そもそも、私たちは出会いからして微妙だった。
新卒で勤めたデザイン事務所が経営不振から業務を大幅に縮小することになって、そうなると一番の若手だった私が真っ先にリストラの候補に挙がってしまうのは当然と言えば当然。
だけどまだ新人に毛の生えた位の立場では、他の先輩たちみたいに知り合いを頼って再就職先を探すことも出来ないでしょ。だからお決まりの就職情報誌から、ハローワーク。文字通り「足を棒にして」の職探しが始まった。
そうこうするうちに、何十社目かの今の会社でようやっと最終選考まで進むことが出来て。いやあ、本当に一時はどうなることかと思ったからね。落ち込んでへこんで再生不能かと思った気持ちがちょっとは明るくなった。
まあだからといって、まだ最後の面接が残ってる。両手放しで喜ぶわけにも行かず、ドキドキの胸を押さえつつ面接の会場へと出かけていった。
「よっ」
朝の十時、まだ人気もまばらな雑居ビルの三階通路。指定の時間よりはだいぶ早く到着したはずなのに、そこにはもう先客がいた。
それだけのことなのに何となく「負けた」って気持ちになって、むっつりしてしまう。その上、新しいクラスメイトになったみたいに馴れ馴れしく声を掛けられたりしたら、誰だって嬉しくないと思うの。いくら同世代っぽくて似たような立場の相手だって言ってもね、少しはTPOをわきまえて欲しいわ。
「……おはようございます」
無理をして着込んだスーツ姿が何とも決まらない同士で、何とも気持ちの通じ合わないアイコンタクト。私の心の中で警笛が鳴り響く、ああコイツが私のライバルなんだわって。同時刻に呼び出されたふたりなら、そのどちらかが採用になるに決まってる。ってことは、この男を蹴落とさなかったら、私の再就職活動はまた振り出しに後戻りってことなんだ。
「まだ担当の人が来てないらしいよ、しばらく待機してくれって。はい、これ。緊張がほぐれるんだってさ」
おもむろにポケットから取り出されたのは、ひと粒がパックされた飴の包み。表面にハーブの絵が描いてあって、裏側に色々と効力が説明されてる。
―― 何よ、これ。下剤でも入ってるんじゃないでしょうね?
見るからに人の良さそうな相手を捕まえて、とんでもなく性格のひん曲がった私。だけどそのときは仕方なかったの。前の職場ではまあそれなりに仕事をこなせるようになっていたし、もうちょっとは楽に次の働き場が見つかるかと思ってたのよね。それがどっこい、業種が業種だからなのか、どこへ行っても狭き門。「これは」と思った募集には求職者が殺到してる。みんな考えることは同じなのね。
その後。待ち時間があまりに長くて、仕方なく気乗りのしないおしゃべりに付き合った。正直、口を開くのもおっくうだったし、勘弁してって感じ。話の内容なんて右から左に抜けるだけ、ただよくしゃべる男だなあって呆れたことだけ覚えてる。どっちが受かるにせよ二度と顔を合わせることのない相手だし、愛想を振りまくこともないやって思ってたの。
「―― 大変お待たせいたしました。それではまず、芳賀美咲(はが・みさき)さんからどうぞ」
ようやっと面接官が到着して、まず初めに私の名前が呼ばれた。弾かれるように立ち上がったとき、それまで左手で握りしめたままだった飴の包みに気づく。ハッとして振り向いたら、彼は椅子に腰掛けたままで私に手を振っていた。
「……その、それってどういうこと?」
いくら単刀直入にって言ったって、これじゃあんまりに端折りすぎだと思う。
ええと、……「ヴィーナス」って言った? 確か、そうよね。日本語に直したら「女神」。それに「今年の」って言葉が付く辺りもよく分からない。
「嫌だなあ、この期に及んでしらばっくれたりして。ヴィーナスだよ、ヴィーナス。そういう当たり前すぎるリアクションをされると、逆に胡散臭いなあ」
こっちはマジで驚いてるのに、胡散臭いってどういうことよ? 初対面からどっかずれてる人だなって思ってたけど、やっぱり第一印象って正確なのね。女の勘は侮れないわ。
「……」
別に口を開くのが面倒ってことじゃないのよ。ただ、今の状況に合った言葉がすぐには浮かばなかったってだけ。ギリギリで仕事場から直行して、申し訳ないけどメイクを直している暇もなかった。そんな夕方の顔で口を半開きにしたら、情けないにもほどがあるわね。
「ええと、……芳賀さん? 聞いてる?」
聞いてますよ、聞こえてますよ。そんなに大きな声を出さなくたって大丈夫。言葉にはしなかったけど、目で訴えてみる。
そうしたら、相手もやっと何かが食い違ってることに気づいたみたい。ものすごい意外そうな顔をして、それからわざとらしくひとつ咳払いをする。
「……その、本当に何のことか分かってない?」
その質問には素直に頷くことが出来た。うんうん、分かってないよ。「君って、ヴィーナス?」なんて聞かれても、今の私にとっては「君って、火星人?」って訊ねられたのと同じなの。どっちにせよ、あり得ないってこと。何だって、私が「女神様」にならなきゃいけないの。
「そっかあ……」
彼はお行儀悪く頭をぽりぽりかいたあと、途方に暮れる私に詳細を説明してくれた。でも、その話の内容にまたびっくり。え? 四年に一度? オリンピック・イヤーのお祭り騒ぎって何よ。もう、呆れすぎてようやく閉じかけた口がまた半開きになっちゃったわ。
「そ、それって……あまりに女性軽視の企画じゃない? 本当に本当の話なの?」
私の突っ込み方、間違ってないよね? ちょっと言葉尻がきつくなっちゃったけど、そこのところは許して欲しい。
だって、あまりの話じゃないの。女性にとって(男性にとってもそうかも知れないけど)一生を決める大切な恋愛と結婚を、職場の出世レースの材料にするなんて。そんなことを会社の上層部が先頭切って立ち上げちゃうなんて、絶対間違ってる。
「そんな嫌そうな顔すること、ないだろ? 難しく考えることないじゃん、楽に行こうよ楽に。俺も不覚ながら今回初耳だったんだけどさ、ここしばらくの転職組の中には最初から今回のイベントを目当てにうちの会社を選んだ奴もいるらしいよ」
えーっ、それってあり得ない。と言うか、過去三回のイベントがちゃんと開催されてきたことも信じられないよ。……って、その上前回はかなりゴタゴタして大変だったって? ヴィーナスとそのお相手が直後一緒に退職しちゃったってヤバイんじゃない!? また問題が起こる可能性だってあるし、もう止めようよ、打ち切った方がいいって。
ってか、今私がここでひとりぶつぶつ言ってても無駄か。何か相手は勝手に盛り上がっているみたいだし。あーもうっ、その滑らかすぎる舌をどうにかしなさいって!
「でさ、周りの奴らもそれぞれに目星を付けて行動を起こしているみたいなんだけど。俺もあまり遅れをとってはと思ってね。だからこうして、芳賀さんに声を掛けてみたってわけ」
……あの。
それって、どういう意味なんでしょうか?
「ええと、その……じゃあ、今夜誘ってくれたのって」
そうだよな、ここまで言われたら疑う余地もないよな。
何かね、いきなりこんなすごいところに連れてこられて、どうしようかと思ってたの。まさかと思ってたけど、万に一つで思いがけない告白とか受けたりするんじゃないかとか、ほんのちょっとは身構えてたんだよ。ああ、もちろんあまり期待はしてなかったけどね。世間一般レベルに人間をやってたら。もしものことだってあるでしょ。
「うん、そう。他の奴にチャンスを奪われるのは嫌じゃん、だから直接聞き出そうと思って。その方が手っ取り早いだろ?」
えーと、もしもし? 自分の言ってること、分かってる?
ちょっとさ、あまりに失礼だとは思わない? 正直、幻滅だよ。それなのにこんな風に正面切って悪びれもなく言っちゃうのって、どういうこと? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろって言うの。
中肉中背。このところストレス太りでウエストの辺りが多少気になるものの、まあ見苦しくない程度のスタイルを保ってると思う。身長も160cmちょい欠けとほとんど標準、足のサイズも23.5cm。……まあそんな私が分不相応の幸運に巡り会うって信じる方が無理があるかな? それに彼氏いない歴も三年になるし。
だからといって、この扱いはひどすぎるよね。私、怒っていいんだよね? あああ、この腹立たしさをどこにぶちまければいいのやら。いや、駄目よ。ここは大きく深呼吸。場所と時間をわきまえて、大人らしい態度で臨まなくちゃ。
「―― ふうん、そういうことか」
今この場で、力一杯テーブルをひっくり返して捨て台詞を叫んで逃げ出したって良かったと思う。それくらいのことを目の前のコイツはやってるわけだし、少しは痛い目を見た方がいいよ。でも……だけど。もうすぐおいしい食事が運ばれてくるわけだし、それをフイにするのもちょっと惜しい。いや、別に食べ物につられてる訳じゃないわよ、うん。
「で、どうなの? 芳賀さんはヴィーナスなの? そうじゃないの?」
回りくどいことは嫌いって言うだけのことはある、彼は早く真実を知りたくて仕方ないみたいだ。テーブルから身を乗り出す勢いで顔をのぞき込まれて、正直焦っちゃう。でもでも、だからといってその勢いに負けちゃ駄目。
「うーん……どうかな? そう言うのは、あとのお楽しみってことにしておいた方がいいんじゃない?」
出来るだけ含みを持たせて、思わせぶりに。私は自分にある限りの演技力で、にっこりと微笑んだ。はらわた煮えくりかえってるのにこんな風に出来る自分が怖い。私って、結構すごかったのね。
「あ……うん。そりゃ、そうだよな。……そうか」
一体どんなふうに受け取ったのか、奴の方はあっという間に神妙な面持ちになる。ふふ、絶対に誤解したぞ。でも別にいいわ、だってこんなひどい扱いされたんだから懲らしめてあげなくちゃ。
ちょうどそのとき。オーダーしたワインが運ばれてきて、話し合いは一時中断。
綺麗な色のロゼ、細かい泡がグラスの底からふわふわと湧き上がってくる。すぐに消えちゃうんだけどね、その小さなひとつひとつのぷちぷちがなんだかすごく愛おしい。何でそんなこと思うんだろ、よく分かんない。
「え、……ええと。じゃあ、とりあえず乾杯しようか?」
白黒スタイルで決めた給仕の人が立ち去ったあと、彼はややあってそう切り出す。気のせいかな、さっきまでよりもかなり緊張している感じ。だって何か違うよ、こちらを見つめるまなざしが。
「乾杯って、何の?」
あー、私って意地悪だ。そんな風に揚げ足を取らなくたっていいのに。でも何か言いたくなっちゃったんだもの、彼の反応のひとつひとつがおかしいから。
「うーん、そうだなあ……そう、ここは初めての同期会ってことで」
キンと細い音を立てて重なり合うふたつのグラス。甘い蜂蜜色の照明が辺りを包み込み、ムードは満点。そりゃ超人気のスポットだもんね、それくらいのお膳立ては朝飯前でしょうよ。
……ほら、そうしているうちに食事が運ばれてきたわ。
「失礼いたします」
大きめのプレートに美しく並べられた前菜。つやつやのオリーブに掛かったソースが、人待ち顔に私を見ていた。