想定内、少しくらいのサプライズがあった方があとの感動も大きいと言うことで。 これは自慢ではあるが、僕は「地図を的確に読める男」である。海外に視察に行ったときなども、側近の者たちがまごついて道を間違えそうになるところを何度も救った。だから、かなりの土地勘もあると思う。 「以前こちらで働いていた方々ほどはお力になれないと思います。でも、精一杯働かせて頂きますから、思う存分こき使ってください」 おお素晴らしい謙譲の心、これぞ日本人の美学ではないか。どこまでもへりくだり控えめに振る舞ってこそ、成果を上げたときに相手の感動が大きくなる。それくらいは計算済みだ。 「そう? じゃあ、近所の簡単なところからお願いするわ。でも、無理はしちゃ駄目よ?」 お嬢さんは僕の勢いに圧されたのか、渋々と頷いてくれた。
よしよし、これでいい。あとは、ちょいちょいと頑張って、持ち前の豊かな才能で驚かしてやろう。今日一日で腰が抜けるくらい売り上げが倍増すれば、さすがの親父さんも心を入れ替えるはずだ。僕が去ったあとには有能な人間を新たな人員として送り込んでやればいい。 幸い、こちらの顔は割れていない。僕がいくら通りを歩いたからと言って、だれも真倉の人間とは気付かないはずだ。周辺の地理に明るくなれば、的確な逃げ道も掴める。そのためにもまずは地図を手に入れる必要があった。そんなのモバイル検索をすればあっという間だが、携帯が紛失してしまった今となってはアナログに頼る他はない。 「真倉の名を汚した不届き者」――父親は僕をそう罵った。偉そうに何をほざいているんだか、そんなに「真倉」が素晴らしいのか。確かに事業を拡大してここまで会社を成長させた彼の業績は大きいと思う。だが、それを自分ひとりの手柄と思っているとは片腹痛い。 場末のラーメン屋で「白馬の王子様」を気取るのも悪くない。必死で頑張るお嬢さんに、ひとときの夢を与えてあげよう。僕が去ったあとも彼女の心には麗しい後ろ姿がいつまでも焼き付いているはずだ。もしかして、本気で惚れられたりして。「行かないで!」とか泣いてすがられるのも悪くないなあ……。
思わずこみ上げてくる笑いを必死でかみ殺す。梅雨時の曇天の空も何のその、僕は久々の晴れやかな気持ちを味わっていた。
つづく♪ |