TopNovel短篇集・2 Top>真珠色の欠片・5


scene 3…

 

 

 ……嘘、どういうこと?

 ばっちり見てしまったのに、私はすぐにそこから視線をそらして素知らぬ振りをした。きっと、この包みがどこのものか中身が多分何かを気付いたら、こんな風にする女はいないと思う。自分でも滑稽になるくらいの異様な光景だった。

「……恭子?」

 私のそんな態度は、篤郎にとっても予想外だったんだろう。つついたら泣き出しそうな声が、私を呼ぶ。

 でも、今私に出来ることは、口をきゅーと結んで、ひとこともしゃべらないことだって思った。駄目、ここで何か言ったら、今までの全てがぶち壊しになる。もう嫌だから、後戻りは。

 

 私たちの間にぽつんと置き去りにされた紙袋。それを見てるのか、見てないのか。篤郎がふっと溜息を落とした。そして、わざとらしく明るい声で、勝手に話し出す。

「あ、あのさぁ。恭子、嫌いだって言ってただろ? 野暮ったくて、可愛くないとか。だからさ、そんなもんなのかと思っていたんだけど、俺、見つけたんだ、そうじゃないのを」

 声がぶるぶると震えている。篤郎らしくないと思った。

 いつもだったら。自分に都合の悪いこと、上手く言えないことがあったら、すぐに黙ってしまうはず。人の顔色ばっかりうかがって、主体性がなくて。その場を滑稽なくらいひとりで盛り上げてた。注目を浴びるのは、ドジをして笑いを取るときだけ。そんなでもしないと、認めてもらえないのかって、私の方が口惜しくなった。こんなに必死になってる篤郎、私は見たことがない。

「すっ、……すっげー可愛いなとか、思ったんだけど。値段は可愛くないし。でも、どうしても恭子に見せたかったから、取り置きしてもらって、金が出来たら引き取ろうって。……でもさ、なかなか貯まらないんだよな、これが。半年以上、かかっちまって……とうとう、店の方から、他に希望者がいるからそっちに回すって言われたんだ。それには、慌てたよ……」

 はっはっはっ……とか、すごい白々しい笑い。誰も、うけたりなんかしないよ、そんなの。馬鹿じゃないの、全く。

「何よ、無駄遣いなんてして。あんたんちの店が、今首が回らないくらい大変なときだってことは誰だって知ってるわよ。すぐに返してらっしゃいよ、今ならまだ、間に合うかも知れないわよ。計画性のない男はこれだから困るわよね」

 さすがに言い過ぎかなって、ちょっと後悔した。でも、私としてもギリギリなんだ。これ以上、ひどいことを言い出す前に、どうにかして欲しい。大人しい男ほど、キレたら何するか分からないってことも知ってたけど……。私だって、篤郎のことを思ってのことなのよ。分かってもらえなくたって、構わないけど。

「人のこと、安く見ないで欲しいわね。何よ、馬鹿みたい。そんなもので、私が機嫌を直すとでも思ったの? おばさんにでも入れ知恵されたのかしら、甘いわね。まあね、今まであんたが私にしてきたことを考えたら、それくらい貰ってもいいかもしれないわ。でもね、こっちにもプライドってもんがあるの、いくら性欲処理の道具として好き勝手扱ってきたからって、何でも思い通りになると思ったら大間違いよ」

 ――怒るかな? ひやり、と心臓を素手で撫でられた感覚が走った。

 また、力ずくでどうにかしようとか行動に出られたら、どうしよう。ううん、今の私はそんなことで屈したりしない。篤郎なんて、もう知らないんだから。とことん嫌いになれれば、お互いのためってものよ、そうなのよ。

「き、恭子……、あの……」

 こっちがギリギリでもちこたえてるというのに、篤郎ときたら何とも緊張感のない声で応じる。まあ、ここまでストレートに言われたら、普通の男はビビるかな? と言うことは、篤郎にも並の神経があったってことね。

「5年前、ここであんたが私にしたことを思い出しなさいよ。その時に、あんたが何て言い捨てたか、覚えてる? ……よくもまあ、そんなに平気な顔して生きてるものよね、信じられないわ。あんたが、私の人生を滅茶苦茶にしたってこと、分かってるのっ!?」

 今度こそ、篤郎はぐうの音も出ない感じだ。思い切り睨み付けたら、ぼーっとしたまま動かなくなった。半開きのままの口元、少し伸びた髭。力が抜けきったようにだらんと腕が落ちていく。空っぽな手のひらが湿っぽい空気を曖昧に包んでいた。

「……ごめん」

 その言葉は、雨音に打ち付けられるように、地面に吸い込んでいく。何よ、それ。ごめんで済むなら、警察はいらないでしょう? 謝るってことは、自分でも悪かったと思ってるってことよね? 悪いって分かっていて、やったのね、そうなんでしょ。

「やっぱ、恭子は怒ってたんだよな。そうだよな……、だよな」

 篤郎がものすごく素直に反省していることに私は驚いた。

 そして、どうしてこの5年間、一度もこんな風にふたりで面と向かって会話をしてなかったのかと今更ながら呆れてしまう。毎日のように顔を合わせて、ついでに人には見せられないような部分も見せ合って、無様な格好で抱き合って。それでも私たちは一番大切なことから目をそらしていた。それが、そもそもの間違いだったんだ。

「そっ、……そうよ。本当は、嫌だったわよ」

 何が悲しくて、篤郎なのって思ったんだっけ。そんなことも忘れていた。いつの間にか当たり前のようになっていったから。疑問に思うことも憤ることもなくなっていたんだ。

「私だって……、あんたとあんな風にならなかったら。そしたら別の人生が待っていたのに」

 篤郎が悲しそうな視線を向ける。何かを言いたげに、それでも上手く言葉がまとまらないみたいだ。もしもいつもの私だったら、そんな篤郎がしゃべりやすいように誘い水をしてやったりする。だけど、今は無視した。

「だな、……そうだよな。全くだよ」

 うなだれている姿も、全く絵にならない。ただですら、オヤジくさい垢抜けない男なのに、似合いすぎの雨合羽。レインコートとは絶対に呼べないシロモノ。中学の頃、雨の日はコレの着用を義務づけられていて、それが嫌だったから徒歩通したのを思い出す。篤郎が少し身体を震わせるだけで、くしゅくしゅと鼻をすするみたいな安っぽい音がした。

「俺、聞いちまったんだ、偶然に。バレー部の先輩が何人もたむろっていて、……お前のこと、話してて。その時に、頭に血がのぼっちまったんだと思う。だってさ、恭子のこと、この休み中におとしてやろうって言い合ってるんだよ。……信じられなくてさ」

 ……何、それ。

 それは私にも初耳だった。高校のバレー部には女子部の他に男子部もあって、盛んな交流があった。1年生はマネージャーみたいなこともしたし、その流れで先輩と親しくなって付き合い出す部員も多かったと思う。でも……、この話って。篤郎が口から出任せを言ってるんじゃないの? 自分を正当化しようとして。

「頭では分かってたんだ。恭子、高校に入って、いきなり女っぽくなったし。いつかは気に入った奴と付き合ったりするんだろうって、考えてたんだ。……でも、そんな恭子は見たくなかった。俺、恭子がいてくれないと何も出来ない男だったから、いなくなるのが怖かったんだ……恭子を、他の奴に奪われるのは嫌だったから……でも……」

 仕方ないって、諦めてた――そう呟く頬が震えていた。

「恭子は俺なんかじゃ気に入らないだろうなって、分かっていたんだ。でも……何かやってみたら簡単で、信じられないくらいあっけなく大人しくなるから。もう……夢中だったんだ、ようやく夢が叶うって、それしか考えられなくて、後戻りも出来なくなって……気が付いたら、恭子が泣いてた。とんでもないこと、しちまったんだって、思ったときは遅かったんだ。でも……俺は本当に嬉しかったんだ、あの時」

 ようやく、篤郎の手がきちんと握りしめられた。動転している気持ちをどうにか保とうと、奴なりに頑張ってるみたい。そんな風に見てしまう自分が嫌だ。この期に及んで、まだ情が残ってるのかしら。それに、耳を塞いでしまう選択肢もあったのに、どうしても篤郎の告白を止めることが出来なかった。

「恭子、きっとすごく怒ってるって、もう二度と口なんて聞いてくれないだろうって諦めてた。でも、ひとこと謝ろうって、あの日待ち伏せしていて……で、恭子が俺の話に笑ってくれたから、ああ大丈夫なんだって嬉しくなったんだ。もう駄目かなって思うこと、何度もあったのに、恭子はちゃんとそばにいてくれた。だから、まだ大丈夫って思えた。……俺、ホント、恭子がいてくれたから、ここまで来たんだ」

 

 こんなの、口から出任せで、絶対に嘘だと思いたかった。

 何をしても私が最後には許してしまうから、篤郎もいい気になってるんだ。そうに決まってる。今回だって、ちょっと謝って、元通りになるって思ってるんだろう。この期に及んでもので釣ったりして……馬鹿じゃないの?

 それなのに、私は。

 思い出していた、小さい頃のこと。怖いと泣きながらくっついてくる篤郎。他の仲間たちはみんな先に行ってしまうのに、どうしても置き去りには出来なかった。何をするにもひとりじゃ出来なくて、すぐに「恭子、恭子」と声を掛けられて。うざったいと思いつつも、何だかほだされていた気がする。振り向くとそこに篤郎がいて、いつも私のことを追いかけてきていた。

 だから、口惜しかったんだよ。信じていたのに、あんな風にされて。いきなり女としての弱い自分を見せつけられたみたいで。……その後も馴れ合いみたいに一緒にいて。夢がないんだもん、全然素敵じゃないんだもん。

 今回の事だって。

 こんな風に贈り物をするなら、少しは色々考えなさいよ。いくら思い出の場所だからって、こんなぼろ小屋で。せっかくの綺麗なラッピングが可哀想。そりゃあさあ、大都会の摩天楼を見下ろすおしゃれなレストランまでは望まない。でもさ、せめて、町の綺麗な公園とか――もっと小綺麗な場所で、スマートに取り出せないもんかな?

 正直、ここまで篤郎が私のこと考えていてくれたとは思わなかったし、きちんと伝えてくれたら、どうにかなっていたかも知れないでしょ? ただ……もうちょっと早ければ、だけどね。

 

「……何よ、そんな。いつも、やりたいときに勝手に来て、終わるとハイさようならで。あんな何十年も連れ添った夫婦でもしないようなこと、平気だったじゃない。結局は、アレでしょ。溜まったから出したかっただけなんでしょ? 今更、綺麗事を並べないでよ」

 その時までに。篤郎はもうほとんど泣き出しそうな感じだった。私がいつになくきついことをどんどん言ったこともあったんだろう。ようやく何を言っても駄目だと諦めたのか、大演説を繰り広げていた口元も動きが鈍くなる。このまま、またいつものように黙ってしまうのかな。そう思ってたら、ぽつりと言う。

「……違うんだ、そうじゃないんだ」

 そうに決まってるのに、何言ってるのよ。だから言ってるでしょ、人を馬鹿にするなって。篤郎って、ぼんやりしていて煮え切らないけど、こんなに言い訳がましい奴だとは思わなかった。

「俺、確かめたかったんだ。まだ、大丈夫かって……。俺、商工会の役が回ってきてて、下っ端なのに、みんなの意見をとりまとめたりしなくちゃならなくて。お前なんかが仕切るからまとまる話もまとまらないんだって、何度も言われて。店の経営も苦しくて、本当にどこかで心ごと潰れそうだった」

 怖かったんだ、と奴は言った。

 確かに篤郎の店も、その周りの他の店も、みんな経営は上手くいってなかった。今はどこの家も車を持っていて、ちょっと足を伸ばして、隣町のスーパーとかに買い物に出掛けてしまう。サービスが売りで頑張っている商店街よりもずっと安く買えるし、気兼ねもない。ただですら、過疎化の進んでいる地域だ。地元に残っている人たちにまで見捨てられたら、明日はない。

「でも、恭子といると温かかったし……もしも、他のものが全部駄目になっても、恭子がそばにいてくれれば俺は大丈夫なんだって思ってたんだ。……恭子がいなくなるのが怖かった、ずっと怖かった。だから……いつも確かめてたんだ、恭子がいるってこと。でも、そう思ってるのは俺だけで、きっと恭子はいつかはいなくなってしまうだろうって、何となく分かってた。分かってたけど……認めたくなかったんだ」

 この前も、その前も。思い出せば、篤郎が夕方勝手に寄ったのは、その後に店関係の会合がある日だった。ただ時間が余ったからだと思っていたけど、もしかして篤郎なりにギリギリのところで踏ん張っていたのかも。……ううん、これだって今考えた言い訳かも知れないけどね。

「お袋のことも……ヤバいなとは思ってたんだけど、……でも、どうにかなるかなって。恭子だから、きっと大丈夫かなって……ごめん」

 篤郎の話は止まらない。だんだん声に覇気がなくなってきた気もするけど、それでもまだ続けたいみたいだ。そうだな、聞くだけだったら、タダだし。最後にこうして大演説を聞くのもいいかも。今まで、それなりに仲良くしてきたんだし、こういうのも人情ってものかもね。

「別に……謝って貰わなくてもいいわよ」

 私が独り言のようにそう言うと、篤郎はようやく少しだけ、笑った。

「お袋はとにかく恭子のことを気に入っていてさ、あんまり恭子のことを褒めるもんだから、夢子なんていつも怒っていたよ。俺に向かっても言うんだ『あんたはいらないけど、恭子ちゃんは欲しい』……とかね。でも、実際はただ娘にすることも出来ないんだから、俺の嫁さんになって貰うしかないって。何度もせっつかれて、それでも黙っていたら『じゃあ、私がどうにかしてあげる』……って」

 馬鹿だよなあ、俺も。……そんな風に言って、頭をかいてる。外の大嵐とは裏腹に、だんだん打ち解けて来る感じ。変なの、こんな状況じゃないと思うのに。

「……ふうん」

 おばさんのこと。確かに腹立つことも多かったけど、決して嫌いじゃなかった。可愛がられているのは分かっていたし、あの言い過ぎのところも愛情あってのことかなって。カッとなると、すごく嫌になるんだけど、こうして冷静になってみれば、許せる範囲かも。……ああ、甘いわね、私も。

「何だかそう言うのもいいなと思ったんだ……今のままでも十分なんだけど、それでも恭子といつも一緒にいられるわけでもないし。でも、お袋が言う通りに本当に恭子がウチに来てくれたら、いつでも、毎日会えるだろう。仕事が上手くいかなくて辛いときにも、恭子がいてくれたら頑張れそうな気がしたし。もう……いついなくなるかって、心配しなくて済むんだと思えば、こんなにいいことはないよ。
 年齢的にも早すぎるって分かってたし、だから恭子が承知してくれるかは分からない。でも、……さ。恭子はいつも俺を見捨てないでいてくれるから、もしかしたらって期待しちまうんだ。俺には何ひとつなかったけど、恭子がいる。いつもみんなから半人前だって言われて、馬鹿にされてきたけど、でも恭子だけは誰にでも誇れるものだったんだ。……側にいて、欲しかったんだよ」

 ――すごい、かも知れない。これが、本当に篤郎の言葉なのかしら。

 どこかにカンニングペーパーでもあるんじゃないでしょうね、違う? 呆れちゃうくらいくさくて、でも篤郎らしい告白だ。もうひとりの私が、どこまでも冷静に分析している。自分の全てで篤郎の言葉を受け止めることの出来ない私がいた。

「ふうん、そうだったんだ」

 どこまでも、あっさりと返事をしていた。ここで感極まって泣き出したり、「私もよ、あなたが好きなの」とか告げることが出来たら良かったのにね。ごめん、無理だよもう。

「だっ、……だからさ。俺、これだけはどうしても恭子に受け取って欲しいんだ。綺麗なんだよ、見てくれよ、俺の思ってる恭子そのものなんだ。
 ずっと、後悔してた。恭子が俺と付き合ったせいで夢をなくして、自分がただの安っぽいものみたいに思っちまうんだって。でも違うんだ、恭子はいつだって俺の中で最高に輝いていた。俺は恭子に導かれて、今まで頑張って来れたんだ。……分かってくれよ、恭子は素晴らしいんだ」

 

 何かもう、どうしちゃったろうね。

 篤郎がどこまでもまっすぐで、それと裏腹に私はどこまでもひねくれて。ねじ曲がった心がもう元には戻らない。……ごめんね。

 まだ期待してるのかな、私が思い直すんじゃないかなとか。それどころか、この家出自体をただの狂言だと思っているのかも知れない。篤郎の本心を聞き出すために、ちょっと驚かして見ただけ。

 だったら、良かったよね。本当に。

 

「あのね、……私も」

 大きく、息を吸って吐いて。それから、くしゃくしゃに丸まった紙切れを取り出す。すぐに捨ててしまおうと思ったのに、何か……こうして持ったままだった。

「渡したいものがあったの、丁度良かったわ。……これ、何かしら。きちんと説明してくれる?」

 

 昨日、見つけてしまった紙切れ。

 ショッキングピンクの縁取り、妙に浮かれたフォント文字。飛び交うハートマーク。「お得意様ご優待割引券」と書かれた文字の下で、化粧の濃い綺麗なお姉ちゃんが水着姿でポーズを取っていた。




 

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