TopNovelヴィーナス・扉>憲ちゃんの彼女・4

本編で残念だった佐々木さんの恋バナ


 チーフはそこまで言うと、私の両手をぎゅうううっと握りしめる。
「萩原さんも試してみればいいんだよ、好きでもない相手と結婚して幸せになれるかどうか。ここに俺という相手もいるし」
「なっ、ななな……いきなり変なこと、言わないでください……!」
  もうっ、慌てて手を振りほどいたよ。チーフって「ポコちゃん」のくせに行動早すぎっ! この先は心して掛からなくっちゃ。
「私っ、結婚するなら憲ちゃんじゃなくちゃ、嫌です!」
  そう叫んでしまってから、自分でもびっくりする。
  あれ、あれれ、そうだったのか。私って、憲ちゃんのお嫁さんになりたかったの? えええ、全然知らなかったよ……!
「ふうん、そうかあ」
  元どおりのニコニコ顔に戻ったチーフ、テーブルの向こうで頬杖をつく。
「でも、『憲ちゃん』は別の人と結婚するんでしょう? だったら、もう無理じゃない。萩原さんの夢は一生叶わないってことだよ」
  その言葉に、私は固まっていた。
  ああ、そうだ、そのとおりじゃないか。憲ちゃんは私とは結婚しない、というか最初から私のことを恋愛対象としては見てない。今までずーっとそうしてきて、いきなり変われと言っても無理な話。
  私って、……今までなんて不毛な戦いを続けてきたんだろう。
「そろそろ、現実と向き合った方がいいと思うよ」
  世の中で一番恐ろしいもの、それは真顔の「ポコちゃん」。そのことを、私は今、痛烈に悟っていた。
「でっ、でも……」
「萩原さん、不倫とか興味ないでしょう? だったら、さっさと覚悟を決めなさいって」
  私のそろそろ二十年近くになる恋心を、ばっさばっさと容赦なく斬りつけてくる非情なチーフ。
「でもっ、私は……」
  それでも、憲ちゃんのことが好きなんです。そう続けようとしたけど、どうにも声にならなかった。唇がみっともないくらい震えている。でもここで泣くわけにはいかない。
  そのとき。
  うっかりしすぎていてマナーモードにもしていなかった私の携帯が、元気いっぱいの行進曲を奏で始めた。
「……うわっ、ちょっとすみません!」
  私は驚いて立ち上がる、だってメールじゃなくて電話だったから。狭い店内を飛び出して、店先へ。そして通話ボタンをプッシュ。
「――もしもしっ!」
  なんでなんでっ、今頃電話してくるの。今日は平日でしょ、いつもだったらこれくらいの時間はバリバリ仕事中のはずじゃない……!
『……』
  勢い込んで呼びかけたのに、電話の向こうは無言。でも、ただ黙ってるのとは違う。荒い息づかいだけが聞こえてくる状態。
「なっ、なにっ? 憲ちゃんっ! ど、どうしたの……!」
  訳が分からないまま、なおも叫んだ。そしたら、爆風のような音の向こうから、かすかに言葉のようなものが聞こえてくる。
『……あれ、小夏……?』
  なんなの、それ。人に電話しておいて、「あれ」ってどういうこと!?
『……小夏……俺、もう駄目みたいだ……』
「えっ、憲ちゃん! なにっ、なに言ってんの……っ!?」
  なんか、もしかしてヤバイ状態っ? そんな馬鹿なって思うけど、電話の向こうの憲ちゃんは明らかに変。今までにもこんな風によれよれになって電話してくることはあった、たとえば彼女に振られたあととか。でも、今回のは明らかになにかが違う。
『……』
「憲ちゃんっ、……憲ちゃん、憲ちゃんてばっ!」
  なんだかもう、こっちまで大混乱。何度も何度も名前を呼んでみたのに、反応がなし。
  大変だ、どうしよう。――そう思ったときに、不意に携帯が取り上げられた。
「……あの、今どこにいるんですか」
  振り向く間もなく、背後からひどく冷静な声がする。そして携帯に耳を当てたまま何度か頷いた「ポコちゃん」は、やがて私の方へと向き直った。
「支払いを済ませてくるから、タクシーを捕まえてて」
  そして私の手には、通話を終えた携帯が戻ってくる。しんと冷え切った淺春の宵、妙に凛々しい「ポコちゃん」の背中がドアの向こうに消えていった。

 タクシーが到着したのは、ターミナル駅のロータリーだった。
  車を降りたチーフが脇目もふらずに路地に入っていくから、私も当然ながらあとに続く。ちょっと気味悪くてなにかが出そうな場所だったけど、仕方なく。
「あっ、あの! チーフ、本当に憲ちゃんはここにいるんですか……!?」
  もしかして私、警戒心ばりばりの声を出してしまったんじゃないだろうか。
  前を行くチーフが急にぴたっと足を止めると、くるーりと静かに振り向く。そして無言のまま、進行方向を指さした。
「……あ……」
  薄暗くて、はっきりとは確認できない。でも、なにか大きなものが転がってるのがわかる。あれって、不法投棄の粗大ゴミ? それとも――
「……けっ、憲ちゃん!!」
  見覚えのあるコートに気づいて、私は思わず駆けだしていた。そして、すぐあとをもうひとつの足音がくっついてくる。これはチーフのものだ。
「憲ちゃんっ、……憲ちゃん……!」
  やっぱり、それは間違いなく憲ちゃんだった。狭い路地に横たわって、息も絶え絶え。その上、顔があちこち腫れ上がってる。
「……これは、ひどいな」
  ほどなく追いついたチーフも呆然と呟く。
「憲ちゃんっ、誰にやられたの! ……えとっ、救急車! それから、警察も呼ばなくちゃ……!」
  なにがなんだかわからないまま、それでも慌てて携帯を引っ張り出す。でも、ボタンを押しかけた私の手首を、憲ちゃんが弱々しく握った。
「いい、……誰にも知らせるな」
「でっ、でもっ!」
「俺が……俺が全部、悪いんだから……」
  いったいどうしちゃったの、憲ちゃん。いきなりこんなボロボロになって、絶対に普通じゃない。それなのに、誰にも言うなって、それって……
「萩原さん」
  地面におしりをぺたんと付いたままで途方に暮れていた私に、背後から場違いなほどにに落ち着いた声がしてくる。
「この人、外傷よりも内面的なショックの方が大きいみたいだ。とりあえず、どこかゆっくり出来る場所に運んであげた方がいいと思うよ」
  さすがはホール係のチーフ、緊急時の対処法にも長けていた。
  私たちはふたりがかりで憲ちゃんを路地から表通りまで引っ張り出すと、ちょうどとおりかかったタクシーに乗り込む。
「彼にとっても、自分の部屋に戻るのが一番でしょう」
  その言葉に、私も大きく頷く。
  私とチーフが挟み込むように支えている憲ちゃんは、涙と汗と鼻水でぐちょぐちょになった顔。正直、全然格好良くない。ただ、それとその向こうに見える「ポコちゃん」のどっちを選ぶかと言われたら悩むけど。
「良かったね、こんな状態じゃ乗車拒否をされても文句は言えなかったよ」
  真顔でそんな風にいわれたらびっくり。思わず車を降りるとき、チップとして千円多く払ってしまった。
  もしかして……チーフは過去に乗車拒否をされたことがあるの!? まさか人形だと思われたとか、……違うよなあ。
  そして私たちは巨漢の憲ちゃんをふたりで三階の部屋まで運ぶ。これもかなりの重労働、あとから考えてもどうして敢行できたのかが不思議で仕方ない。
  そんなこんなで。ようやく憲ちゃんを部屋まで引きずり込むと、チーフはホッとしたように微笑んだ。
「じゃ、俺は帰るね。……萩原さんはどうする?」
  安っぽい蛍光灯に照らし出される黄金の微笑み、それはまるで私の答えを最初からわかってるよと言わんばかりのものだった。
  だから答えた、即答で。
「も、もちろん残ります!」

 

つづく♪ (110812)

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2011年8月12日更新

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