「お帰りなさいませ、専務」 外回りより急ぎ戻ると、部屋に残っていた部下たちから次々と声が掛かる。九月も半ばだというのに、まだまだ夏が続いているような蒸し暑さ。クールビズを心がけた控えめ冷房では、額に浮かんだ汗を取り除くことも出来ない。 「ありがとう、君のまとめてくれたファイルはとても分かりやすいね。助かるよ」 席に着くと同時にコーヒーを出してくれた秘書に礼を言い、またすぐに書類に目を落とす。ああ、やはりこのように話が食い違っていたのか。これでは上手くいくはずがない、こちらの申し出が180度逆に伝わっていてはややこしくなるばかりだ。 すぐに赤ペンで幾つかの表に印を付け、担当の部下を呼ぶ。そこまでの所要時間は部屋に入ってわずか五分。 「今チェックをした部分だけを抜き出して、少し大きめの書体にして社長に回してくれ。僕からの至急のものだと忘れずに伝えて欲しい」 手早く指示を終えた後、すぐに次の事項に移る。 「専務、鬼頭商事の岩田部長から二番にお電話です」 左手に受話器を持ち、右手でメモ書きのチェックを続ける。本来ならばこのような「ながら」電話は相手に大変失礼になるが、今回の部長はただ仕事が上手く進まない愚痴を言ってきているだけだ。こちらが忙しいのを分かっていて掛けてきているのだから、多少のことには目をつむってもらおう。ただし、以前から懇意にしている間柄だ、話は最後まで辛抱強く聞くべきだ。
早いものでこちらに舞い戻ってから、二月以上が過ぎている。 当座は多少の混乱もあり、元から自分のことを良く思っていなかった一部の部署からは追い出しにも似た嫌がらせ工作が続いた。だが、僕はそのような暇人たちと対等にやり合うのは時間の無駄だと判断した。相手も全く挑発に乗らない僕に、とうとう諦めてくれたらしい。この頃は平和すぎて拍子抜けをしているほどだ。
「こちら、センタービル建設の件の見積もりです。当初と比べるとかなり削り取られたと思いますが、如何でしょうか。何かお訊ねの箇所があれば、こちらに連絡いただきたいとのことです」 円筒形で薄紫色の上品な外観、地方都市の風景に馴染むものに変わっていた。容積もかなりコンパクトになり、これなら地元の反対もそれほど強いものにはならないであろう。初めから、きちんと双方が話し合って進めていればこのような混乱はなかったのだ。「開発してやっている」という上から目線の驕りが、いつか大切なことを忘れ去らせていた。 このほかにも、少し頭を冷やしたり見方を変えれば相手の言い分が少しずつ分かってくるものもあり、またいくら考えたところで平行線を辿るばかりの事項もあった。とにかくは「実施する」か「中止にする」か、その見極めが重要。甲乙付けがたいものもあったが、短い期間にかなり煮詰め進めるプロジェクトは半分以下に減らした。ここまで縮小すれば、あとは借入金などで立て直しが可能だろう。 「専務、『みどりの杜いこい郷』再開発の件、重役会議で全員一致で了承されたそうですね。おめでとうございます」 こちらから話すまでもなく、このように部下からねぎらいの言葉が出てくる。以前はあまり感じたことのなかった心のふれあいである。「ありがとう」と軽く頭を下げると、また目の前の仕事に戻っていった。 「専務が変わった」「まるで別人を見ているようだ」―― そんな話がそこここから聞こえてくる。自分では特に何が以前と違っているつもりもないのに、おかしなこともあるものだと思う。まあ、言いたい奴には言わせておけばいい。僕は自分の信じた通りの道を真っ直ぐに歩くしかないのだから。 「来週火曜の沖川建設との合同説明会の件ですが、予定通りで宜しいでしょうか? 参加者の人数とお弁当の数が合わないと先ほど連絡が入りました。こちらの指示をされたのは専務でしたよね、間違いはございませんか?」 参加者の一覧表が机の前に広げられる。それをざっと見渡して、僕は大きく頷いた。 「そのままの数で構わないよ。何、ひとつくらい弁当が足りなくたってそこは社内でどうにかすればいいだろう。くれぐれも外部の方に失礼がないように取りはからって欲しい」
―― さあ、いよいよだ。
以前にも増した僕の働きぶりに、社内からは「今や社長もしのぐ貫禄」と評されるようになっていた。ただ心がけをちょっと変えただけで、ここまで信頼を取り戻すことが出来るとは驚いてしまう。社長である父は最近では持病の腰痛やら内臓の疾患やらで通院や検査入院も頻繁に行うようになり、僕が社長室で留守を守ることも増えてきた。そろそろ本格的に世代交代の時が来ているらしい。 一仕事を終えると、僕はゆっくりと席を立ち北の窓に向かう。地上十五階の高さから見る空は驚くほど澄み切っており、その遙か向こうまでを見渡せるような気がする。 水色ににじんだ向こうにある町に、その後一度も連絡を入れてはいなかった。夜逃げ同然に飛び出してきて、一体どうなったのかとても気がかりではある。でもこれは、お嬢さんとの約束だ。絶対に守らなくてはならない。
胸のポケットに忍ばせた、赤いスカーフ。あのとき縫いつけられた十円玉もそのままだ。
***
―― もしも、全てが上手くいかないことがあっても。それはそれで仕方のないことなのだ。 ここに来て、いきなり弱気な自分が顔を出してくる。僕はやるべきことは全てやった、だから少しも後ろ暗いことなどないのだ。そういくら自分に言い聞かせたところで、不安は収まらない。だけどやはり、前に進むしかないだろう。 駅前ロータリーの正面奥に、真新しい看板が見える。「『みどりの杜いこい郷』再開発計画」と書かれた文字が誇らしく胸を張っていた。 軽いボストンバッグを手に、ゆっくりと歩き出す。僕の行く手には朝日を眩しく浴びた、修復中の町並みがあった。商店街のどの建物も周囲にパイプの足場が組まれていて痛々しいが、それももうしばらくの辛抱だろう。もともと、昔ながらの建築で骨組みだけはしっかりしているのだ。そこを補強して整備すれば、大金を掛けなくてもすっきりと生まれ変わるに違いない。
そして。 一番端のラーメン屋の前で、僕はぴたりと足を止めた。
「なあに、父ちゃん。まだそんな寝言言ってるのかい? いい加減にしろよな、男のくせにいつまでもだらしないったらありゃしない……!」 薄いガラス越しに懐かしい声がする。それに続くぼそぼその返答は残念ながらあまりよく聞き取れなかった。たったそれだけのことなのに、もう涙が溢れそうになる。こみ上げて来るものを必死で押さえ込もうとしたそのときに、がらりと表のガラス戸が開いた。 「―― ポチ」 お嬢さんの目は今にもこぼれ落ちそうに大きく見開かれていた。手にしているのれんもそのまま。次の言葉を探すことがどうにも出来ない様子だ。 僕の方もすでに胸がいっぱいの状態。どうにか次の言葉を告げるために、大きく深呼吸をした。 「突然ですみません、……その、ただ今失業中で仕事を探している身なのですが、こちらで雇ってはいただけませんか。お願いします、まだ分からないことばかりですが一生懸命働きます。どうかお役に立たせてください……!」 こう言うときは土下座をして頼んだ方がいいのだろうか。だがしかし、通勤の人影がぽつぽつと現れ始めた通りではあまりにも恥ずかしすぎる。いや、恥ずかしくたって何だって、やろうと思えばすぐに出来ることであるが。 「は、……何言ってるのかい? いい加減にしろよ」 しかし。 思い切り低く下げた頭を上げると、表情の固まったままのお嬢さんから吐き出されたのはそんな言葉だった。強く突き放されるような冷たさ、そのまま店の奥に引っ込んでしまいそうになる。 「えっ、……ちょ、ちょっと待ってください! その、どういうことですか、それは……!?」 慌てて店の中に飛び込んではみたが、もうそこにはお嬢さんの姿はなかった。その代わり、仕込み中の親父さんがのんびりと作業を続けている。 「よぉ、ポチ。長い散歩だったな」 彼は顔色ひとつ変えずに、厨房の隅にあるロッカーを開く。そしてハンガーに掛かったままになっていた調理着を手に取ると、こちらに投げてよこした。 「まずは、上に行ってこい。話が付いたら、いつも通りに仕事を始めろよ?」 その言葉は、階段を駆け上る背中で聞いた。
「あのー、……お嬢さん」 部屋のふすまはぴったりと閉ざされたまま。あの日のように「入っていいよ」の声はない。でも、僕はあらん限りの勇気を出して、そろそろと開いた。首が入るくらいの隙間になったところで覗き込むと、お嬢さんはこちらに背中を向けたまま、部屋の隅でうずくまってる。 「何やってんだよ、あんたなんてもう用はないんだからね。さっさと自分の家に戻りな? こっちは金持ちの遊びに付き合ってやる義理もないんだからさ」 ここまで冷たく突き放されるとは考えても見なかったから、さすがにうろたえた。だがここで負ける訳にはいかない。決死の覚悟で部屋に踏みいる。 「父ちゃんなんてさ、今朝も『ポチの戻ってくる夢を見た』なんて訳の分からないことをほざいてるんだよ? あんたさ、少しは年寄りのことも考えておやりよ。ぬか喜びをさせて、はいさようならじゃ可哀想だとは思わないのかい? あたしはいいよ、別に最初からあんたには何の期待もしてないし……だから本当、戻ってきて何て欲しくなかったのに」 小さな背中が震えている。確かに言葉では僕は完全に拒絶されていた。だが、真実はそれだけではないこともすでに知っている。何故なら、僕とお嬢さんはあの瞬間から全てが繋がっているからだ。 「でも……もう他に行く当てはないんです。仕事は全て、昨日付で遠縁の者に引き継いできました。話を切り出したときに父は多少難色を示しましたが、それまでの僕の業績を認めて最後は円満に解決したと思います。
僕はお嬢さんにもう一度会いたかった、だけどお嬢さんはちゃんと任された仕事をやれと言う。だから、必死に頑張った。もう倒産しか道がないと言われていた会社をどうにか建て直し、これからもやっていけるようにとプロジェクトから人事から全てにメスを入れた。迷っている暇なんてない、とにかく一心不乱に頑張ってきた。早く会いたくて、お嬢さんに会いたくて。 今後僕がいなくても、会社は存続していくだろう。でも僕にはお嬢さんがいないと駄目なんだ。父親から社員からの信頼は回復したが、それでもお嬢さんの存在に勝るものはない。
僕はもう完全に、お嬢さんの「犬」になってしまっている。
「そんな……こと、絶対に信じられない。きっとポチはまだ出て行っちゃうんだ、だからそう言う日が来るんなら、最初から一緒にいない方がいい。だって、……だって、ポチがいなくなったあと、本当に寂しかったんだよ。自分から切り出したことだったのに、本当に辛かったんだよ。もうやだよ、あんなの」 お嬢さんは僕にとって太陽のような人だ。温かくて優しくて、心の芯から幸せにしてくれる。だから、その笑顔を守るために、僕も精一杯頑張りたいんだ。 「分かりました」 僕はさっきから握りしめていたものを、お嬢さんの鼻先に突きつけた。もちろん、向こうを向いたままの人だから、隙間から腕を突っ込むいう荒技で。 「でしたら、もう一度。お嬢さんの手で、僕に首輪を付けてください。もうどこにも行かないように、迷子になってもちゃんと戻ってくるように。僕をお嬢さんだけのものにしてください」 真っ赤なスカーフ、そこに書かれた「日の出ラーメン」の店名と電話番号、そして縫いつけられた十円玉。 「……ポチ……!」 振り向いたお嬢さんの顔はもうぐしゃぐしゃだった。それを見た僕の顔も同じくらいぐしゃぐしゃになる。小さくて柔らかい身体、そっと抱きしめる。その先のことを想像しないように、僕は必死で堪えた。
「あのさ、……まずはポチの本当の名前を聞かなくちゃね」 涙がようやく止まったとき、お嬢さんが急に思いついたように言った。 「え……」 その瞬間まで。僕はそんなこと全く考えていなかったから、何だかとても不思議な気持ちになる。お嬢さんが僕を呼ぶ名は「ポチ」でいいような気がしてならない。でも、正直にそう告げたら、お嬢さんは真っ赤になって俯いてしまう。そうして小さな、本当に小さな声でこう言うのだ。 「だって、あたしもポチにはちゃあんと名前で呼んでもらいたいんだよ。その方が……ずっといい」
よく分からないけど、つられてこちらまで赤くなってしまうのはどういうことだろう。 ふたりして、あっという間に耳まで真っ赤。やがてしびれを切らした親父さんが階下から大声で僕たちを呼ぶまで、向き合ったままずーっとそんな風にしてた。 おしまい☆ (070810) |
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