「今年の夏祭り、どうするんだ?」 あれは高校に入学した年の夏。部活で遅くなった私は帰り道でひょっこりと篤郎と一緒になった。同じ学校に通ってるんだからそれなりに顔は合わせるけど、朝練もあるし通学時間帯が一緒になることは稀だったんだ。 「あれ、そうか。もうそんな季節だね」
篤郎に切り出されるまで、忙しくて忘れきっていた。 山の中腹にある神社の境内から参道まで延々と続く屋台は夏の初めの風物詩。町を挙げての大騒ぎ、都会に働きに出ている人たちも帰ってきて、久しぶりに溢れるばかりの人並みが見られるお祭りだ。大きな打ち上げ花火なんかはやらないけど、子供会主催の花火大会はある。去年までは、いつもの気の合う仲間たち6人で行くのが当然だった。 でも……今年はそれが難しいかも知れないな。みんな新しい環境でそれぞれに忙しい。健一なんかは高専の寮に入っちゃっていたし、他の仲間も部活とか塾とか予備校とかありそうだ。いくら仲の良い友達だったとしても、いつかは離れていくもんなんだから。
全員が揃うのは無理だよ、そう言ったら篤郎はあっさりと切り返してきた。 「待ち合わせの時間だけ、先に決めようぜ。あと、みんなに連絡してみて、都合の付いた連中だけで行くことにすればいいじゃないか」 ……何それ。 私は心の中でだけ呟く。それでも長い付き合いだ、すぐに彼の心内を察することが出来た。篤郎は結局は夏祭りに行きたいんだな。お祭りにひとりでほっつき歩くのも虚しいから、誰か相手が欲しいんだ。いつもそうだ、みんなでわいわいするのの真ん中にいるのが好き。馬鹿っぽく騒ぐくらいじゃないと楽しめないようだ。 私は、まあ。部活が終わった後に時間を作ることは簡単だ。いつも甘味屋でだらだらと過ごしているだけなんだから。 でも玲香や彩音はどうだろう。色々予定がありそうな気がする。
そして、当日。 やっぱりみんな都合が付かなくて、女子は私ひとりだけになった。何度も何度も自宅に電話して、ようやく捕まえたというのに、ふたりともすっかりお祭りのことなんて忘れているんだもん。彩音に至っては、大学生の彼と旅行に行くんだって言うし。玲香も他に予定が入ってるみたいで「ごめんねえ」といつもの可愛い声で謝ってきた。 ……篤郎、何て思うかな。 がっかりする顔を思い浮かべると待ち合わせ場所までの足取りも重い。ずるずると下駄を引きずりながら、砂利道を急いだ。
「あれ……、やっぱ恭子だけ?」 何となく待ち合わせはいつも、あの学校の裏手にある蒲公英の丘だった。別にわざわざ坂を登ることもないのに、「あそこで」となっている。夕焼けに染まった背中が振り返る。その表情が泣き出しそうだった。……錯覚かも知れないけど、すごくそう思った。 そして、それを見たとき。修司も健一も都合が付かなかったんだと分かる。ふたりして、置き去りにされた捨て犬みたいにしばらく突っ立っていた。正直、気も乗らなかったしそのまま帰りたかった。 「ま、いいや。行こうぜ」 篤郎は私の隣をすり抜けると、さっさと丘を降りていく。履き慣れない下駄の鼻緒が痛くて、なかなか歩けない私のことなんて気にする様子もなく。 去年とは違う浴衣だったんだけど、そんなの気づきもしないんだろうな。今年はいいやと思ったのに、母親が勝手に新しいのを揃えてあった。帯や下駄まで新調して。今までは女の子3人であれこれと批評しあいながら着飾るのが楽しかったけど、ふたりがいないならこんな面倒なものやめたかったのに。
――何かさ、無反応を装う篤郎が最悪。 こっちが気をつかわれてる気分になっちゃうじゃない。わざわざこんな格好して、お祭りに行きたくて仕方なかったのが私の方みたいだわ。そんなじゃない、別にどうでも良かったのに。ぎりぎりとアップにした髪がうなじにこぼれてくすぐったい。そこに生暖かい風が吹き込んできた。 見上げると、晴れ渡っていたはずの空の向こうがどす黒い色に覆われていた。
◇◇◇
屋台の呼び込みも、的当ての歓声もただ虚しいだけ。せっかくだからとすくった金魚が二匹、だるそうにビニール袋の中で泳ぐ。それすらも、仲間たちからはぐれた私たちを象徴するようで口惜しい。篤郎が心から楽しんでないのもよく分かった。
――こんなことなら、本当に来なけりゃよかった……。
この日何度目かの後悔の気持ちを大きな溜息で吐き捨てた帰り道、突然バラバラと大粒の雨が落ちてきた。 「うわ、とうとう来たか……!」 篤郎が慌てて首に巻いていた手ぬぐいを頭に被った。その姿がひょっとこ踊りのようで泣けてくる。さっき、顔なじみのテキ屋のおじさんに貰ったものだった。情けなすぎる白いTシャツが肌に貼り付いてくるのをぼんやりと眺めているうちに、私の浴衣もぐっしょりと濡れていた。 天気予報はそれほど良くなかった。ならば、どちらか一方でも傘を持ってくれば良かったのに、ふたりともそんな準備を怠っていたというていらく。祭りをやってる参道から住宅街まで戻る丁度真ん中。行くにも戻るにも今の数倍は濡れそうだ。こんなことならもう少し祭りを楽しんでいれば良かった、通り雨なんだからどこかの屋台にちょっと雨宿りさせて貰えたのに。 全てが悪い方向に回って行くみたいでやりきれない。すっかり自分自身にまでむくれていた私を、ちょっと前を行く篤郎が呼んだ。 「……あそこが、いいんじゃね? ちょっと休もうぜ」
◇◇◇
道をちょっとそれた林の中にある小屋。きっと山仕事をする人が仕事の道具をしまうのに使うんだろう。何時からあるのか分からないような藁とかシートとか、あと湿った薪とか。その陰からムカデやヘビでも出てきそうだ。でも、外の雨はどんどんひどくなるし、今は視界が白く煙って向こうが見えないほど。とても出て行く勇気はない。究極の選択だ。 一応、男らしいところを見せようとしているのだろうか。篤郎が藁の上からがさがさと探ってとりあえず何事もなさそうなのを確かめてくれた。幸いなことに小屋のすぐ傍に外灯があり、窓から白い蛍光灯の光が入ってくる。ごうんごうんと音を立てて、前の道を軽トラックが走り抜けていった。光がすごい速さで駆け抜けていく。 「まあ、……すぐにやむだろうし。大丈夫だろ?」 篤郎は湿っぽいシートを勝手に広げるとそこにさっさと座り込んだ。私もつられて腰を落とす。本当に散々な日だ。これも全て篤郎が祭りに行こうなんて言い出すのがいけないんだと腹が立ってくる。落ち込んでるのは彼も同じ。でもそうでも思わないと、帳尻が合わない気分だった。 「濡れたろ、拭けよ。風邪ひいたら大変だよな? まだ、夏の大会が残ってるんだしさ」 そう言いながら、手渡してくる手ぬぐいは汗くさい。こう言うところが気の利かない奴だ。まあ、それが篤郎なんだから仕方ないけど。私は無言のままそれを受け取ると、べとべとと気持ち悪いうなじを拭った。こうしている間も髪の先からぽとぽとと水が滴ってくる。もしかしたら、浴衣も駄目になっちゃうかも。母親のがっかりする顔が目に浮かぶようだ。 水を含んで重い浴衣、そしてそれと同じくらい重い気持ち。それに支配されていた。馴れ合いのように続けていた互いの言葉も途切れる。
雨はなかなか止まない、それどころか雷がさっきよりも近くに来てるみたいだ。外の様子を見ようと立ち上がって窓の元に寄る。ガラスに外側から水滴がたくさんついて、よくうかがえない。埃まみれのそれを指で拭って、私は思いきって口を開いた。 「ねえ、……待ってても仕方ないんじゃない? 歩こうよ、運良く近所の人の車が通ったら乗せてもらえるかも知れないし。――あの……」 いつもよりも口数の少ない篤郎のことが心配になる。やっぱり、みんなが来なかったのはショックだったんだろうな。何でもない振りをしていたけど、かなり打撃だったんだろう。その上、この雨だ。泣きっ面に蜂というか、踏んだり蹴ったりというか。こんなことなら、もうちょっと玲香たちに食い下がってみれば良かったかも。
しんみり気分で振り返った。……んだけど。顔を上げた篤郎の表情は私の思っているようなものではなかった。 「あの……さ、恭子っ……!」 突然、握りしめられた腕。 ……え? そう思ったときはもう、そのまま引っ張られてシートの上に崩れ落ちていた。とっさの判断力とか瞬発力とか、それなりにバレーで培ってきたはずなのに、今のこの状況が理解出来ない。体勢を立て直す暇もなく、篤郎が私の上に覆い被さってきた。 「いやっ、何っ!? ……待ってよ、こらっ!」 必死に突き放そうとしたけど、篤郎の身体はびくともしない。私にとってはそれはあまりにも意外な事実だった。お互いに大人と変わらないほどに成長した今でも、篤郎はいつまでも小さい頃のひ弱で泣き虫なイメージしかなかったから。 思っていたより、ずっと頑丈。私がいくら拳を打ち付けてもその力ごと吸収してしまう。思いがけないことに恐怖すら覚えた。それがそのまま身体を覆う震えとなる。 「ちょっ……、ちょっとぉ! 正気に戻りなさいよっ、馬鹿!!」 気が付くと、思い切り顔を叩いていた。だって、もう、どうしていいのか分からなくて。 突然の衝撃に篤郎はうっと呻いて一瞬ひるんだけど、次の瞬間には何事もなかったかのようにさらに身体を押しつけてくる。肉と肉が押し合う。すごい圧迫感に、こっちは窒息しそう。その上、運の悪いことに今夜は浴衣姿だ。これってもう、はだけるために着るようなものよね。もがけばもがいた分だけ、胸元は広がって、裾もまくれ上がってくる。 「やだやだっ、離してっ! やめてって言ってるでしょ、聞こえないのっ!!」 返事はなかった。篤郎はまるで獣のように低く唸り声を上げてる。もともとがずんぐりした身体。こうなってしまうと、私の上にいるのが熊なのか人間なのか分からなくなってくる。胸元の袷が押し広げられて、豆だらけの手が肋骨の上を這っていった。力任せに下着を剥ぎ取られる。現れた膨らみを滅茶苦茶に揉まれた。もう、目の前にあるからそうすると言う感じで。 「や……、いやっ……。やだぁ……!」 無駄な抵抗かも知れない。そう思っても、私は叫び続けるしかなかった。でも、金切り声は外の雨音に吸い取られてしまう。もしかしたら、篤郎の耳にさえ届いていないのかも。 ――何で、いきなりこんな風になるのよ……! 一体、何がどうなってるの……!? 生ぬるいものが頬を伝っていく。髪から落ちた雨の滴と、しょっぱい涙が一緒になってだらだらと流れを作る。 当然のように下も脱がされて、開かれたその部分に熱い息が掛かる。日頃のトレーニングで逞しく鍛え上げた太もも。それを御神輿を担ぐみたいに左右の腕にがっちりと掴まれて、篤郎が私の足の間に入ってきた。何しろ薄暗い部屋の中で、お互いの姿はぼんやりとしか確認できない。気配で感じ取るしかないんだけど。 「……うっ、うぐっ……!」 次の瞬間、いきなり下半身に今まで味わったことのない生々しい激痛が走った。思わずお尻が浮き上がる。おなかの内側を麻酔なしでえぐり取られて行くような異物感。焼け付くような感覚がじわじわと広がっていく。殺されるのかも知れない、と本気で思った。 「あ、あつろ……」 この期に及んで、自分の置かれた状況を全く理解できてない私ではなかった。それなりの知識はある、女としていつかは通る道だと言うことも。大人なら誰でも当たり前にしていることだ。カマトトぶっても仕方ない。けど……、こんなのってないよ。
――何で? 何で、こんなことするの? どうしてなの、人に断りもなくしていいことじゃないよ。そんなこと、分かってるはずでしょ……!?
そこから先は、ほとんど意識が飛んでいたと思う。絶望の淵に沈み込んで、私はもう永遠に這い上がることは出来ないと思った。ずっと、仲間だと思っていたのに。ちょっと頼りない奴だとは思ったけど、小さい頃からずっと一緒だったし、私の気持ちはいつでもよく察してくれると信じていた。そんな篤郎が、どうして。何が彼を変えてしまったの……!? 私じゃないもうひとつの熱い身体が、すぐ傍にいる。言葉はなかった。荒い息を吐きながら、ただ貪っている。だらりと脚を流れていく汗。私の意志には関係なく、内側がぬるぬるしていく。
長いような短いような。計りようのない時間が過ぎて。私の耳元に地面を叩き付ける激しい雨音が戻ってきた。 「……つっ……!」 必死で抵抗を続けたせいだろうか。腕も足も、そこら中がすりむけてひりひりしていた。頭もガンガンと打ち付けられるように痛む。どんなに頑張ってもすぐには起きあがれる状態じゃなかった。 傍らに誰かの気配がする。カチャカチャとベルトを締めている音。ここにいるのはひとりしかいない、篤郎だ。それは分かってるのに、もう口を開く気力も残ってなかった。 そうしているうちに、奴はすっくりと立ち上がる。そして、身体に付いた藁や泥を払うと、そのまますたすたと何事もなかったかのように戸口に向かった。 「……これで、俺もようやく男になれたな。ありがとよ」 その夜、最後に聞いた篤郎の言葉だった。
◇◇◇
「あらあら、急な雨で大変だったわね。お祭りはどうだった? ……とにかくはお風呂に入っちゃいなさい」 すっかり解けてしまった髪も、泣きすぎて血走った目も、母親にすら何も悟られることはなかった。 自分の口からも、何も言いたくない。幼なじみだって気の置けない相手だって、信じていた篤郎からあんな仕打ちをされて。出来ることなら、全部洗い流してしまいたい。身体の痛みも心の痛みも全て。 バスルームでシャワーを思い切り強く出すと、水飛沫の舞い踊るタイルにうずくまって思い切り泣いた。
翌日。 一晩中眠れなくて、ふらふらになりながらもいつも通りに家を出た。夏休みと言っても部活がある。スポーツの推薦で入った手前、休むわけにはいかないんだから。ちょっとの熱ぐらいじゃ学校を休んだりしない私が具合悪いと言い出したら、両親は何事かと思って慌てて病院に担ぎ込むかも知れないし。 そして。私は玄関を出たところで、信じられない人物と再会した。
「……よ、一緒に行こうぜ?」 どうして、彼がこんなところにいるんだろう……? 驚いた顔でまじまじと見つめると、相手はそそくさと背中を向けて歩き出した。 「いや、俺は補習にひっかかっちまってさ。情けねーけど、仕方ないや。休みなのに店の手伝いも出来なくて、親にブツブツ言われてさあ……」 あんまりにも変わらない姿に逆に拍子抜けした。まるで昨夜の出来事が全て夢だったように、篤郎は変わらない。ただ、その日から、学校に行く日には必ず門先まで向かえに来てくれるようになった。
変に避けられたり、大袈裟に謝られたりしたら逆に意識してしまったと思う。篤郎がそのままだったから、私も当たり前のように接することが出来た。奴がどういうつもりだったかは知らない。でもありがたいと思った。 そんな感じで。知らないうちに私たちは周囲にも公認の仲になっていった。
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