「無農薬無化学肥料で多品目野菜を育てることとは?その七」
このシリーズ、際限もなく続けられるような気もしていたけれど、畑に植え付けられてからの野菜への寄り添いはそれこそ千差万別、野菜が違えばやり方も違うし人が違えば皆やり方が違う、というくらいのものだ。であるから、最後に収穫について述べてシリーズを終わろうと思う。
無農薬野菜の収穫は、慣行栽培の収穫と変わらないじゃないか、と思う方もいるかもしれない。ところが、無農薬であるからこその繊細なやり方がある。重要なのは、野菜の調整作業だ。ここに一番手間暇がかかる。大雑把な有機農法家は、虫食いであっても胸を張って出荷しているし、泥だらけのままがいいという人もいるだろう。僕も昔は大雑把な有機農法家であった。でもよく考えてみると、泥すなわち土は家庭に持ち込むべき性質のものではない。野菜を洗って出た泥を家庭菜園に使うのが趣味という人ならいざ知らず、土は畑に戻るのが筋というものだろう。そして、虫食い。虫食いにもいろいろある。ほどよい虫食いは単に食われただけであるから、人の幅ならぬ野菜の経歴の証となるやも知れぬ。しかし、野菜は人間と同じで同じ轍は踏まない賢き生き物。野菜の種類にもよるが、たとえば顕著な例が葉ねぎだ。葉を虫に食べられたなら、臭いを放つ性質がある。ひらく農園に来られて観察するとよくわかるが、葉ねぎの調整作業中の恭さんの振る舞いの中に、葉ねぎの臭いをかぐ姿が何度も見られるだろう。つまり、食われて臭う葉ねぎは出荷できないということ。これは、病気にも当てはまる。野菜は賢くも単純である。香りのよくないものは理由があるのである。具体的には、調整作業の中で、虫食いを如何に発見するか、が品質のよい野菜を出荷するポイントなのである。
品質の悪いものは敬遠される、という鉄則がある。何事も百%ということはありえないが、最善を尽くすことは誰にでもできることだ。まして現代人にとっては、時間の制約の中での最善だ。先ほどの葉ねぎの例で言えば、虫食いを発見したなら、直ちにこれを捨てるのである。捨てるといっても、最終的には畑に戻るのであるから、マイナスにはならない。葉ねぎの外葉のほうに虫食いがあることが多いので、質量は軽くなるが一枚皮をむくのである(薄皮の威力)。真ん中の葉にそれがあれば葉ねぎ一本丸ごと捨てる。収穫した野菜をどれだけ時間をかけて捨てることができるかが、品質につながるのだ。慣行栽培でハウスで育ってしかも水耕栽培であれば、外葉が黄色くならない程度に液肥も流し込むであろうから、調整作業も楽なようになって仕組まれていることだろう。無農薬無化学肥料であるということは、出荷の直前まで手間暇がかかっているということなのである。
ひらく農園では、貯蔵物の野菜意外は収穫を手伝ってもらったことは一度もない。人に任せられる種類の仕事ではないのだ。調整作業を頭に浮かべながらの収穫でなければならないのだ。そして一番重要なことは、野菜がたくさんあってだめにしたくないから収穫するのではなく、この野菜が本当の旬の味であるから収穫するということであろう。売り切ることができるならそれが一番いいが、野菜は工業製品ではない。廃棄物はすべて次作の糧になる。できた野菜はどんどん捨てよう。畑に戻そう。遺伝子は残るのである。これで無農薬無化学肥料で多品目野菜を育てることのシリーズはひとまず終了することにする。季節は春も真っ盛り。畑では葉ものたちが、春を謳歌するように柔らかいその葉をぐんぐんと伸ばしている
2004年3月31日 寺田潤史