「え? ……ヴィーナス……?」
昼下がりのカフェ。目の前の席に座るミドリ先輩は、あらかじめ予想していた通り「一体何を言ってるの、この子は」って感じの表情だ。
ああ、やっぱマズったかな? これでも訊ねる相手とタイミングは吟味したつもりだったんだけど、やっぱ駄目だったか。うう、穴があったら今すぐ入りたい。
「あ、あのっ! ……ご存じないなら結構です。すみません、ちょっと小耳に挟んだもので……聞いてみようかなとか、思ってみただけで……」
苦し紛れに言葉を絞り出すものの、さらにどつぼ。もうっ、どうなってるの。こうなったらさっさと話をすり替えるしかないか、でも何も思いつかない〜って思ってたら。それまでずーっと不思議そうに私を見つめていたミドリ先輩は、急に顔をにぱっとほころばせた。
「ふふ、急に誘い出すからナニゴトかと思ったらそう言うことだったのか。驚いたじゃない、いきなり愛の告白なんてされたら困るし、身構えちゃった。これでも一応、彼氏持ちだしね」
すぱっと竹を割ったような性格―― それが私のミドリ先輩に対する第一印象だった。
男性社員と対等に肩を並べる職場にあってばりばりと仕事をこなし、それでいて常に女性らしさを失わない。配属されてすぐに雰囲気で察した。ここの部署でこの人に敵う人は絶対いないだろうなって。
大なり小なり集団に身を置くこととなれば、そこでトップに立つ人間を見極める能力は大切だもんね。私だって、だてに社会人してきたわけじゃないのよ。それくらい分かってますって。
「は、はあ……」
幸い同性であったし、この人の下に付いていればとりあえずは「安全」だろうなと思った。それに先輩はあっさりさっぱり付き合いやすい人だったし。これがネチネチと重箱の隅をつつくタイプの上司だったら最悪だったわ。ホント、私って運がいい。
ただ、唯一分からなかったのが先輩のプライベートな素性。別に仕事を離れた部分のことを根掘り葉掘り聞き出す必要もないんだけど、やっぱこういうのは大切でしょ? 多分年齢は三十代半ばくらい。左手薬指に指輪はないし、そもそも生活臭がしないから独身なのかな。だけど、分からないよなー。そういうの絶対表に見せない人もいるから。
まあ、そんな疑問は程なくして一掃された。他でもない、ご本人の言葉で。
「私、バツイチの子ナシ。でも元ダンナとは週に二回は食事に出かける仲なんだ」
あんまりにあっさりと言われてしまい、こっちとしては「はい、そうですか」って納得するしかなかった。まあ色々な考え方があるし、どんな関係であろうと本人たちがそれでいいなら外野がとやかく言うことじゃないよね。だけど、週に何度も顔を合わせるのが苦にならない相手とどうしてわざわざ離婚する必要があったんだろう。うーん、奥が深い世界だわ。
そして、今も。
先輩は狐につままれたような面持ちの私に「ちょっと失礼」と断ってからタバコに火を付けた。買えば数万円はくだらないだろうと思われるライター。先輩がヘビースモーカーだってことは知っている。だから今日だってわざわざ喫煙席を選んだんだし。
禁煙が声たかだかに叫ばれているご時世にあって、この業界は信じられないくらい喫煙率が高い。あっちでもこっちでも煙がモクモク。これじゃあ、吸わない私たちも副流煙の被害の方を心配しなくちゃいけなそう。
「ヴィーナス、かあ。別に知っても知らなくても大差ない話なんだけどね、耳に入っちゃったなら気になるでしょ。まー、本当に失礼な話なのよ。ウチの会社にそんなに不満はないんだけど、唯一あるとしたら四年ごとのこれね。いい加減辞めてくれればいいんだけど、上の方が決めることだから仕方ないわ」
その後にミドリ先輩が詳しく話してくれた内容は、昨夜に増川武憲(ますかわ・たけのり、下の名前は今朝出社してから速攻で調べた)に聞いてたのとほとんど同じだった。そして女性の視点から語られると、さらに不快感が増してくる。何よ、社内の活性化か何か知らないけど、女性を道具のように使うなんて最悪。だったら、自分たちも同じ立場に立ってみなさいよ。
「……というところなんだけど。まあ、これで一安心だわ」
話が一区切りしたところで、先輩はよく分からない一言を付け足した。小首をかしげる私に、彼女は白い煙を吐き出してから言う。
「だって、ただでさえ人手が足りなくて慌ただしいのにさらに厄介ごとを引き受けたら大変でしょう? 勘弁してくれっていうの」
??? ……どういうこと? さらに理解不可能になっている私を見て、先輩は喉の奥でクククッと笑った。
「真顔でこんなこと聞いてくるところから見て、芳賀ちゃんは今回のヴィーナスじゃないってことになるよね? もしもそうだったら面倒なことになるなって内心思ってたわけ。あー、良かった」
私も実際に当事者になったことがある訳じゃないから、本当のところは分からないけどきっと事前に打診があるんじゃないかなあ―― って付け足して、先輩は二本目のタバコに火を付ける。私には過去現在を通して喫煙の習慣はないけれど、少なくとも今みたいな先輩を見ているとすごくおいしそうなんだなあって思う。
「……そういうことに、なるんですか?」
あ、なんだろ。今、ちょっとだけがっかりした? 自分の口から飛び出した意外な言葉に自分で驚いたりしてる。昨日、この話を最初に聞いたときには、本当冗談じゃないわって思ったはず。なのにどうなってるの、自分。
「ま、そんなところでしょ? 無駄なことに振り回されなくて良かったわ。でも、わっかんないわよ〜。芳賀ちゃんだって、そして私だって候補対象にばっちり当てはまるんだからさ。もしかしたら、ってことは十分あり得るのよ」
呆然と佇む私に、先輩は余裕の微笑みでウインクして見せたりして。やっぱ、この人には敵わないなあって思わされる。
そして、もうひとつの「問題」は。今夜も増川ナニガシとの約束が入っているってことだ。
必要に迫られて「相手」が欲しくなる瞬間は結構あると思う。
たとえば、年に何度かの国民的イベントの前とか。でもって慌ててその辺で適当に見繕ったりして、数ヶ月経ってからふと気づく。「どうしてこんなにつまんない男と一緒にいるんだろ」って。
こと「恋愛」に関しては、私はどっちかというと冷めていた方だった気がする。今まで自分の食指が動くほど素敵な相手に出会ったこともないし、片手で足りるほどの過去も全てが受け身。いつも何となく始まって何となく終わる。向こうも「適当に選んでやろう」って雰囲気だったし、お互い様ってところだよね。
まあ、付き合ってれば付き合ってたでそれなりに楽しいこともあるし、生活に潤いをって思えばそれもアリかな。ボディーケアも身につけるものにも気合いが入るから、何となく気分もいいしね。けど、それを上回るくらいの面倒ごとが積み重なって来る辺りから、急激にテンションが落ちてくる。
前の会社は平均年齢が低くて、所長であるデザイナー先生以外はほとんど二十代。独身者が多い職場って華やかだけど、一方で何かと気を遣うことが多いのも事実。下手に付き合ったりして、その後に気まずくなったりしたら最悪じゃない。そう思って必要以上に身構えているうちに、さっさとリストラされちゃったわよ。
今いる部署は私とミドリ先輩を除く男性陣三名は課長を含めて全員既婚者。まあだからといって絶対に間違いがないという保証はないけれど、基本的に対象外ね。最初からそう思えたからすごく楽だった。
私だって、それほど変わり者じゃないし。タイミングさえ合えば、いつかはって思ってる。だけど、今はその時期じゃないんだもの。余計なことにかまけているほど暇じゃないし、仕事のスケジュールをこなしていくだけでいっぱいいっぱいなのよ。きっとそれは「彼」の方も似たり寄ったりだと思うんだけどなあ……。
指定された待ち合わせ場所は、ターミナル駅構内にある洒落たカフェ。
仕事柄、どちらかが時間に間に合わずに遅れてしまうことを初めから想定していたのかも知れない。案の定、私が五分ほど遅れて到着したときに、まだ彼の姿はなかった。まあ、それもありでしょと思いつつ、ちょっと面白くないと考える私がいる。
―― 何よ、自分から呼び出しておいて。全く根性がないんだから。
そうは思ったものの、いきなり携帯に連絡するのもどうかと考え直す。いいや、五分や十分。どうせ元から予定もなかったんだし、待ってやりましょうか。
バッグから手帳を取り出して、今月のページを開く。相変わらず、みっちりと隙間のないスケジュール。まあ、このうち私が個人的に関わっている事柄は半分もないんだけどね。とりあえず他のメンバーの動向もしっかりと把握しておかないと、下っ端の役割をこなせないのよ。
ええと、明日の午前中はミドリ先輩と原田先生のお宅に打ち合わせに行くんだっけ。手みやげを買う時間を考えて、早めに家を出なくちゃ。でもって、午後は印刷所に連絡をして、それから―― 。
「ごめん、だいぶ待った?」
突然、頭上から声が降ってきた。ハッとして顔を上げると、頬を紅潮させた男がそこにいる。いや、これは私に対する感情表現じゃないから。単に急いで移動してきたから息が上がってるのよね。
「ううん、そんなでもない」
ちょうどいいタイミングで私のオーダーした紅茶が運ばれてきて、彼も自分のアイスコーヒーを注文する。
「いや、参ったよ。思ったよりも取材が押しちゃって。あのタレント、話し出したら止まらないんだもんなあ。隣でマネージャーは時間を気にしてイライラしているし、ホント焦った」
そんな風にぼやきながらも、えらく楽しそう。ネクタイを緩める指先に一仕事を終えた充実感が見て取れる。憧れて憧れてこの業界に飛び込んで来たんだと初めて会ったときに教えてくれたけど、そのまんまの勢いで今も飛ばし続けているんだなあ。
「ふうん、そうなの」
何の前情報もなくいきなり至近距離に現れた男だから、とにかく何もかもが不自然に目新しい。私、コイツのこと何にも知らないんだもの。ま、それは相手も似たり寄ったりだと思うけどな。だって、同じ部署にいたって班が違えば、全然接点ないし。たまーに遠目で「ああ、頑張ってるな」って確認するぐらいじゃない? そうよ、とりあえず「同期」なんだしね。
それにしても、賑やかな男だ。それほど話題に食いついているとも思えない私を相手に、とにかくしゃべること、しゃべること。あのね、私は別にあんたの一日のスケジュールなんて興味も関心もないんだけど。そうやって突っ込んでやる元気もないから、ついつい惰性で相づちを打ってしまう。そうするから、きっと向こうも誤解するのよね。
「……あ、やべ。もうこんな時間だ」
一通りしゃべり終えたのか、それとも飲み物が空になったところでタイミングが良かったのか。彼は恥ずかしいほどのオーバーアクションで腕時計の文字盤に見入った。あ、知ってる。これ、今人気のモデルだよね? 値段も手頃だから、かなり品薄になっているとか。ふうん、結構そういうところに気を遣うタイプだったりするのか。何となく意外。
「こっからそんなに遠くない場所なんだけど、一応予約入れてあるから。ま、ちょっくら付き合ってよ」
馴れ馴れしい男と、誰が見ても誤解されるようなポジションで並んで歩く。まあ、いいんだけどね。これって、結局期間限定なんだし。道中も会話が途切れることはなく、というか彼の方が一方的にまくし立てている感じで、ビルの外階段から地下一階へと吸い込まれた。
こっちもまた、洒落た感じのカクテル・バー。
何というかな、どうにもこうにもしばらくこういうところにはご無沙汰だったから、とにかく物珍しくて。あちこちをきょろきょろ見渡したくなる気持ちを必死に押さえていた。どっちにせよ、暗めの照明だから良くは見えないんだけどね。ふうん、結構賑わっているみたいだな。もしかすると味の方も期待できるかな。
「芳賀さん、アルコールもいける口みたいだから。色々試してみるのもいいんじゃない?」
ま、それはお互い様でしょ。直接口にはしなかったものの、心の中でそう呟く。昨日、数時間だけ一緒に過ごしただけだけどね、実のところかなり嗜好とか似ている気がしたんだよね。そう言うのって一緒に食事をするときに重要なことだから、なんだかホッとした。
「うん、でもよく分からないから。最初はどういうのがいいんだろう」
素直にそう告げると、彼は待ってましたとばかりにメニューを手に説明を始めた。へー、案外詳しいんだな。と言うか、玄人はだしみたいな感じだけど。
「……実は学生時代にちょっとバイトしたことがあってさ」
意外なほどにあっさりとネタ晴らしをしてくれる。隠し事が出来ないって言うか、潔いって言うか。まあ、それでお勧めだって言われたから、柑橘系のさっぱりしたのをオーダーする。うーん、どうでもいいけど舌を噛みそうな名前だわ。
「そんな意外そうな顔しなくたっていいじゃん。こっちだって、必死なんだから。最初にも言ったけど、俺は回りくどいのは苦手だから。駆け引きとか、そう言うの好きじゃないんだよね」
何事も直球勝負ってところですか。そういう言い方されちゃうと、こっちとしてはちょっと後ろめたいなあ。だってね、彼は私を「ヴィーナス」って勘違いしているからこそ、こんな風に誘ってくれるんだし。いやいや、そんな気遣いはすることないわ。コイツ、女性を出世のための道具に考えているような失礼な男だもの。
その後も。
いくつかのグラスを空けながら、ぼんやりと彼の話に耳を傾けていた。カクテルって結構強いお酒だって聞くけど、今夜は全然酔えないの。別に彼と一緒にいることがつまらないとかそう言うことじゃない。それどころかむしろ逆。思っていたよりもずっとふたりで過ごすのが楽しいんだな。
―― たとえば。これが、出世レースのイベントとは無関係に始まった関係なら良かったのに。
帰り際に当然のように明晩の約束をする私たち。だけど、まだ当然のことだけれど手も繋がない仲だ。