すぐ近くで、誰かの、明らかに自分以外の人物と分かる存在の強い体臭を感じる。
でもそれは決して、良くある歌のフレーズのような「あなたの香りに包まれて」なんてロマンチックで悠長な雰囲気ではない。ぎこちなく、だけど執拗に背中に回る腕の力、その一瞬前にぬるっと唇の表面を掠め取った湿り気。つい一瞬前まであった「日常」がかき消され、呆然と佇む足下が地面から数ミリだけ浮き上がっている気がした。
だけど、そんな戸惑いに対して、私の頭の芯の部分は笑っちゃうくらい冷静に状況を把握しようとしている。まるで、今置かれている地点よりも遙か上空で自分自身を見下ろしているような、そんな不思議な気分。とてつもなく信じられない場面を、第三者のように眺めている。
「……っ、そ、そのっ……、俺……っ……」
がちがち、歯がかみ合わないみたい。そんな感じじゃ、まともに台詞を言えないよね? ひとこと言葉を吐き出そうとするたびに彼の身体が大きく揺れて、こんなこと考えちゃ不謹慎だけど正直なとこ、ひどく滑稽に思えた。
「……そ、そのっ……」
がぶり四つ、って言うのは確か相撲用語だったかな? 回し一枚だけを身につけた力士ふたりが、隙間なくがっちり組み合っている姿が脳裏を過ぎる。ああ、何だか果てしなく絵にならないシーンだわ。今が人通りのまばらな時間帯で本当に良かった。洒落にもならないわよ、全く。
「……」
その後、長い沈黙。でもそれは言葉が途切れた、って訳ではなくて、ただただ荒っぽい息づかいが続いているって感じ。可哀想なくらい、すごく苦しそう。このまま放っておいたら、今に酸欠になって倒れちゃうかしら。
そう思いつつも、私としては手の施しようのない状態だし。まあ力の入れ方によってはこの束縛からどうやら逃れることも出来そうだけど……、うーん、それもどうかな。あんまり邪険にしたら申し訳ないかなとか、身の危険も顧みず、よく分からないところで次の行動を迷ってる。
まあ、この場でいきなりどうなることもないと思うし(いや、それは断言できないけど)。ちょっと、待ってみましょうか。
「……おっ、俺っ……、俺さ」
あ、少し言葉がまともになってきた。強引に押し当てられた胸元から聞こえる鼓動は相変わらず暴走中だけど。……やだなあ、まだ私、静かに分析してるよ。多分、彼の方はこちらが驚きのあまりに呆然としてると信じてくれてるだろう。うん、そうであって。
祈るように、深呼吸。そして、次の瞬間に信じられない言葉を聞くことになる。
「ま、……まだ、帰りたくないな。その、それで……、その。もしも迷惑じゃなかったら、これから芳賀さんちとか行ってもいいっ!?」
それまでの途切れ途切れな言葉が、最後に来ていきなり暴走。あまりに早口に一息に吐き出されたから、頭の中で分析するのが一瞬遅れた。
「―― え?」
ちょ、ちょっと待て。今、あっさりとすごいこと言いませんでした? いえ、間違いなく言いましたよね? うん、そうだよっ。
ふたりの身体が大きく揺れた拍子に、彼の束縛から一気に逃れていた。勢いに任せ、数歩後ろに飛び退く。何だか、球技大会の一場面みたいだ。そのまま無言で見つめ合って、しばしの時間が過ぎる。
どっ、どういうことっ。この人、一体何が言いたいのっ!?
思わず、漫画の吹き出しみたいな叫びが頭の中で鳴り響いたものの、悲しいかな、実際は声になってない。
ええと、その。もしも、じゃなくて多分そう言うことなんだよね? だって、夕ご飯時を過ぎて一人暮らしのうら若き乙女の部屋に上がり込みたいなんて、絶対に何事もなく終わらないよ。うん、今までの経験から言って、十中八九無理。
自意識過剰と思われても構わない、ここは全身全霊で保身に入らなきゃ。
「……あっ、あのっ! それ、それって困るかもっ! ごめんっ!」
それだけ言い捨てたら、すたこらさっさと逃げ出せば良かったんだろうけど、残念ながらすくんでしまった足が微動だにしてくれなかった。おかげで今までの興奮がどこへやら、悲しいくらいへしゃげていく彼の表情の一部始終を目の当たりにしてしまうことになる。
あらら、ちょっと大袈裟すぎたかな。いい大人が大人気なかったかしら。いやいや、この期に及んで、何を反省しているんだ、自分。
「そ、……その。ええと、だって、……すごい散らかってるし、そういうこと急に言われても……」
慌てて取り繕う台詞を並べたりして、私ってどうなってるの。こんなのって、絶対に非常識でしょ? だよね、そうだよね。だからこの対応はまっとうなものだと思うんだけど。
「……あ。まあ、……そうだよな。ごめん」
良かった、あっさりと引き下がってくれるみたい。このままごり押しされたらどうしようかと思ったよ。
確かにね、ちょっといいムードっぽくなってきたかなとかは思ったりもした。でも、それとこれとは話が別。いきなり勝手に走り出されたって、こっちはついて行けないよ。気持ちがスタンバっているかどうか以前に、まだ準備体操も終わっていない状況なんだから。
「う、ううん。こっちこそ、ごめん。そういうの、全然考えてなかったから」
ああ、馬鹿。何を謝ってるの。私は全然悪くないってば。……だけど、それでも何となくね。申し訳ないなーとか思っちゃったのね。一体、どこがどう間違って彼が突っ走っちゃったのかは分からないけど、まあそうなっちゃう何かがあったのかもだし。仕方ないのかなとか、あろうことか慈悲の心で受け止めたくなっちゃったよ。
「じ、じゃ。……行こうか?」
このままいつまでも同じ場所で突っ立っていても仕方ないし。そう思って、彼を促す。素直に私の言葉に従ってくれる姿が、何故だろう、ちょっと小さく見えた。
「そ、そうだな。そうしよう」
言葉って、かたちにならない感情を取り繕うためにも吐き出されるんだ。そう思ったら、急に切なさがこみ上げてくる。変だよね、今の今まで「冗談じゃない」とか思ってたのに。喉元過ぎれば何とやら、頭がさーっとクールダウンしてくる。
―― 何なのよ、結局どうしたかったわけ?
相手に対してなのか自分自身に対してなのか、決めかねるブーイング。こういうの、きっかけを逃したとか言うのかな。まあ、恋愛なんてほとんど「勢い」と「うっかり」で成り立っているものなんだから。
どうにも格好が付かなくて、会話の糸口を探せないまま。気づけば、駅のロータリーまでたどり着いてしまった。
こんな呆気ない距離だったかなあ。朝、急いでいるときにはかなりの道のりに思えるんだけど。うん、確かに。これで「さよなら」するのはちょっと寂しいかも。かといって、ここって夜更けになると小さな赤提灯以外に立ち寄れる場所もなくなるのよね。
「……芳賀さん、」
躊躇いがちな問いかけに、もしかしたらって思う。彼も今この瞬間に、私とぴったり同じことを考えているのかな? もしかして、私たち気持ちが一緒になってる?
「その、……また会ってもらえるかな。ええと……」
次の言葉をどんな風に繋げようか、思いあぐねている表情。薄暗いアスファルトの上、客待ちタクシーのランプが続いている。
「いいよ、もちろん」
思いがけず素直に、肯定の言葉を発していた。そんな自分にあとから驚いたりして。うーん、私って思ってたよりずっとこの男に傾倒しているのかも知れない。
「よかった、……じゃあ」
軽く右手を挙げて、きびすを返す。その後ろ姿が消えるまでずっと眺めていた私は、何故かひとつの決心をしていた。
部屋に戻ったら今夜じゅうに頑張って掃除しなくちゃ、とか。
後悔って言うのは、後から悔やむってこと。そんな当たり前のことを思い知らされたのが、翌朝出勤してすぐだった。
「あ〜、来た来た! 芳賀ちゃん、芳賀ちゃんっ!」
使用済みの書類やサンプルの山の中から、ひょっこりと頭を出したミドリ先輩。あら、今朝は早いわねとか悠長に構えていたら、彼女はいつもとは明らかに違うテンションでざざっと私に駆け寄ってきた。その口元には意味深な笑み。
「ねえねえ、大変よっ! 今年のヴィーナスがやっと発表になったんだけど、それがとんでもないことになっちゃってるみたい。もう、朝から全社揚げてどうかしちゃったって感じ。編集の方とかは男どもが全く使い物にならなくて、参っちゃうっ!」
とか言いつつ、その実かなり楽しんでいる様子なのは彼女の表情からも明らか。対する私は、何が何だか分からない状態だから、咄嗟には受け答えの言葉も出てこない。
な、何? 何が一体どうなっているの……!?
「……え、ええと、発表って」
管理室で受け取ってきたばかりの手紙の束を手にしたまま、私はようやくそれだけ口にした。ヴィーナス? ……ヴィーナス? 何かそれって、私にとってかなり重要な話のような気がするわ。何だったっけ、上手く思い出せないよ。
「芳賀ちゃんも、とっとと見てくりゃ分かるわよ。下の階の掲示板に、どーんと大きく貼りだしてあるわ。今回、ヴィーナスに抜擢されていたのは販売部の穂高景子さん。彼女、あの界隈じゃかなりのやり手って噂よ。でもね、発表されたのは、それだけじゃないの……!」
それに続く先輩の言葉は、もう私の頭には入ってこなかった。
無駄に明るく注ぎ込む朝の日差しの中、ぼんやりと首を回していく。そして、偶然にも目が合ってしまったんだ。その距離にして数メートル、同じ部屋にいて今の騒ぎを聞いて振り向いた彼と。
「……」
次の瞬間に、向こうからそらされた視線。無言な肩先が、そのままドアの向こうに消えていった。