TopNovel短篇集・2 Top>真珠色の欠片・3


scene 3…

 

 

 何がどう変わったわけではない。

 篤郎が私の隣にいるのは当たり前のことだったし、以前より少しばかり親密になった程度で大して違うわけでもないし。

 

「今日、お前んち、行ってもいいか?」

 そんな風に切り出されたときも、当然のように受け入れていた。両親も弟も出払った一人きりの家に若い男を連れ込むことが何を意味しているのか、それが分からない私じゃない。夏休み明け、最初の時からひと月以上も経っていて、奴が何だかそわそわしているのは知っていた。

「何? 夏休みの課題がまだ終わらないの? ……あんまりいい加減にしてると、首切られたって知らないからね」

 篤郎の気持ちに全く気付いていないふりで答える。そのもったいぶった関係が私を勝者にしているみたいで、意外な気がした。

 

 落とすまでは男の方がヘコヘコしていても、一度そういう風になってしまえば立場は変わる。優しい仮面を剥ぎ取って横暴になる奴も多いって聞いてた。女クラかと思うくらい男子の少ないクラスで、そう言う会話もあけすけ。耳を塞いでいたって、飛び込んでくる。
 高校に進学した途端にびっくりしたけど、本当に周囲が様変わりしていた。ついこの前まではコドモコドモしていた女子たちが、一皮くるんと剥くみたいにきらびやかになってくる。その後ろに男の陰があることなんて、当然だった。

「もう、初めてなもんだから、一方的で。こっちはムードも何もなかったわ〜!」

 一夏の恋のあれこれを得意げに話す友人たち。でも、私はそんな会話に混ざって、自分のことを伝える気にはならなかった。

 バイト先で知り合った大学生。友達と出かけた浜で出会った、都会からの旅行客。多少、脚色もあるんだろうと思う箇所はあれど、退屈な日常にはうってつけのネタだった。週刊誌の告白コーナーに載せてもらえそうな内容。馬鹿な男たちと、その馬鹿に引っかかる間抜けな女たち。でも、彼らはそこに「愛」だの「恋」だの、甘ったるい言葉を添えたがる。

 相づちを打ちながら、心の底が冷え切っていた私。まるで、悟りをひらいてしまった修行僧のようだ。

 ……だって。

 

「あ、あのさっ……。おっ……、俺っ……!」

 二階にある私の部屋に入って、通りに面したカーテンを引いたら。篤郎はもうこれ以上はどうしても我慢が出来ないと言った顔で、抱きついてきた。気持ちばかりが先走る指先が、震えながら制服の裾をたくし上げる。

「きっ、恭子! ……恭子っ!」

 うわごとみたいに私の名前を呼ばれる。そうなっても、気持ちの高ぶりはほとんどなかった。クーラーの冷気が徐々に満ちてきて、残暑の厳しい昼下がりに心地よい。身体の上に乗っかっている篤郎は邪魔だったけど、まあ仕方ないかとか諦めていた。……でも、ちょっと新しい発見もあったりして。

 白いシーツの上、初めての時よりもずっと人間らしく抱き合う。だからなのだろうか、自分でも驚くほど、すんなりと全てを受け入れていた。
 締め切った部屋でも、昼間だからお互いの姿はかなりはっきりと確認できる。じろじろ見るのは下品だとは思っても、そこは好奇心があるもの、仕方ない。薄目を開けて、篤郎の裸体を盗み見た。オヤジ臭くずんぐりしているのは想像通りだったけど、思ったより「男」になってる。下腹の辺りなんて、ちゃんとしまっていて意外だった。

 それに。たった二回目だと言うのに、私の身体はとても素直に篤郎の欲望を招き入れていた。私のその部分は、ちゃんと潤って準備されていたし、まだ多少の異物感はあるものの少しだけ「気持ちいい」とまで感じることが出来た。それは足の裏が軽くひっくり返るような不思議な感覚。自分の身体の内側に起こるかすかな微動をもっと強く感じたいと思った。

 篤郎も、きっと同じような気持ちだったと思う。

 奴は私が思っている以上に身体が成熟していて、得意げに自分の「武勇伝」をひけらかす仲間たちの話を聞いているうちに女が欲しいって思うようになったのかも。純粋な好奇心だったんだろう。その時に偶然、傍には私がいた。それだけのこと。だから篤郎のセックスはいつでも夢中で快感を貪るみたいな感じだった。

 初めての時も、それからも。奴はちゃんと財布からコンドームを取り出した。あの嵐の晩に、当然のようにさかり立った男の手に「それ」があったとき、私は少なからず動揺した。まあ、きちんと準備もせずに後から慌てるよりはずっといいと思う。でも、それって最初から頃合いを狙っていたってことでしょう? 隙あらば宜しくしようとか、私のことを値踏みしていたんだろうか。

 ――そう思っても、もう腹も立たなかった。いつしか「それ」は私の部屋の引き出しに常備されるようになり、なくなると補充される。それも単なる日常のヒトコマでしかなかった。何となくやって来て、何となく抱き合って、何となく気持ちよくなって……それだけ。ただ、それだけ。

 

 気が付いたら、5年。

 その間に私たちは高校を卒業して、篤郎はそのまま自分の店で働くようになった。私はこの通り、田舎の信用金庫の窓口業務。平日は計算が合うまで戻れないから夜遅くなることも多いが、土日祝日は休みになる。たまに研修とかあったりするけど、基本的には休みは休み。それをあてにされてるんだろう、よく篤郎の家のバイトを引き受けた。

 変わり映えのない小さな街で、変わり映えのない私たち。色めくことも全くなくて、何となく過ごしている。こんなでいいのかなと時々情けなくなるけど、他に「出会い」があるわけでもなく。

 ……だよなあ、他に対象が現れないから、いつまでも篤郎の女でいるんだわ、私は。こんな人生なのかなとか、最初から諦めてるのが良くないのかな。

 生まれ育った街。過疎化が進んで、若者たちはみんな都会に出て行ったきり戻ってこない。そんな中で、飛び損ねた私たちだけが残っている。羽を忘れた渡り鳥みたいに、空を見上げながら。

 

 ――結婚、かあ……。

 

 何を今更、って感じよね。

 今までだって、近所のおじさんとかからは「おい、古女房」とか嬉しくない呼び名で声を掛けられていた。町内の誰もが思っていただろう、篤郎があの酒屋を継いで、そこに私が嫁入りするって。誰もが疑いもせずに。

 

「恭子ちゃんって、何月生まれだったっけ?」

 篤郎の家にお邪魔したとき、おばさんに聞かれたことがある。私が6月だというと、彼女はふむふむと頷いて「だったら、誕生石は真珠ね?」って言った。篤郎の方を向きながら。でも当の本人は、聞く耳を持ってなかったけど。

「でも、嫌いなんです。だって、お祖母ちゃんの宝石箱に入ってるみたいで野暮ったくて。5月や7月の方がずっと良かった」

 たまに街に出て、ジュエリーショップで色んなリングを眺めていると、目にとまるんだ。そのたびにイヤーな気分になるのよね。

 キラキラ輝く宝石たちに遠慮するようにパールリングが置かれている。金色ののっぺりした台座に乗せられたまん丸のかたちは好きじゃなかった。エメラルドとかサファイヤとかの方がずっといい。さらに淡水のくしゅくしゅしたかたちなんて最悪。好きな人には申し訳ないけど、貰っても一生身に付けないと思う。

 まるで、私の存在をそのまま暗示しているみたい。最初から、垢抜けてなくて、きっと一生きらめくことなんてないんだ。だから、篤郎あたりがお似合いの相手。面白味も何もないけど、きっとそれなりの人生は送れるはず。奴が内心どう思ってるか知らない。だけど、こんな風に長いこと付き合ってきたんだもん、別にそうなってもいいって考えているんだろう。

 そんなのって情けなさ過ぎる、そう思う反面で、「それもアリかな……」と諦めてる私がいる。でも踏ん切りが付かないのは、どうして……?

 

◇◇◇


「どうする? ……メシでも食ってくか?」

 お店の名前が書かれたミニワゴンに乗り込むと、篤郎はまずシートベルトを装着した。キーを差し込む前に必ずそうするのが、免許を取ったときからの癖だ。同じことで、バイクに乗る前にヘルメットをしっかり付ける。その順番が逆になる場面を一度も見たことがない。

 私の家と奴の家は、中途半端な距離にある。のんびり歩いて20分。走れば10分そこらだけど、途中暗い通りもあるし、日が暮れると少し怖い。こんな風に店の後片付けまでやり終えると、送ってくれるのがいつものことだった。

 ――18時50分。車にくっついてるデジタルの時計が教えてくれる。

 ま、それもいいかもね。……とか、いつもだったら思ったかも。でも、今夜の私は、コイツと当たり前に食事して、その後ベッドの上で一ラウンドなんて、定番コースに進むのは嫌だった。多分、奴の方はそのつもりなんだと思う。さっき、出掛けに万札を財布に突っ込んでたし。

「あのさ、……いいんだけどさ」

 そう言った私の声は、いつもに増してドスがきいていたんだろう。篤郎はとりあえずエンジンを掛けてクーラーを強めにした。ハンドルから手を離すと、こちらを探るように覗き込んでくる。

「昼間の、おばさんの話。あれ、ちょっとひどくない? 人をなんだと思ってるの、どうして私があんたの店のために、そこまでしなくちゃならないのよ」

 多分、疲れていたんだと思う。この頃、暑さのせいか身体がだるくて仕方なかったし、職場のクーラーと、お使いで外に出たときの温度差にもやられていた。身体を動かすことはもちろん嫌じゃない。ずっと運動部で頑張ってきたんだから、いきなり何もしなくなるとその方がかったるいくらい。だから、店を手伝うのは何て事なかった。

 ……でも。

「あー、そうか? あんなん、いつものことじゃないか」

 篤郎の方は「また始まった」って感じでいる。やっぱり、そう深く考えてはいなかったみたい。気が付くと、ゆっくり車は発進していた。目的地に着く頃までには、私の話も終わってると思ったのかしら。

 そうね、いつもは私が仕事のこととかガンガン愚痴って聞いて貰ってる。だって、誰にも言えないんだもの。職場ではどうしてもいい子しちゃうし、家でそんなこと言ったら「社会人としての自覚が足りない」とか、逆にお説教になっちゃう。気の利いたフォローもない代わりに、余計なことも言わない。篤郎は話し相手には丁度良かった。

 だけどさ、こう言うのには時と場合があるでしょ? いつもシャチハタのはんこを押したみたいに同じ反応じゃあ、良くないわよ。

「向こうの辻のラーメン屋にしようか。昼間の蕎麦と同じじゃ、何だし」

 もう、やっぱ、全然分かってない。簡単に会話を切り替えようとするんだから、嫌になる。あんたねー、ことの重大さを全然分かっていないでしょう。キッと睨み付けたら、また運転席の男は静かになった。

「だいたいね〜っ!」

 私は腹の中に溜まった全てを吐き出すように、一気にまくし立てる。

「あんただって、知ってるでしょう? 私が今の仕事を決めるまでに、どんなに苦労したか。この不況下でいくら資格を山ほど取ったって、キャリアがないとそれだけで断られるの。下げたくない頭を下げまくって、やっとの事で滑り込んだんじゃない。それを、トンビに油揚げをさらわれるような風で、いいのっ!?」

 あああ、考えれば考えるほど、腹が立つ。

 今日のことだけじゃない、篤郎んちのおばさんは私が就職の報告をすると、すっごくがっかりしたんだ。頑張っていた私の姿はちゃんと知っているはずなのに、ねぎらいの言葉ひとつなくて。「あらやだ、せっかく店の経理でもやって貰おうと思ってたのに。あてが外れたわ」……とか言って、ぷりぷり怒り出したんだわ。もう、本当に信じられなかった。

 言いたいことは山ほどある。私がいつまでも大人しくしてると思ったら、大間違いなんだから。

「いいの、ってさ。あんなのテキトーに聞き流せばいいじゃん。あの性格は直らねーよ」

 

 ……なのに。篤郎はどこまでも、のほほんとしている。

 何か、嫌だな。もう、先が見えてくるようだわ。泥沼ドラマそのまんまに、嫁姑バトルを繰り広げる私たちと、我関せずの男性陣。きっと、このまま乗せられたレールを進んでいけば、そんな未来が待ってる。そんなの最悪。まだまだうら若き身で、この先何十年もストレスを溜め続けるなんて。

「結婚」という二文字も、篤郎にとってはどうでもいいことなんだろうな。今と何が変わるわけない、ただ今よりちょっと面倒なことが増えるだけ。奴は男だから、それでいいだろう。でも嫁の立場になる私はそうは行かない。そりゃ、それなりに上手く渡っていく自信はある。今までだってそうしてきたんだから。でも、そんなんでいいのだろうか。いいわけないよ。

 

「私、もう――」

 たくさんだわ、いい加減にしてよ。勢いに任せてそう叫ぼうとしたとき、突然に携帯の発信音が車内に響き渡った。私のじゃない、篤郎の方だ。何だろう、今頃。……家からかな?

「……あ、やべ」

 慌てて車を脇に寄せて、篤郎はポケットを探る。液晶の画面をちらっと見た時に、一瞬顔色が変わった気がした。

「はい、山口ですけど――」

 私に背を向けた篤郎がひとこと告げた途端に、金属音のような声が戻ってきた。まるでこの場でしゃべっているみたいに、近く聞こえる。車の中は音が籠もって反響するから尚更だ。何だか、「毎度ありがとうございま〜す」とか、言ってるみたい。

「あ……、えと。ちょっと待って」

 明らかに動揺してる。篤郎は携帯を押さえると、運転席のドアを開けた。

「ごめん、恭子。……外で話してくるから」

 何だろう、ズボンで手を拭ったりして。そそくさとドアを閉める背中を呆然と見送った。

 

◇◇◇


 しんと静まりかえった車内。クーラーの冷気が吐き出される音が、妙に大きく聞こえる。手持ちぶさたな私はそう広くない車内をぐるりと見渡した。

 これは、おじさん名義の車だ。この頃では配達は篤郎が出掛けることが多いから、ほとんどは奴の所有車みたいなものだけど。飾りっ気はなく、かといって散らかってる風もない。後部座席は未だに新車だった頃のまま、シートにビニールが掛かっていた。うーんと伸びをすると、天井に届いちゃう。本当にせせこましくて、味気ない車。

 ……普通さ、彼女を乗せるんだったら、ちょっと格好いいのとか選ばないかなあ。何が悲しくて、営業車。その上、この車でラブホとか行っちゃうんだよ、信じられない。もしも知り合いが見たら、一目瞭然じゃないの。恥ずかしいったら、ありゃしない。

 どうして、もっとスマートに出来ないのかしら。いくら篤郎だからって、もうちょっとどうにかしてくれてもいいのに。

 

「あれ……?」

 それにしても、遅いわね。何気なく時計に目をやったとき、私の目に飛び込んできたものがあった。

 ダッシュポートの引き出しに引っかかっている紙切れ。目にも鮮やかなショッキングピンクが気になって、引き抜いてしまった。

「……何、これ……?」

 手のひらに乗っかるくらいの大きさのそれを、気付いたら握りつぶしていた。信じられない気持ちで、運転席に置きっぱなしになっている鞄に手をやる。レシートや領収証でぱんぱんになった財布。その中を確かめたとき、私は今までにないほどの怒りが腹の奥から湧き上がってきているのを感じていた。

 

◇◇◇


「あ〜、あのさ。ゴメン、恭子。急に予定が入ったんだ、このまま――」

 ややあって、戻ってきた篤郎は、何でもない様子でそう言う。元通り、携帯はポケットに突っ込んで、心なしか頬が赤い。

 何かを必死で隠している態度。窓ガラスに映った姿でも分かる。この男がとても分かりやすい性格をしていたことが今更ながら恨めしかった。噛みしめた唇が内側で切れる。

「……いいわ、家まで送って」

 まっすぐに前を向いたまま、私はそれだけ言うのがやっとだった。膝の上で、真っ白になるほど強く握りしめた拳が震えている。

 でも、車を発進させた篤郎はそれに気付くことはなかった。



 

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