業務日誌(2002年10月その3)

 10月23日 10月25日 10月27日
 10月27日追伸 10月28日 10月31日
 一つ前へ 一つ後へ  日付順目次へ 分野別目次へ トップページへ


10月31日 草加事件

 ちょっと忙しくて、2日ほど遅れてしまいましたが、草加事件民事訴訟差し戻し控訴審判決について。

<草加事件> 埼玉県草加市で85年7月19日に起きた中学3年の女子生徒の殺人事件。14〜15歳の少年5人が殺人などの疑いで逮捕され、捜査段階では5人とも犯行を自白したが、少年審判では全員が否認。浦和家裁は、非行事実(殺害行為など)があったと認定して5人を初等、中等少年院送致の保護処分とした。少年らは抗告、再抗告したが、89年7月に最高裁で確定した。
 その後少年らは再審請求の趣旨で「保護処分の取り消し」を3度にわたり申し立てたが、保護処分の取り消しに再審の利益は含まれないとして退けられた。
 今回の判決は少年審判事件確定後に被害者の遺族が起こした損害賠償請求の民事裁判の控訴審。民事裁判では1審が請求棄却(=少年らが殺人犯人との証明認めず。具体的には当時の捜査段階の自白の信用性を否定)、控訴審が請求認容(=自白の信用性認める)、最高裁が破棄差し戻し、そして差し戻し控訴審が請求棄却(=自白の信用性認めず)と言う結論になった。
 
 
 強引な自白の獲得により、信用性に疑問のある自白が生まれ、そのため少年らにとっても被害者らにとっても多くの時間を犠牲にしてしまった結果となってしまいました。

 このような判決が出るたびに、マスコミは「自白偏重の捜査に警鐘」等とコメントします。捜査が自白偏重なのはたしかにそのとおりでしょう。

 でもその背後にある制度的な問題は未だに日本人にとって強く意識されていないように思えます。捜査は捜査自体のために行われるのではなく、刑事裁判での証拠獲得のために行われるものです。捜査が自白偏重になるのは、強引な手法によって獲得された自白であっても、裁判で証拠能力が否定されることが極めて少ないからです。問題は捜査自体よりも裁判所の証拠の判断構造にあります。

 さらに制度的に問題なのが、とにかくまず被疑者の身柄を拘束することしか考えない日本の刑事司法の運用です。

 社会人が突然逮捕され、通常でも13日間から23日間も身内から隔離され、連日取り調べに遭うということは、当人にとって、取り調べ自体の苦痛もさることながら、仕事や自分の社会的地位との兼ね合いで、「自白しなければいつまで苦しめられるかわからない」「自白しなければ起訴後も保釈が認められない」というジレンマに直面することになります。

 このような運用が改善され、安易な身柄拘束を裁判所が認めないことになれば、捜査機関も安易な自白獲得に走らず、客観的証拠の収集に全力を挙げざるを得ないはずです。

 日本の刑事ドラマがすぐに「被疑者を落とす(=自白させる)場面」に出くわすのに対し、アメリカの刑事小説ではそのような場面はほとんど出てきませんよね。アメリカがすべて優れているとは申しませんが、いいかげんに自白=解決という観念を捨てるべき時に来ているのではないでしょうか。




10月28日 扶助協会の財政難(3)

 1月25日3月20日の日誌に続く話題です。

 本日、扶助協会東京支部から1枚のファクスが届きました。いよいよ扶助協会の予算が底をついているようです。債務整理事件の資力の基準を以下のとおり厳しくすると言うお達しが来ていました(東京だけかも知れませんが)。

1 資力基準自体は4月からの運用どおり、一般援助事件の8割の収入を基準とする(4人家族で月収26万3000円以下)。

2 ただし、資力の判定に当たって、家賃の支払いを考慮して月収から家賃分を差し引いた額を「資力」としていたのを廃止する

 ←結局引き下げと同じことです。

3 生活保護受給者以外は、援助開始時までに立替金の4分の1(4から5万円)の事前償還を義務づける。

 ←これが最も厳しい、というかナンセンスとしか思えない規定。法律扶助協会に駆け込んでくる人に、弁護士が受任する以前に5万円が用意できるとは思えない。

4 扶助の基準に「破産事件は免責の見込みのあること」だったのが、これに「同情に値する」を加える

 ←これも意味不明。要は浪費した経験がある人は、免責見込みがあっても扶助では扱わない、ということか?

5 任意整理・個人再生は原則として扶助の対象としない

 ←これは賛成。というか、私が主張してきたことがようやく採用された感じです。どうしてもっと早く、このような方針にしなかったのでしょうか。

 扶助協会は、せっかくできた法律による補助金を諸外国並みに引き上げる政治的意図から、予算不足になるのを承知で当初大判振る舞いした嫌いがあります。それならそれで、予算がつきる最後まで押し通せばいいのではないでしょうか。実際に予算が尽きそうになってくると、腰砕けになって援助基準の見直しをするというのは、定見もないし、機会均等の意味からもほめられた話ではありません。




10月27日 ロースクール私見(2)

 25日の日誌の続きです。

 司法改革の目玉として、弁護士の絶対数を大幅に増加させるため、近年中に司法試験合格者を700人から3000人に増加させることになりました。

 現在の司法研修所は、1994年に湯島から埼玉・和光に新築の上、移転したものですが、当時の合格者700人程度を念頭に建築されたものなので、3000人の司法修習生はとても収容できません。

 そればかりか、全国に散らばって行う司法修習の実務修習も、裁判所・検察庁・弁護士会の受け入れも相当困難が予想されます。

 そのような時期に突然浮上したのが日本型ロースクール(法科大学院)構想です。

 ロースクールはアメリカが本場であり、厳しい競争とソクラテスメソッドによる講義、臨床教育等が特色といえます。

 このロースクールを日本に導入することにより、容量的に破綻する司法試験合格→司法研修所での研修→法曹資格取得という法曹養成方法から、法科大学院入学→同卒業→司法試験合格→(司法研修所での研修)→法曹資格取得という法曹養成方法に大きく切り替わることになります。

 そして、これとともに、従来の法曹養成制度の抱えていた弊害が一気に解決されるということが推進論者から熱く語られております。

 第1に、法学部教育が法曹養成に役に立たず、予備校全盛の受験競争になり、受験テクニックばかりが強調される弊害について。

 司法試験の合格率が飛躍的に上昇(80%という数字が挙げられている)して、予備校に通わなくとも合格できる状態になり、また法科大学院を「入学は容易く、卒業は難しい」ものにするため、大学院内での勉強が重要になり、大学院を離れて予備校に通うメリットがなくなるため、こうした弊害はなくなるだろう、と言うのです。

 第2に、受験テクニックばかりを身につけた受験生が合格し、それ以外の能力や人間性はないがしろにされている弊害について。

 法科大学院では、受験テクニックはもちろん、従来の机上の学説の羅列のような講義形式から実務や臨床を重視した学習方法に切り替わるため、法律家に必要な能力がより十分に養成されるだろう、と言われています。

 第3に、司法研修所の研修がぬるま湯的になっている点。これは前述のとおり、法科大学院での厳しい競争によって一掃されるはずと言われています。

 本当なら、日本型ロースクールはバラ色の制度といえそうです。でも、本当でしょうか?(続く)


追伸 ルールの変更

 今朝の朝日新聞3面の風刺漫画で、竹中政策に抵抗する銀行が揶揄されていました。

 別に銀行の肩を持つつもりはありませんが、今回ばかりはちょっと可哀想な気もします。

 竹中政策の目玉とされる「繰り延べ税金資産」のルールは、従来合法的に求められてきた会計法則です。それを突然、ルールを変更して「銀行の経営は破綻している→トップの責任を問う」という目論見だそうです。

 本来、どうしてもトップのクビをすげ替えて強制資本注入したければ、その旨法改正して、告知期間をおいてやるべきものでしょう。それを法改正もせずにむりやり銀行を思い通りにしようとするのはどう考えてもおかしい。

 ある銀行トップが「サッカーをやっている途中に、突然これはアメフトだと言われたようなものだ」とコメントしたと報道されていますが、同感です。

 民主主義の最大の価値の一つは、あらかじめ民主的な手続きで決められたルールに従っていれば、時の政権の気にくわなくても不利益を被ることはない、という予測可能性があることです。手続き的保障が守られること自体に価値があるのです。これも立派な人権の一つです。

 日本人が「人権」というとき、どうもこの「手続き的保障」の観点が抜け落ちているような気がしてなりません。銀行憎けりゃ手続きはどうでもいい、というのでは民主主義国家ではないでしょう。




10月25日 ロースクール私見(1)

 昨日の朝日新聞で、私も知っている道あゆみ弁護士が法科大学院(日本型ロースクール)の記事で掲載されていました。

 記事の趣旨は、弁護士・裁判官・検察官(あわせて「法曹」という)養成の新方式として導入が計画されている法科大学院→司法試験のルートに対し、従来型のロースクールを通さないルートを残すべきかどうか、という議論で道弁護士とどこぞの自民党議員が対決しているものです。

 と、いってもほとんどの方にはなじみの薄い問題だと思われますので、当職流に簡単に説明しますと………

 日本の従来の法曹養成制度は、司法試験に合格→司法研修所に入所→2年(最近は1年半)の研修→司法研修所の卒業試験(俗に「2回試験」という)合格→裁判官、検察官、あるいは弁護士に(法曹資格の取得)、ということになっていました。私もこのルートで弁護士になったわけです。

 この司法試験は、かつては合格者が400〜500人程度に限られた時代が続き、倍率も50倍以上で、「現代の科挙」と呼ばれる状態でした。最近は合格者の増加がはかられ、私が合格した時点で700人、今年は1200人の合格者の予定で、ずいぶん増加はしましたが、受験生も倍増したため、相変わらず高倍率の試験であることは変わりません。

 一方で、司法研修所の2回試験は「合格して当たり前の試験」。わずかに追試になってしまう者も出ますが、それとても追試で不合格になる例はありません。

 このように日本の法曹養成は、選抜が司法試験の一発勝負に偏っていて、これが様々な弊害を生んでいると言われています。

 第1に、司法試験があまりにも高倍率であるために、大学の一般の法学部の授業ではとても対応できず、予備校に通うのが当たり前になっていること。そして、予備校では、広く法律に関する素養を養うことよりも、試験に出る論点主義、得点のテクニック主義に徹した指導がなされるために、受験テクニックに優れた者しか法曹になれないということ。

 第2に、司法試験自体が、あくまで学力試験であるのに、あまりに高倍率であるために絶対視されてしまい、法律家に必要な学力以外の能力(交渉能力、説得技術、カウンセリング能力、そして人間性)は何ら試されないまま法曹が誕生していること。

 第3に、司法研修所の研修は「合格して当たり前」のために、ぬるま湯的研修になりがちであること。

 これらの弊害と、弁護士が不足しているという社会の圧力、法曹養成に復権を果たして生き残りをしたい大学の目論見が絡まり合って出てきたのが、日本型ロースクール=法科大学院構想なのです(その詳細は続く)。




10月23日 久々奈良出張

 昨年業務日誌の第1号を飾った奈良地裁の事件に、久々に行ってきました。

 なんと、私が「枯山水」と評した風流な庭ごと改築工事に入ってしまったらしく、本来裁判所の建物があった部分は工事の囲いに覆われてしまい、敷地の後ろの方にプレハブの仮庁舎が建っていました。おかげで法廷を探すのに手間取ってしまいました(^^;

 この裁判、毎回愚痴っているようですが、今回は8ヶ月ぶりです。本来6月に期日が入っていたのですが、期日直前に裁判所から連絡が入り「裁判官が転勤で交代し、準備に時間がかかるので期日を延期して欲しい」とのことで、今日までずれ込んだものです。

 それはいいとして、なんとまたしても後任の裁判官は前任の裁判官から何の引継も受けていないことが判明。さらにあまり記録を読んでくれていないらしく(6ヶ月何してたんだあ!)、提出済みの証拠を「提出されていませんよ」と言い出し、すったもんだのあげく、何と裁判所の記録のあらぬところに証拠が綴じ込まれていることが判明。代理人の記録の整理が悪いのはよくあることですが、裁判所がこれでは誰も怒れません(^^;;

 本来、知的財産権がらみの緊張感あふれるはずの訴訟なのですが、なんとなく間の抜けた状態で終わりました。うーむ、毎回愚痴ることですが、時間と交通費をかけて東京から来ているのだから、実のある裁判にしてほしいものです。

 さて、裁判官が法廷から去ってしまった後、窓から新庁舎の建設予定地の造成工事を見ながら、私が書記官に「いつ完成予定なんですか?」と聞いたところ、その方は「いやー、わかりません」と。

 「へ?まさか予算が付いていないとか?」

 「いや、予算は付いているんですけれどね。掘ると何が出てくるかわからないですから」

 さすが古都。とんでもない遺跡が出てくる心配をしなければならないわけです。

 「もしすごい遺跡が出てきて、永久保存なんてことになったら奈良地裁はどこに行くんですか?」と聞いたら、「つぶれちゃうんじゃないですか。ははは」という自虐的な答えが返ってきました。うーむ、つぶれてもいい裁判所なのかな?ここは。本気にしちゃうぞ。