……あ、また降り出した。 ぼんやりと遠くに雨音を聞く。私は外の様子をうかがうのも面倒で、壁に耳をくっつけたまま聴覚だけに集中していた。大きく枝を広げた広葉樹の林を打ち付けていく雨粒。天の恵み、とか言うんだよね。特にこんな真夏の乾いた大地を潤す水音はいつもに増して心地いいもののはずだ。 でも。今の私にとっては、それは鬱陶しいだけの雑音。ぐっしょり濡れて肌に吸い付いたブラウスが情けないまだら模様を作っていた。急いでいたから、仕事帰りのままの格好。 金融機関の月曜日は忙しい。それは決まり切ったことだ。民間の給料日と重なったことで、本当に息つく暇もないほどの一日だった。まあ、無駄なことを考える暇もなかったから、幸いと言わなくてはならないんだろうな。ただ目の前の仕事を次々に片付けるだけで、あっという間に終業時間になっていた。 「……どうしようかなあ、これから」 蛍光塗料の緑色。細い針が私の腕に浮かび上がる。 午後九時半。いつもなら、夕食もとっくに終わって、皿洗いをする母親の小言を聞きながら、リビングのソファーでバラエティーなんか観てる時間だ。夜の雨の中、ひとりぼっちでこんな風にしてるなんてかなりの誤算。自分の計画性のなさが情けなくて仕方ない。 ふうっとひとつ、溜息付いて。ポケットを探るけど、もう何も出てきやしない。空きっ腹も惨めさに上塗りするのに一役買っていた。
……傘くらい、持ってれば良かった。 いつもそうなんだよな、私はそういう準備を怠る傾向にある。職場は家から自転車ですぐだったし、もしも急な雨が降り出せば、帰り支度をする頃には必ず携帯が鳴った。 「今、すぐそこまで配達に来てるんだけど。……迎えに行くか?」 それだけじゃないんだよな、研修とかで遠出をしたときとかも。電車で延々と戻ってきて、これからまたバスに揺られるのかと情けなくなってると、篤郎は何故か大きな街の駅前まで出てきていた。飲み会の時もそう。他の支店との合同のやつだったりすると、やっぱウチの町内でって訳には行かない。篤郎のミニワゴンは、必ず私の近くを走っていた。 「酒屋の息子の癖に、ほとんど飲めないんだから情けない」 仲間内でもそれは有名なことだった。まあ、乾杯のビールで出来上がってしまうほどの下戸ではない。でも、お酒に強いか弱いか以前に、篤郎はあまりその手のものが好きじゃないみたいだった。 「まあ、……サンタクロースだって、自分ではプレゼントのオモチャで遊ばないだろうからね」 いつだったか、そんな風に言ってやったことがある。そしたら奴は嬉しそうな泣きそうな複雑な表情になって、頭をかいた。あ、ついでにタバコもやらなかったりしてね。本当に経済的だ。 だからなんだろうな、こんな風にお互い大人になっても、何となく子供の頃の延長にいるみたいな気分になっていた。それなりに大人なこともしてるのに、それすらも挨拶みたいで。「元気か?」「うん」の会話の代わりに、お互いの肌を重ねていた感じがあった。少なくとも、私はそうだと信じていた。
……やだ、もう。こんな時に、何考えてるんだろう。馬鹿みたいだ、私。 真夏だというのに、腰から下がだんだん冷えてくる。私は冷房対策に持っていたカーディガンを膝に掛けた。そしたらまた、うとうとと眠くなってきて。ならいいやと目を閉じる。朝まで、こうしていよう。一番のバスは何時だったっけ……?
この町にひとつだけの公共の交通手段。それの時刻表すら全く覚えていない理由を考えるのはこの際よそうと思った。
◇◇◇
また雨足が強くなったみたい、大丈夫かなあ、ここ。今まで丈夫に持ちこたえていたんだから、今夜一晩くらいは私を守ってくれてもいいと思う。ざーっと風と共に吹き付けてくる水飛沫。強めのシャワーが空全体を覆い尽くしてるようだ。 ――いいんだ、こんなで。これくらい、惨めったらしい方が、私に似合ってるもの。 二泊三日の旅行に丁度いい大きさのボストンバッグが、たったひとつの荷物。そこに昨日の晩、何を詰めたのかすら、思い出せない。私、相当に頭に血が上っていたし、余計なことを思い悩む暇もなかった。そうじゃなかったら、こんな大それたこと、するわけない。
けど……、どうして。じゃあ、こんなところにいるの? 雨だって、いいじゃない。濡れたって構わないでしょう。
そんな風に、自分に言葉を投げかけたとき、遠くから雨音に混ざってばちゃばちゃと水たまりを蹴散らす音が近づいてきた。それに合わせて、チラチラとライトが光る。 「きっ、……恭子っ……! 恭子、……恭子っ!」 近く遠く、私を呼ぶひとつの声。それが、軽トラ一台が通り過ぎるのがやっとな山道を登ってくる。これだけの降りでは、バイクや自動車は役に立たない。タイヤが轍に出来た水たまりにはまって動けなくなるんだ。よく近所のおじさんが、そんな風になって車を置き去りにしてくるから知っている。きっと、あの明るいのは懐中電灯だ。 ――馬鹿、何で来るのよ。それに、真夜中に大声で人の名前を呼ぶなんて。みっともないったら、ありゃしない。 私は震える膝を抱えたまま、それをやり過ごそうとした。きっと中腹の社の辺りまで参道を登っていって、すぐに戻って来て、そのまま元来た道を降りていくに決まってる。単純な思考しか出来ないから、私がこんなところで雨を避けているなんて気付くわけないわ。 昨日、脳天を突き抜けた怒りを呼び戻そうと必死になる。なのに、私の涙腺は感情とは関係のないところで緩んでしまう。
……泣くもんか、これ以上、馬鹿な女にならないでよ!
ぎゅっと唇を噛みしめたとき、目の前のぼろぼろの引き戸が大きく揺れて開いた。 「……あ……」 目の前に電光が乱反射する。構えもなくまともにライトを見つめてしまったから、こめかみに痛みが走った。黒い斑点が閉じた瞼の裏に浮遊する。 もう一度、目を開けたとき、呆然と入り口に立ちすくむ男を確認した。 震える右腕にぶら下がっている家庭用の懐中電灯。全体がぐっしょりと濡れて、てらてらと烏色に見える雨合羽。上着とズボンが別々になってる奴。何かすごく惨めったらしくて、情けない。額の辺りだけが透明になっているフードを被った口元が、かすれた声を上げた。 「……行くのか?」 ぼんやりと焦点の定まらない視線が、私のバッグを見つめていた。
◇◇◇
周囲の物事や他人の行動に腹が立つことは良くあったけど、こんなのは初めて。何も考える前に全てを放棄したい、もう絶対に駄目、これ以上は耐えきれない。正直、自分がこんなになるまで色々抱えていたことに驚いてしまう。そして、思った――「逃げよう」って。 中途半端なところで投げ出して尻尾を巻いてトンズラするなんて、私のプライドが許さない。だから、いつも限界まで頑張ろうって思っていた。ちっちゃい頃からそう、部活でも職場でもそう。「もう駄目です」って泣き言が言えないから、ぶっ倒れるまで突っ走った。それが自分だと思っていた。
――けど、駄目。今回だけは、それでは取り返しの付かないことになる。
この小さな町にいて、変わり映えのない風景と人々に囲まれて暮らしていたら、私はこのまま与えられた運命に流されてしまうだろう。一度もときめいたことのない相手と、ただ馴れ合いで関係を続けて、挙げ句結婚して子供を産んで、老後は親の世話をして。ふうっと一息ついたら、自分もよれよれになっているんだ。 それもいいかなって、どこかで諦めていたのも本当。だって、疲れるもん、これから新しい相手を見つけて、色んな事に気を揉みながら恋愛をしていくのは。苦労しなくても手に入る当たり前の未来があるのに、上手くいくかどうかも分からない挑戦をするのは……ちょっと面倒かなって。私だけが我慢すればいいんだって、自分に言い聞かせ続けていた気がする。 無言のまま、いつも通りの道を通って家まで送ってもらった後、私は自分の部屋に戻ると押し入れからバッグを取り出した。ここから逃げ出すために、最低限の荷物を詰めるために。 貯金通帳と印鑑と保険証と、洗面用具と当座の着替えと。それから、びっちりと友達の連絡先を書き込んだアドレス帳を忍ばせた。携帯に何でも登録できるようになってるけど、何となくこうして紙にきちんと書き付けないと安心できない。どこまでも田舎臭いアナログな性格だと情けなくなった。お仕着せの友情なんて、携帯を変えるよりも早く移り変わって行くものなのに。 一夜明けた今日は、いつも通りに仕事をこなして、ひとりで残って仕事を全て片付けてから、自分の机の上を綺麗に整理した。で、支店長の机の上に用意してきた封筒を置く。少しの混乱の後、これは役目を終えてシュレッダーに掛けられてしまう。それは分かっていたけど。 その後、ロッカーの中に入れてあったバッグを手にバス停に走った。なのにどういうことだろう、タッチの差で赤いランプを灯した最終のバスが出てしまった後。チラチラと山の向こうに消えていくライトを呆然と見送った後、仕方なく近道の山の中を歩きながら、携帯を手にした。お金はたんまりと取られるけど、タクシーを呼ぼうと思ったんだ。……けど。 携帯は電池が切れている、昨日きちんと充電しておこうと思ったのにうっかりしちゃったのだ。その上、灰色の空から私をあざ笑うかのようにぽつぽつと雨が落ちてきた。だけどもう、引き返すことは出来ない。私は自分で自分にそう言い続けながら、どうにか一晩雨をしのげる場所を探したのだ。もしも少しでも心がぐらついたら、また後戻りしてしまう。それだけは避けたかったから。
私のために、……篤郎のために。
◇◇◇
小さく頷いて、そのまま視線を落とす。何だか、いつも情にほだされてしまうから、今回だけは頑張りたかった。唇が切れて、舌の先に血の味を感じる。自分は大丈夫だと思っていたのに、すごく身体がこわばっていた。 でも、さっきから一歩も動かない雨合羽の男は、私が危惧するような行動に出ることはなかった。 「そうか、……行くのか」 蒸気で透明ビニールが曇ったフードを脱いで、前髪から雫をしたたらせたまま、まだ呆然としている。ようやく口をついて出てきた言葉も情けなさこの上なくて、思わず拍子抜けしたほど。何となく緊張が緩んでしまって顔を上げる。篤郎の顔を出した雨合羽の身体は、まだ息が上がっているのだろう、肩の辺りが大きく上下していた。
しばしの沈黙。奴のみっともなく荒い呼吸の音だけが、そう広くない小屋に響いている。 ようやく見つけた雨宿りの場所が、あの時のぼろい小屋だったこともショックだった。けど、背に腹は代えられない。絶望のどん底に突き落とされた気持ちで電気も通っていないそこの戸を開けると、中はあの頃よりもきちんと片づいていた。 もしかしたら、と思ったのだろうか。誰もここを見つけなくても、篤郎なら。もしもそんな甘えがまだ自分の中にあったのだとしたら、嫌になる。一番捨てたい存在に、どうしてそんなことを思うんだろう。
「でも、……この雨じゃ、動けないだろ? 明日の朝にすればいいじゃないか、……何だったら、向こうの町まで朝一で俺が送ろうか? 店の開く前だったら、どうにでもなるぞ」 どれくらい、時間が掛かったんだろう。やっとのことで、次のひとこと。でも、余りにもそれが予想しなかったものだったのにがっくりとする。そりゃ、期待してなかったけど、……何よ、それ。 「……え?」 私の声が聞こえているはずなのに、くるりと背中を向ける。そして、こともあろうにこの土砂降りの中、また外に出て行こうとするのには慌ててしまった。 「ちょっと、車まで戻って傘を取ってくる。恭子が見つかったこと、ちゃんとおじさんたちに連絡もしなくちゃな。……濡れるとヤバイから、このまま待っていてくれ」
――は……? どういうこと?
私は長いことすぐ側にいたはずの男の言葉が、全くと言っていいほど理解できなかった。あんまりに驚いたので、怒りの感情がどこかに行ってしまう。そして、気付いたら、雨合羽の裾を掴んでいた。 「ばっ、馬鹿っ! こんな雨の中に出てって、風邪でも引いたらどうすんのよ! 少しは頭を使いなさいって、言うのっ……!」 それから、今度は少し小さな声になって言う。こんな状況で、こちらから「お願い」をするなんて嫌なんだけど、仕方ないわ。 「……で。ちょっと、あんたの携帯貸して。家に連絡するから」
◇◇◇
そんなことだろうとは思ったけど、年頃の娘を持つ親としてはあるまじきことだと思う。夜更けまで戻らない私のことを、友達とでも呑みに行って、そのまま雨で足止めを喰らっているんだろうと信じていたらしい。確かに、今までも出掛けたまま職場の同僚のアパートに泊まることとかあったけど、……でもねえ。 篤郎の車で送ってもらうって言ったら、「ふーん、気をつけてね」って感じだった。
「きっ、……恭子んちのおばさんが、俺に電話してきて。携帯に掛けても出ないからって、言うんだ」 話を要約すると、こうなる。 まずは、職場に忘れ物を取りに来た支店長が、予定よりも早く私の置いた退職届を読んでしまったんだ。ドラマティックに明日の朝、みんなが突然姿を消した私に騒然としてくれるはずだったのに、あてが外れたんだな。その頃もう、私の携帯は通信不能だったから、驚いた支店長は自宅に電話してきたそうだ。まあ、話が話だから私に連絡取ろうって、母親も考えた末に篤郎を思いついたらしい。 出先だった篤郎は驚いて、まずはバスの営業所に連絡したんだという。でも、私らしき乗客は乗ってなかったと言うことを確認して、次はタクシー会社。挙げ句に、大きな街の駅まで行って、駅員にも確認したという。 「……何よそれ、ひとりで勝手に慌てちゃってさ」 小屋の広さは昔と同じ。畳3畳分ほど。その上、半分くらいはシートをかぶせた藁が積んであって、並んで座るとほとんど隙間がない。もう二度と顔も見たくないと思った男がこんなに近くにいる。何だか、すごく嫌な感じ。 正直さ、まあ……もしかしたらと思っていたのよ。篤郎がいなくなった私のことを慌てて探してくれるんじゃないかって。それによって、情が移ると言うこともないと思ったけど、でも篤郎はそれくらいのことはしてくれるかなって。で、……一発殴られるとか、泣き落としされるとか、……覚悟していた。 ――なのにさあ、どういうことよ。こんなの、信じられない。 「そうよ、ご想像通りよ。もう、何もかも嫌になったの。あんたとのことも、職場も、この町も。まっさらになって、一から出直したい。まだ間に合うはずよ、私だって、若いんだから。蓄えだって少しはあるし、これから職安に通ったりして、新しい人生を探すの。もう、この町なんて、知らない」 隣に座ってる篤郎は、やっぱり何も言わない。ああ、腹立つ。きっとはったりだと思ってるんでしょ? 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよね。安っぽい女だと思わないでよ。
ね、もう少し、現実を見よう。 ……言えなかったけど、心の中でそう呟きながら、固まったまま動かない横顔を見つめる。じーっと目の前の壁なんか見ちゃって、何か哲学でもしてるつもりかしら? 私たち、このままじゃ絶対駄目になるよ。何となく仲良くして、このまま何となく一緒になったら、絶対に後悔するから。10年後、20年後に破綻するのはヤバイでしょ? よく考えてみようよ。 駄目なんだよ、だってふたりとも「恋愛」してないでしょ? 私にとって篤郎は「何となく」の相手、それは篤郎だって同じことだろう。成り行きでこんな感じになって、別に代わるような相手もいなかったから何となく続けてきただけ。誰もが私たちのことを普通に恋人同士だと思ってるけど、それが違うことは誰よりもふたりが知ってるはず。 ……もう、お互い、楽になろうよ。今なら、まだ引き返せるんだからさ。
◇◇◇
ずっと、ふたりで無言のままここにいるのもいい加減に嫌になってきた。篤郎は合羽を着てるんだから、大丈夫かも。お互い濡れてもいいから、山を下りようかな。そんなことを考えて切りだそうとしたとき、それまで動かなかった男が、ごそごそとポケットを探った。 「あ、……あのさ。こんな時に何だけど……恭子に見せたいものがあるんだ」 そして、取り出されたのは赤紫の小さな紙袋。底の方は真四角に広めになっていて、金色のシールで封をしてある。よく知っているお店のロゴが、そのシールにも袋の本体にも印刷されていた。
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