頭の中、真っ白。
しばらくは自分の置かれた状況すら的確に判断することが出来なかった私、ややあって握りしめた手のひらに食い込む爪の痛みでハッと我に返った。
「……」
時間にしたら、ほんの数秒。もしかしたら、0コンマ何秒の世界。でも今の私にとっては永遠のとてつもなく長い長い間合いのように感じられる。じんわりと背中を流れていく冷や汗。嫌だな、これって一番見たくないドラマのワンシーンだよ。
―― 私、悪くない。
誰に咎められたわけでもないのに、気づけばそう独りごちしてた。うん、そうだよ。私、全然悪くない。だって、勝手に勘違いしたのはあっちの方。別に積極的に騙そうって思った訳じゃないし。うんうん、そうに決まってる。言うなれば、私だって被害者のひとりになるんだから。
「ええと、……その、芳賀ちゃん?」
私の背中が醸し出す異様な雰囲気に気づいたのかそうでないのか、ミドリ先輩が探るように声を掛けてきた。もちろん「後輩」としての立場の私、すぐに反応しなくちゃいけない。分かってる、それは分かってるけど、駄目だなあ……とにかく私的な感情に心が埋め尽くされていて、今が勤務時間中だってことも忘れかけてる。
「す、すみませんっ! ちょっと、出てきます……っ!」
本当に失礼だとは思うけど、今の台詞も先輩に背中を向けたまま。一体自分がどんな表情をしているのか全然分からなくて、だから自信なくて振り向けない。駄目、どうにかしなくちゃ。ほんのちょっとの時間でもいいからひとりになって、それでもって気を立て直さないと。必死に踏み出した足がもつれる。ヤバイよ、動転してるよ。だけど、とにかく前に進まなきゃ。
終わった、……んだろうな。
ひんやりとした階段の手すりの感触に、ふっと気持ちを重ねる。私の存在には絶対に気づいていたのに、あえて無視を決め込んだ彼。やっぱ怒ってるのかな、今朝の発表を知って「騙された」って思ったんだろうな。確かに思わせぶりな態度は取ったし、それについては言い訳をするつもりもないけど。
けどさ、あそこまであからさまな行動に出るって、どうよ? 全く、大人げないったらありゃしない。もとはと言えば、そっちのせいでしょ。勝手に勘違いして盛り上がって、でもって間違いだって分かった瞬間に「はいそれまでよ」? それって、あんまりにも無責任すぎないかしら。
どくどくと高鳴りを続ける鼓動。どうにかして落ち着かなくちゃって思うと、こっちの努力とは裏腹にさらに混乱してくる。ああ駄目、こんなんじゃ社会人失格だよ。どんなときでも平常心、冷静な判断で臨まなくちゃ仕事を見誤っちゃう。だから、頭をすっぱり入れ替えなくちゃ。そうだよ、これでやっと馬鹿げたイベントが幕を閉じたんだ。これからは元通りの生活に戻れるんだから、良かったじゃないの。
いきなり変なことに巻き込まれて、迷惑してたのはこっちの方。全部リセットして初めからなかったことに出来るなら、それが私自身における最良の方法だと思う。
……そう、考えられたらいいのに。
ぐるんぐるんに思考が渦巻く頭の中、私はとっくに気づいていた。自分がとても後悔しているってこと、こんな風に中途半端に終わってしまうことを残念で仕方ないって思っていること。この先、彼との時間がなくなってしまうって現実が受け入れがたくて、昨日から続く今日が存在しないことが信じられなくて。
「……って、嘘でしょう……っ!」
行き場のない感情が体中を駆けめぐっていた。自分自身では押さえきれない程の怒り、それは自分自身に対して? それとも彼に対して? はたまた私たちを振り回した諸悪の根源である罪深いイベントに対して……?
へなへなとその場にうずくまってしまったけど、悲しいかな涙も出てこない。自分を哀れむ感情すら忘れて、放心状態のまま階下から吹き上がってくるすきま風に震えていた。
それでも、結局のところ私は普通に社会人だったらしい。
しばらくして自分の持ち場に戻ったあとは、それまでの混乱が嘘のように仕事に没頭することが出来た。幸いにも取り急ぎ片付けなくちゃならないのが機械的に処理できる内容ばかりだったから良かったのかも。キーボードを叩いたり、決まり切った確認の電話を入れたり、そうしているうちにあっという間に終業時刻になってた。
「じゃ、私はこれを印刷所に届けてそのまま上がるわ。芳賀ちゃんも今日はもういいわよ、顔色も良くないしゆっくり休んだ方がいいんじゃない?」
ぱぱぱっと支度を終えたミドリ先輩が立ち上がる。普段よりも気合いの入ったメイク、きっと今夜は例の「彼」と会うんだろうな。
「はい、ありがとうございます。お疲れ様でしたーっ!」
胸の奥がちくりと痛んで、こみ上げそうになった感情を慌てて飲み込む。そして今更ながら気づいた、今夜の私はこの先の時間を気にする必要もないんだってことに。昨日の今頃は、そして一昨日の今頃はどんな気持ちでいたんだろうって思ったら、思わずうるっと来ちゃいそうだよ。
―― 馬鹿馬鹿っ、今ここで回想モードにはいることないでしょっ!
山積みになっているゲラ刷りの一番上の一枚を手にして、ぼんやりと眺める。でも頭の中では全然違うことを考えてた。何でこう、上手くいかないんだろう。すっぱりと気持ちを切り替えて、過去なんて忘れられればいいのに。そうだよ、先輩が言ってくれたように今日は早く戻って休もう。ゆっくりお風呂に入ってぐっすり休めばすっきりするよ、そうに決まってる。
落ち着けたはずの感情は、ちょっとつついただけですぐにボロが出る。だからもう今夜は誰にも会いたくなかったし、どこにも行きたくなかった。自分から積極的に探せば、この状況を愚痴って笑い話に出来る友達を見つけられなくもない。すぐには無理でもふたり三人と当たれば、憂さ晴らしが出来そうだ。
でも、何となくなんだけど、こんな風に未だに自分自身でも持て余している感情を全く状況の分からない第三者に一から説明するのは時期尚早って気がする。きっと気持ちが高ぶって上手く伝わらないと思う、それじゃ呼び出した相手にも迷惑を掛けちゃうだろうな。となると、やっぱひとりでどうにかしなくちゃ。
こういうとき、一人暮らしだと気持ちの切り替えが出来ないから大変。束縛のない気ままな生活は、いつも思うんだけど状況によって良し悪しだ。誰にでもどんなときにでも手に入る快適さなんて実はどこにもないんだな。
そう思って、また携帯の画面を眺めてしまった。自分でもすごく馬鹿だと思う、でも今日は本当に何度同じ待ち受け画面をチェックしたか分からない。仕事柄携帯はいつでも肌身離さず持ってるし、だから連絡が入ればすぐに分かるはず。それなのに、懲りもせずに新着メールを問い合わせたりして。
……ほぉんと、馬鹿だなあ。
我ながら、呆れてしまう。この期に及んで何を期待しているのかしら? 彼が気を変えて連絡するとか、そんなのあり得ないでしょ。もしも万に一つそういう気持ちがあるんなら、どうしてあのとき意識的に視線をそらせたの? 例えば自分の早とちりに照れ笑いするとか、そういう反応だって出来たはずだよ。そうしなかったってことは、……だから、そう言うことなんだから。
吹っ切りたいのに、気づくと彼のことばかり考えてる。ふたりで過ごした、あっという間だったけどとっても楽しかった時間。当たり前に「明日」が来るって信じていた頃。途中から今回のことがただの勘違いだってことをすっかり忘れていた自分。
「ええいっ、もう! 帰ろ、帰ろっ!」
元々が人数の少ない部署、皆の外回りが重なるとひとりぼっちで取り残されることもそう珍しいことじゃない。もうちょっと待ってれば、ぽつりぽつりと戻ってくるメンバーもいるんだけど、それを待っている必要はないっていつも言われている。どうしてもひとりで抱えきれなくなれば助け船を出すけど、それ以外は個々で手持ちの仕事を片付けるってスタンスが共通の認識になってるんだな。
乱暴に立ち上がったところで、もう一度携帯をチェックしてた。ホント、そう言う自分が悲しくなる。
ああ、駄目。
夕暮れの雑踏に紛れれば塞いでいた気持ちも切り替わるかと思ったのに、全然そうじゃなかった。何て言うのかな、似たような髪型を上着を見つけるとついつい目で追っちゃったりして。その上、後ろからひょっこり現れて肩を叩かれるんじゃないかと期待したり。実際、会社ビルの自動ドア付近ではかなり気持ちが高ぶった。
―― 納得、いかない。
あまりに打ちひしがれて落ち込んだからだろうか。今度は見当違いの怒りがむくむくとこみ上げて、身体の内側を駆けめぐり始めていた。
だって、そうでしょ。どうして私ばっかり、こんな風に苦しまなくちゃならないの。そりゃ、少しは悪いことしちゃったかなと思ってる。確信もないのに、それっぽい態度を取ったりしたしね。でも、だって、それって、もしかしたら本当に自分がとかそう思っていたのもあるんだもの。本当にそうだったらいいなとか、思っていたんだよ、途中から。
また、携帯をチェックしちゃった。ずらりと並んだ着信履歴が今は虚しい。時間に遅れそうになるとすまなそうに連絡してきたりして、でもってさらに顔を合わせると平謝り。別れたあと、部屋に戻った頃に届く「お休み」コール。短いけど、繰り返し聞いた声。もう二度とこの耳に届くこともないんだろうか。そんなのって、辛すぎる。
「……あ」
すれ違う肩に押されて、覚えず指がリダイヤルを選択してた。ううん、これって無意識とは違うかも。そう自分に思いこませたかっただけなのかも。それが証拠にすぐに取り消せるのにそうしなくて、あっという間に呼び出し音に変わった。
『もしもし?』
相手が私だってことは分かってるのに、探るような声。ばっさりと突き放されているような気がして悲しい。返事をする前にごくりって息をのんでた。
「ええと、その。……ちょっと話したいんだけど、いい?」
ざわざわと彼を取り巻く周囲の音が聞こえてくる。向こうもどこかの街角を歩いているみたい。電波の状況もあまり良くないな。途中で切れないといいんだけど。
『うん』
短すぎて感情の読み取れない受け答え。もしかしたら電話の彼はいつもこんな風に素っ気なかったのかも知れない、だけど状況が状況だけに緊張はますます高まる。
「あの、……あのね」
たくさん、たくさん考えた。今日は一日、仕事しながらも彼のことばかりが頭をぐるぐるしてた。それなのに、この期に及んで上手く言葉が出てこない。一体、何て言って切り出せばいいの? 「ごめんなさい」って? 「騙して悪かった」って?
……でもそんなの、私の気持ちを伝える言葉じゃない。
ざわざわざわ。私の耳に彼の周りの音が届くのと同じくらい、彼の耳にも私を取り巻くさざめきが届いているのだろう。こんな風に心細く、頼りない電波で繋がり合ったふたり。永遠に途切れることだって、一瞬で可能だ。
『ごめん』
どれくらいの沈黙が続いたんだろう、私の左耳がすぐそばの時計台の鐘の音を聞いた。すぐ次の瞬間に、同じ音が右耳からも聞こえる。そこに被さる、もっと小さな声。
『ごめん、……出来ればちゃんと顔を見て話がしたいんだけど』
やっぱり、運命の神様は存在したんだ。ゆっくりと振り返ったとき、そう思った。