その昼下がり。少し遅いランチを終えて、勤務先の出版社が入っているビルに戻ってきたときに「事件」は起こった。
「なあ、悪いけど今日仕事から上がったら、顔貸してくんない?」
イマイチ反応が鈍い自動ドアが開いたら、目の前に立ちはだかる人影。前方確認も出来ないままにいきなりこんなこと言われたら、誰だって驚くよね。まあ相手の方は私だと分かって声を掛けてるみたいなんだけど。
「……はあ?」
だから間抜けな受け答えになってしまうのも勘弁して欲しい。どっかで聞いたことのある声だなと思って顔を上げたら案の定、コイツ私と同じ部署で隣の班にいる男じゃない。そう親しい訳じゃないけどね、部屋が一緒だから頻繁に顔は合わせてるって仲。だけど、何? 前置きもなく急に。
私があんまりまじまじと見つめすぎたからかな、相手はすっごくばつの悪そうな顔になる。
「顔貸してって言ってるだろ? ……ま、つまるところ美味いもんでも食いに行こうってこと」
最後の方はだんだん小声になって。そのあと、彼は誰でも一度は耳にしたことがある有名店の名前を挙げた。
「……」
反応鈍すぎって思われても仕方ない、でも咄嗟には切り返す言葉が思い浮かばなかった。
だって、驚くなって言っても無理だよ。あの店は平日でも一月先まで予約でいっぱいだって話じゃない。実のところ、私も店の前は何度も通ってても未だ中までは入ったことがないし。すごく美味しいって聞いてるけどねー、本場仕込みのシェフが作る本格フレンチ。特にデザートが絶品だとか。
「とにかく七時に店の前まで来て。俺、これから外出るから、直接現地で落ち合おう」
そこまで言い終えると、彼は「あ、やべぇ」とか何とか呟いてビルの外へと飛び出していく。後に残されたのは、私ひとり。開けっ放しの自動ドアの前でしばらくは呆然と走り去っていく背中を見つめていた。
「あー、芳賀(はが)ちゃん! 遅い遅い、何してたの」
頭の回路が一部破損したまんまの状態で部屋に戻ると、すぐさまミドリ先輩に呼ばれた。うーん、まあその他に部屋に点在してそれぞれの仕事をしている人たちも、みーんな私にとっては「先輩」である訳だけど。今年の新入社員はまだ研修中で、そうなると去年の暮れに中途採用で入った私が一番の下っ端になっちゃうのね。
「やっと届いたのよ、待ちに待ったゲラ刷り。ちょっと来てみて、何だかイマイチなんだよねー」
そう言って、右手に持った大きめの紙をぴらぴらさせてる。どこもかしこも電子化真っ盛りの今日この頃、それでもこうやって昔ながらのアナログで進めなくちゃならない仕事は案外多いってこと。
入り口から一番近い自分のデスクにカバンを置くと、紙束や書類が山積みになった通路をすり抜けつつ奥に進んだ。ここはちょっと古めの建物で、部屋もかなりこぢんまりなのね。少し整理して不要品を処分すれば少しはすっきりするんだろうけど、ようするにそんな暇もないって感じかな。
「……あ、用紙は指定通りですね。いい感じです」
インクの香りがプンプンする紙をまずは指先で確認。今回は編集の方から色々と注文を付けられていたから、かなり大変だったんだよな。予算は限られているし、その中でどれくらい要望に応えられるかが我々の腕の見せどころ。サンプルを集めてあっちでもないこっちでもないとやってるうちに、もう少しで指先の指紋が消えるところだったわ。
「そうなのよねー、粘りに粘ってずいぶん勉強してもらったし。でもね、芳賀ちゃんはどう思う? イラストの色味が原画とかなりイメージ違ってるでしょ」
サイズ通りに切り落としていない一枚のままの紙だから、どうやって広げても収まりがつかない。今、ミドリ先輩が私に見せようとしているのは、本来ならばもうとっくに印刷に入っていなければならない新刊のカバー。何だかんだでずれ込んで、かなりヤバイ感じになってる。まあ、原因を挙げればそれこそキリがないんだけどね。今はそれを追求するときじゃないし。
「そうですねー、特にブルー系の発色が厳しいですねぇ……」
もともと地色がアイボリーがかっているからな。カラー印刷っていうのは通常四色、もうちょっと凝ると五色のインクを配合して原画の色彩を再現する。もしもメタリックな色を綺麗に入れるなら、それはまた別にして。機械を回しているのはこの道何十年の熟練さんたちだけど、それでも毎回のようにこうして「ムムム」という事態は訪れる、それくらい難しい作業なんだってこと。
事前の色味調整ではいい感じになっても、実際に紙に乗せてみると予想だにしなかった結果になったりする。さて、どうするか。また一から用紙を選び直しているには時間がないし、かといって適当なところで妥協するわけにもいかないし。「ホッとするナチュラルテイストに」っていうのが、作家先生の強い希望だったしな。
だけどこのままじゃ「しっとりと落ち着いた」というよりも、「誰からも忘れ去られて荒廃した」ってイメージに近い。内容ともかけ離れているし、書店に並んだときの第一印象もイマイチになるな。
「もうちょっと色合いを調整してもらおうか。何なら、班の誰かを直接印刷所に行かせて―― 」
ミドリ先輩が首をコキコキしながらそう呟いたとき、幸運にも私の頭の中で何かがハッとひらめいた。
「あっ、……ちょっと待ってください! そうですよ、今回のイラストはいくつかのバージョンがあったはず。今、探してきます!」
そうだそうだ、どうしてこんな大切なことを忘れていたのかしら。
今はイラストもパソコンで描く時代。手書きからデジタルに移ったことで画期的に変化したのが、ひとつの図案で幾通りもの試作が出来ることなのね。着色はそれぞれ別の紙に色を塗ったものを重ねるみたいにして行われるから、そのどこか一枚だけ取り出して別の色にすることも朝飯前なの。
分かりやすくいうとね、たとえば女の子のイラストがあったとして身につけている服を赤にするか青にするか、そういうのも変幻自在。全部書き上げたあとにそこだけすり替えることも可能だ。
今回のイラストレーターさんもそんな感じにして、幾通りかの候補を挙げてきたはず。その中で班のミーティングで青系のものに決定したんだ。……ええと、どこのフォルダに入れたっけ。
「ありました! 今順次プリントします」
マメだなあー、赤系にグリーン系、イエローにオレンジに、本当に目移りするくらい種類がある。
「はい、まずこちらがオレンジメインのもの。こうして純白の紙に印刷すると軽い感じがしますけど、今回使用した用紙だとかなりイメージが変わってくると思いますよ。温かい落ち着いた雰囲気になるのではないでしょうか?」
イラストは大きくくり抜かれた窓からキャラクターが外の世界をぼんやりと眺めているもの。余計な小道具は一切なく、淡く濃淡を付けた色合いで塗りつぶすことで広がりを出している。シンプルだけど、とても記憶に残る一度見たら忘れられない不思議な魅力のある絵を描く作家さんだ。
「あらそうね、言われてみれば。だけど、今ここでひとつに絞り込むのも難しいなー。とりあえず手持ちのデータを至急印刷所に回してくれる? 上手くいけば今日中にゲラが戻ってくるかも。いくつも試してもらうには時間的に厳しいけど、あとで後悔するよりもずっといいわ」
そんな打ち合わせが続くうちにも、別件の電話が掛かってきたりして慌ただしい。出版社といえばクリエイティブなひらめきが集結したイメージがあるけど、実際はこんな風にその場その場の行き当たりばったりな作業が多い。とはいえ、一瞬たりとも気を抜くことなんて出来ないしまさに緊張の連続よ。
ここは知る人ぞ知る、知らない人は全く知らないという中堅どころの出版社。私はその中の「製作部」ってところに所属している。あまり聞き慣れない名前だって? そりゃそうだろうなあ、私だってここに入るまでは会社の一部門として存在する部署だとは思っていなかったもの。まあ実際、下請けに外注しちゃう会社も多いみたいだけどね。
「製作部」っていうのは、「編集部」から渡された原稿を書籍という手に取れるかたちにして「販売部」に引き渡すというポジション。ようするに双方から要望や難題を突きつけられてかなり厳しい立場よ。で「製作部」の中も「製作課」と「校正課」に分かれていて、後者については読んで文字のとおりね。編集から渡された原稿を体裁を整えて印刷所に回す部署になる。
そして私の所属するのはもうひとつの「製作課」。ここは本の外回りと言われる装幀や表紙、帯などを手がける部署だ。ふたつとして同じものは作れないし、毎回が一度きりの本番勝負。長くやっていればコツや勘も掴めるのかと思ったけど、どうもそれはかなり甘いもくろみだったみたいだ。
「何たって、一期一会が信条だから」―― って、ミドリ先輩が断言するほど。やり甲斐とか達成感とかはものすごいんだけど、その反面絶えずプレッシャーに追いかけられることになる。だって、もしも私たちが作り上げたものが実際に書店に並べられた時に顧客の気を引くことが出来なかったら、とんでもないことになるもの。いつもドキドキハラハラよ。
ついでに私のフルネームは「芳賀美咲(はが・みさき)」。詳しいプロフィールはまたあとで。とは言っても、そんなご大層な過去や肩書きがある訳じゃないんだけどね。
「じゃあ終業時間までに集められるだけメンバーを集めて緊急ミーティングをやらなくちゃ。芳賀ちゃん、そっちの手配もよろしく。私はこれから編集との打ち合わせに出てくるから」
伝え終わる前にファイルとサンプルの入った封筒を抱えるミドリ先輩。課長補佐の肩書きを持つ彼女には私の十倍も二十倍もの仕事があって、いつもきりきり舞いだ。そうじゃなくてもあまりにひとりひとりに割り当てられる負担が大きすぎて「このままじゃ、全員過労で倒れてしまう!」という危機感から私の採用が決まったって話だし。
「メンバー」って言ったって、うちの班は全部で五人。それでも「製作部」の中では一番の大所帯だって言うからびっくりよ。隣の雑誌班が四人で、校正課に至っては三人。毎回新刊の発行にあわせた日程を組むたびに喉の奥からうめき声を出しているもの。
慌ただしい打ち合わせが終わって、私はひとり残された。ただでさえ狭い部屋をさらにパーティーションで三つに区切った一角。五つの机からなる「島」とその奥に長机。突き当たりが窓。入社から半年近くが経って、ようやくここを自分の居所として認識した感じだ。
「さーて、と」
印刷所にメールを送ったら、電話でもう一度確認。それを終えた後は、また別の新刊に向けての作業が待っている。今回はシリーズものとかじゃなくて何もかもがまっさらのスタート。まだ原稿も届いてないんだけど、今のうちからイラストを誰にするか候補を絞り込まないと。ああ、それだけじゃない。今日は来週入稿の最終打ち合わせも入ってたんだっけ。
あれやこれやと慌ただしい、だけどとても充実した日々。その一角が数時間後に崩れ始めることになるとは、そのときの私は全く気づいていなかった。
待ち合わせの時間通りに到着したのは奇跡的。
夕方からの忙しさって言ったら半端じゃなかったし、正直なところ昼間の口約束なんて頭の隅っこに追いやられてすっかり忘れかけていた。
「あら、もう六時? 私、これから近藤先生との食事会に呼ばれているの。急がなくちゃ」
だいたいの話がまとまったところで、ミドリ先輩はおもむろにそう言った。作家先生との交流は良い本を作る上で欠かせないこと。たいていは編集さん経由でお声が掛かるのだけど、そう言うときは都合がつく限りは参加した方がいいんだって。まあ、やたらとそう言うのが好きな作家さんもいるし、その辺は臨機応変にしないとだけどね。
「芳賀ちゃんも、もういいわよ。昨日も夜遅かったんだし、休めるときには休んでおかなくちゃね」
そう声を掛けてもらえたから、どうにか抜け出せたって感じ。残ったら残ったで雑用はたっぷりあるんだし、コピーとかお茶くみとか簡単な文書作成とか頼まれれば何でもやるのが下っ端の務め。それでも楽しいんだよな、やっぱり好きなことをやってるからだろうな。
「ごめん、ぎりぎりになっちゃって」
すでに待っていた人影に、とりあえずそう声を掛けた。よくよく考えたらね、ふたりきりで話をしたこともないような間柄なのよ。ああ、ちょっとくらいはあったかな。だけど、こうして口を開いてみるとどんな距離感で話をしていいのかすら分からない。
「……いや、俺も今来たところだし」
明らかにホッとした表情をしたこととか、足下にいくつもたばこの吸い殻が落ちていたこととか、そう言うのは見て見ぬ振りをするべきなのだろうか。ううん、吸い殻をポイ捨てはまずいよな。この状況ではちょっと指摘しにくいけど。
案内されたのは見晴らしの良い三階フロアの席。確か、一番お値段が高いんじゃなかったかな? 何しろ自分で来るつもりがなかったから、情報がうろ覚えなんだけど。案内係の店員さんの後についておっかなびっくり進む。うわー、見るからに高級そうな置物! このランプ、一体いくらくらいするんだろう? なんだかすごい場違いな感じだよなー、とりあえず今日はスーツで来ていて良かった。
「シェフのおすすめコースでいいかな? 何かどうしても食べられないものって、ある?」
ずららっと横文字のメニューとか見せられたらどうしようかと思ってたから、これには助かった。相手の男はそう気負うこともなく飲み物の注文とかもしてる。どう見てもこういうお店に慣れてるって感じじゃないんだけどな、うーん意外だ。
……そう言えば。
私、この男のことを何か知ってたっけ。確か増川(ますかわ)、って名字だったな。下の名前は……たかし? いや、たけし……だったかな? おっ、思い出せない。
「腑に落ちないって、顔してるけど」
気がついたら、給仕係の人が消えていた。夜景の綺麗な席にふたりきりで残されていたことにやっと気づく。うわ、どうしよう。何となく、誘われるままに来ちゃったけど……良かったのかしら? 心の準備をする間もなかったから、一体何を話したらいいのやら見当もつかない。
「ええ、……まあ」
さっきの私は、目の前の彼の名前を思い出したくて四苦八苦していたわけだけど、相手は適当に勘違いしてくれたみたい。これ幸いと適当に言葉を濁す。そしたら私を見つめるふたつの瞳が、一歩踏み込むようにキラリと光った。
「じゃあ、単刀直入に言わせてもらおうかな? 俺も回りくどいのとか、嫌いだしね」
口端がニッと上がって、年齢よりも幼くやんちゃなイメージに変わる。確か私よりも二歳くらい年上だったよね? 新卒で入った会社に五年勤めたとか言ってたし。
そんな風に楽に構えていた私は、次の瞬間彼の口から告げられた「宇宙語」に度肝を抜かれた。
「芳賀さんってさ、もしかして今年のヴィーナスだったりする?」