「う……、うわっ……!」 その時の、篤郎の顔と言ったら。もう情けなさを通り越して、どうしましょうと言う感じだった。 「なっ、なななな……どうしてっ!? え、何で恭子がコレを持ってるんだっ!?」 意味もなく辺りをきょろきょろしたところで、誰もいませんって。あーあ、情けない顔、せっかく格好いいことたくさん言ったのに、甲斐なしね。おあいにく様、私はあんたの嘘なんて最初からお見通しなんだから。 びっくりしたわよ、最初は冗談か何かと思ったわ。私の今までの人生の中で、縁のなかった話。男の人が綺麗なお姉ちゃんを買いに行くお店があるんだって知ってはいたけど、心のどこかで馬鹿にしてた。心のこもってない、身体が気持ち良くなるだけのセックスに、どうして大金を払うの? 一時の快楽でいいの、虚しくならないの……? 「うーん、何でだろうなあ……」 余裕の微笑みが浮かぶ。ああ、楽しいな。こういう場面が修羅場にならなくて、まるでギャグみたいにやり過ごせるなんて。やっぱ、私たちってそんな関係だったんだね。 「裏に押してある発行期日のスタンプによると、まあ……随分ご熱心に通い詰めていたみたいね。お気に入りの子でもいたの? 篤郎はどんなタイプが好みだったのかしら」 まあさ、仕方ないとは思うのよ。一度や二度の火遊び。若い男が羽目を外すのも許せる範疇かも知れない。でも、これは異常よ。お財布の中にあった数枚を確認したところによると、この数ヶ月の間にほとんど毎週通い詰めてる計算になる。もうこれは「女狂い」の領域に入ってると思うわ。
最初、コレを見たときは。自分でも信じられないくらいショックだった。篤郎はあっちの方が嫌いじゃないのは知っている。私との関係だって、かなり頻度が高かったと思うし。大丈夫かなって心配になるくらいだったわよ。時々、億劫になることも正直あった。だけど、女として求められるのは嫌じゃなかったのよね。何となく自分が認められたような気分だった。 ――けどなあ、違ったんだな。篤郎の気持ちは全然違うところを向いていたんだ。 器用な男じゃないことは知っている。遊びで女を抱けるようなスマートさは篤郎には期待できないはず。ということは……きっと、本気なんだよね。多分、向こうは恋愛感情なんて微塵も抱いていないと思う、だって商売だもん。時間で女を売るんだもん、あの人たちは。けど、少なくとも篤郎は。
「私も軽く見られたものね。……そうか、おばさんのお気に入りの女を適当に選んでおいて、自分は外でいいことしようと思ってたのか。そうよね、綺麗なお姉ちゃんは、眉間に皺を寄せて伝票計算したり、重いビールケースを抱えて品出しなんてしてくれないもん。そういうのは、私に任せておけばいいと思ってたのね?」 昨日からこっち、口惜しくて涙も出てこないような感情が渦を巻いていた。 飼い犬に手を噛まれるって、こういうことなのかな? 私がいないと何も出来ないって見くびっていた男が、実はこんなにおおっぴらに遊んでいたんだから。これほどの屈辱って、ないよ。もう、信じられない。 ――篤郎にとって、私はその程度の存在だったんだね。それを、よくもまあしゃあしゃあと。心にもないことを並べ立ててくれたものだわ。 「うっ……、ううう。恭子……」 農薬をかけられてしおれた雑草の如くうなだれた、どこまでも情けない男。しかも、てらてらの雨合羽。いつかと同じように窓の外から差し込む外灯の灯りが、安っぽい艶を照らし出す。膝の上に置かれた握り拳。不器用で、ただ正直に働くことしか出来なくて、いつも豆だらけだった。そんな手で身体中をまさぐられるの、嫌だったんだから。 「ち、違うんだ。……違うんだよ、恭子」 ――まだ、言うか。まあ、どの口が言い訳するの? 男らしくしなさいよ、さっさと開き直ったらどう? もしも「浮気は男の甲斐性だ」とかうそぶいたら、この場ではり倒してやる。 「おっ、……俺さ。恭子がどうしたら一緒にいてくれるだろうって考えて。他には何もないから、身体で繋ぎ止めるしかないかなとか……けど、この頃、マンネリだったし……その」 はあ? ……何よ、それ。ぼそぼそと消えそうな声で続く告白に、私は開いた口がふさがらなかった。 「き、恭子、最初はすげー嫌がってたけど、だんだんいい声とか出すようになって。じゃあ、もっと気持ちよくなれば喜んでくれるのかなって考えたんだ。でも、頭で色々想像しても上手くいかないし、本とかビデオとか参考にしても違ったりするし……それなりのテクニックとかあるのかと思ったけど、そんなの分からないしで……落ち込んでたんだ」
ある日、篤郎は飲めない酒を飲んで、うだうだしていた。 そしたら隣にすごく綺麗な女の人が座る。すごく親しげに声を掛けてきて、ついでに一杯奢ってくれたりして。ニコニコと笑顔を向けられても、全然知らない人だし、何だろうと思ったという。
「ふうん、それで手取り足取り。それは、楽しかったでしょうね?」 まあ、ここまで詳しく話されると、こっちも呆れかえって言葉が返せなくなる。間抜けなコメントをしてしまうと、さらに篤郎は「違うんだ」と言う。……違わないでしょ、それ。 「おっ……女がどうしたら感じるかとか、そういうのって、やっぱり同性の方が詳しいだろうと思って色々聞いたんだ。彼女も喜んで教えてくれた。けど、……触ってないし。そりゃ、誘われたけど、違うじゃないか。だって、気持ちよくなる相手は恭子じゃないと意味ないよ。そう言ったら、呆れてたけど……、けど、また来ていいって言われて……話をしただけなんだ。って言っても、信じられないか? 駄目か?」 すっごい真剣な眼差しを向けられる、けど、さあ……。 「は、はあ……」 いや、それは無理。信じる人なんて、多分いないよ。だって、えっちなことをするための少なくないお金を払って、下着姿のお姉ちゃんと宜しくして。何もしないで終わるなんて、そんなのあるわけない。申し訳ないけど、……篤郎のこの話は鵜呑みに出来ないよ、絶対に無理だよ。 私の顔色で全てを悟ったのだろう、篤郎はもうこの上ないほど寂しそうな顔をして、でも震える唇でこう告げた。 「恭子が俺から離れていかないことだけが、願いだったんだ。恭子が喜ぶことなら何もしたかったし、でも俺には何もないし。恭子が憧れるようなデートも出来ない、新築マンションでの新婚生活なんて言うのも無理、親と別居するのもあり得ない。 「うっ……、それは」 確かに、嫌じゃなかったよ。むしろ、良かったと思う。まあ、私は篤郎しか男を知らないから、比較する術もないけど。篤郎とのセックスは嫌いじゃなかったよ。ぐいぐいリードしてくれて、導いてくれる篤郎がいつもよりもずっと逞しく見えたしね。 私、愛されてるんだって思ってた。もちろん、その場限りの感情だったけど。だから離れられなかったんだ、ずっとこのままでもいいかなって思ったんだ。すごく短絡的だとは思うけど……ね。 「まあ……、そうね。そうかも知れないわ」 女の口から、こんな恥ずかしいことを言わせるなんて、あんた最低ね。だけどさ、結局のとこ、これだけ大切に思われていたんだな、私。篤郎なんて、馴れ合いでただ一緒にいるだけだって思ってたのに。コイツなりに色々考えて、長いこと悩んでくれてたのか。ちょっと、感動したかも。 「なら、良かった」 「これ、持って行ってくれよ。後生大事にしてくれとは言わない。ただ……、恭子が受け取ってくれればそれでいいんだ。旅立ちの餞別だと思ってくれ」
――え? ……そうなの?
そんな感情が先に来た。だって、驚くじゃない。ここまで熱っぽく告白されて、お前しかいないって言われて。で……餞別? 篤郎は私がいなくなっちゃっていいと思ってるの? 「あ……、ありがと」 頭の中に、ぎゅうぎゅうと疑問符を詰め込んで。それでも私はあっさりと受け取っていた。思っていた以上に頼りない重さ。――これが、篤郎の気持ちの全て? 思わず、その顔をまじまじと見返してしまう。本当に満たされた嬉しそうな笑顔。篤郎って、すごく幸せの基準が低いんだね。欲しいものを何が何でも手に入れたいとか、そういうどん欲な気持ちはないの? ホントのホントにおしまいでいいの? ……そして、私。どうして、こんなにがっかりしてるのだろう。 「開けて……いいかな?」 そう訊ねたら、うんうんと頷いてくれた。指先に視線を感じながら、膝の上で紙袋を開く。内側は白いその空間に、やはり純白の小さなケースが入っていた。そっと卵を手で包むみたいに取り出す、軟らかいビロードの手触り。改めて手のひらに乗せてみると、それは自分の内側からキラキラと輝きを放っているように見えた。 手を添えて、ひとつ息を飲む。篤郎の方を確認したら、奴もやっぱりとても緊張した面持ちだ。私は震える指先で、そっとケースの蓋を開けた。 「……うわ」 思わず、声が出てしまった。そんなに驚いてやる必要もなかったのに。だいたい、期待してなかったわよ、篤郎のセンスなんて。可愛いとか、私のイメージだとか。もう百年前に使い古された言葉じゃないの。大したことないだろうって、踏んでいた。 なのに、なのに。 何だろう、コレは。本当に強く扱うと折れちゃうんじゃないかと思うくらい細くてしなやかな金のリングに、小鳥が止まり木にとまったみたいにちっちゃなパールが一列に並んでいる。こんなに小さな粒があったんだと思うくらいの大きさ。全部で6個。その真ん中にこれまた小さな小さな石が付いてる。……もしかして、ダイヤなのかな? すごく綺麗だもん。二種類がお互いにケンカせずに、仲良くしていた。 「はっ……、はめてみて、いい?」 篤郎はまた、こくこくと頷く。何か、もう。見た瞬間に自分のものにしたいって思っちゃうくらい素敵だった。きっと、篤郎じゃなくて、私自身がお店でコレを見ても、絶対に欲しくなっただろう。真珠って、大きくてぽってりしてるんだとばっかり思っていた。こんなに可憐で愛らしいものもあるんだね、思ったよりセンスいいよ、篤郎。 「見てみて? ……綺麗……」 骨張って、関節がごつごつしていて。あまり女らしいとは言えない私の手。マニキュアくらい塗ればいいのに、爪を磨くことすら忘れていた。何だか指輪に申し訳ない。でも……そんな私の指に、指輪はぴったりとはまった。そして、ここが私の住処だって言ってるみたい、……そうだよね? 同意を求めようと篤郎の方を見た。なのに、奴はもう呆然と魂が抜かれたみたいになってる。もともと地味で目立たない顔立ちが、もうのっぺらぼうになってしまったみたい。 左手の薬指から、じんわりと満たされた心地が広がっていく。私は一体、この町の外に何を求めていたんだろう。田舎の生活が味気ないって、どうして決めつけていたのかな。本当はそうじゃない、どこで暮らすから幸せになれるってことはないんだ。私が今存在する場所で、思い切り頑張ればいい。私を必要としてくれる人がいれば、その人の隣で輝いていればいい。 「……篤郎?」 ほんの少しの空間を泳いで、いつでも温かいその場所にたどり着く。何で篤郎がいいのか、分からない。全然格好良くないし、頼りないし。だけど、一緒にいたいんだ。私をずっと一番大事にしてくれれば、それでいいの。馴れ合いじゃなくて、きちんとそこに心があれば。篤郎の気持ちがしっかり私に向いていれば、いい。 「うっ……、うわわっ……! ど、どうしたんだよっ、……恭子っ!?」 結構、乙女に感激してるんだけどな。そんな私に対して、篤郎はうろたえるばかり。せっかくぎゅっとしがみついたのに、慌てて引き剥がそうとするの。 「おっ、俺さ。泥だらけだし、その……濡れてるし。ヤバイよ、離れてくれよ。恭子が濡れちまうじゃないか……!」 しゅくんしゅくんと、ビニールがきしむ。生っぽい香りが広がってく。正直、色気は欠片もない。ムードをぶち壊すには最高だと思う。でも……それでも、篤郎だから、いいよ。 「馬鹿っ……! しっかりしなさいよ、このままだとどっかに飛んで行っちゃうわよっ!? 本当に大切だったら、離したくないなら、ごちゃごちゃ言う前に、きちんと捕まえててよっ……!」 何で、こんなことまで言わせるのかな? 自分で自分が情けなくなる。男だったら、やるときはやってもらわなくちゃ。寝技勝負なだけじゃ、駄目でしょ……? 私が誇れるような男になってよ。 「あっ……あの? 恭子……、えと、……いいのか?」 うわあ、まだこんなこと言ってるよ。もう、いい加減にして! 「いいのか、じゃないでしょっ!? いつまでも待っていてあげないんだからっ……、早くしないと篤郎なんて、世界で一番大嫌いになっちゃうからっ……!」 口惜しくて口惜しくて、涙が出る。何で、私、こんな奴が好きなんだろう。どうして篤郎じゃないと駄目なんだろう。考えても答えなんて出ないけど、仕方ないわ。このまま、運命に逆らわない振りをして、私らしく生きてみたい。 「……恭子……!」
私はもう、ぼろ泣きだった。けどそれは、篤郎も同じ。 ふたりでオンオンと泣きながら、一頻り抱き合っていた。何が悲しくて涙が出るのか、それも分からないけど。出っ張りとくぼみが綺麗に合わさったみたいに、私たちはやっとニュートラルな心に戻れた。 「おっ、俺さ、頑張るから。必死で働いて、ウチの店がでかいビルに建て替えるまで頑張るよっ! だからさ、苦労は掛けないようにするからさ……」 「……馬鹿」 必死の告白を、途中でぶった切る。篤郎はちょっと不機嫌な表情になったけど、そんなことは気にしないわ。 「あんまり頑張って、身体でも壊したらどうするの。大きなお店なんていらないわ、篤郎とふたりで切り盛りできるだけの広さで十分。そしたら、いつも篤郎は目に届くところにいるでしょ? 今度浮気してもすぐに分かるわ」 え? と、半開きになった唇に指を当てて。それから少し伸び上がる。こんなに一緒にいて、でもキスは久しぶり。最初はぎこちなくて、途中からはふたりとも温かいぬくもりに夢中になった。 「……んっ、やんっ! ……ちょっと待って、どこ触ってるのよっ!」 気が付いたら、首筋から胸に、篤郎がどんどん侵入してくる。はだけたブラウスの隙間から、唇と指が同時に入り込んだから、ぎょっとした。 「え……、駄目か? あの、何か急にやりたくなっちまったんだけど――」 駄目駄目って、思い切り首を振ったら、また悲しそうな顔になる。思わずほだされてしまいそうになるけど、今は駄目。……もう、何ですぐにこうなるのかな。 「や、やっぱっ!? 嫌なんだろ、俺なんかもう不潔で嫌だとか、そんな風に思ってるんだろ。そんな、恭子、俺……」 さらにベタベタとしつこく触ってくるから、思わずぴしゃりと叩いてしまった。叱られた犬みたいにしょぼくれた顔。 「……違うんだけどさ」 「どうもね、……いるみたいなのよ」 さすがにこれだけでは分からなかったみたい、きょとんとした顔でこちらを見てる。仕方なく、私は自分の下腹をぽんぽんと叩いた。 「え……嘘だろ?」 口をあんぐりと開けて、そのままの表情で固まってる。だろうなあ、私だって面食らったもん。それもあって、この頃ちょっとナーバスだったのよ。もう、どうにもならないなら、親子ふたりで寂しく生きていこうかと思っていたわ。 こういうのって、何だかなと思う。 それこそ、おばさんの思うつぼ。報告したら、大はしゃぎで速攻式場を予約しそうな気がする。披露宴の招待状の宛名書きも始めちゃうかも。そして、私は。近所の人たちからも仲間たちからも「やっぱりな」って言われるんだ。私と篤郎がどんな未来を歩むのか、きっと本人たち以上に周りがしっかり把握していたんだろうな。 「嘘で、こんなこと言えますかって」 まだまだ、頼りないなあ。コレで大丈夫なのかな? もうちょっと鍛えて、しっかりして貰いたい。篤郎だから、きっと大丈夫だと思うけど。 「この子はあんたをパパにしたいって、生まれてくるんだからね。気張りなさいよ?」
◇◇◇
あの思い出の丘に黄色い花が満開になる頃、生まれてくる子の目には何が映るんだろう。 丘の上から見下ろせるすり鉢の底の町。お風呂屋さんの煙突の影にある赤い屋根のお店が町にひとつだけの酒屋さん。そこを切り盛りするおしどり夫婦がパパとママなんだよって、いつか教えてあげられますように。 私は、私なりの幸せを、きっとこの手に掴むから。
了(041005)
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