見慣れた風景が、今夜は何故か他人顔に見える。
高架の上を電車の音が通り過ぎるたびに吐き出されていく通勤服姿たち。少し避けた場所から眺めながら、私はここに到着してから何度目か分からないため息をついた。
大きなバスターミナルを併設していることもあって、利用者がとても多い駅。「夜遅くなっても人通りが途切れることがないから心配ないですよ」っていう不動産屋さんの言葉が何年も経った今も折に触れ思い出される。まあその分、通勤時間帯の混雑は半端じゃないんだけどね。他の職種より出勤の遅い身の上なら、そう困ることもない。
―― ちょっと、早まったかなあ。
別に意識する必要もないんだけど、それでも何となく、ね。だからといって「明日のお店は私に決めさせてもらっていい?」って言い出した手前、どうにかして少ない持ち駒の中から行き先を選び出さなくちゃならないでしょう。そしたら、やっぱ身近な場所になってしまうのは仕方ないのね。
結局のところ、面倒くさがりなんだと思う。大学進学に合わせて上京してから、ずっと同じ部屋を借りっぱなし。色々聞いてみると、こう言うパターンは案外珍しいみたい。二年に一度の更新のたびに引っ越している子も周囲には少なくないし、中には彼氏が変わるたびに全てを心機一転! とかすごい例も。まあ、そこまで行くと無駄な出費がかさみそうで恐ろしいけど。
何だかんだで長いつきあいになれば、目をつむったって楽々と通りを歩けてしまう。日常的に利用する生鮮食料品店や各種のスーパー・ドラッグストアはそれぞれの特徴や特売日だって、ばっちり頭に入ってるし。うんうん、だからね。そういうことなのよ、絶対深い意味はないの。
何を自分に言い訳しているんだろう―― って、もう一度息を吐く。それもこれも、みんなあの男のせい。そして、彼を夢中にさせている至極迷惑な社内イベントのせいだ。
三日目、つまり昨晩の行き先は、北欧風のレストランだった。素朴で温かくて、気取らずに色々と楽しめる感じ。その前の晩が背伸びをしたバーだったから、すごくホッとした。
野菜がゴロゴロ入ってるシチューとか、厚めにカットされたミニ・ステーキとか、サラダの中のぶつ切りに近い大きさで見え隠れするキュウリとか。あれもこれもと味わっていたらいつの間にかずっしりとおなかが重くなっている。それでもデザートをおいしくいただいて、すると当たり前みたいに翌日の話になった。
「……こんなに毎日、大丈夫なの?」
別に心配してあげる義理もないんだけど、それでも同じ会社の人間としてはとりあえずね。入社の時期も担当部署も同じとなれば、懐具合は似たり寄ったりと思っていいと思う。都会の一人暮らしは意外に出費がかさむもの、連日ふたり分のディナー代を払っていたらかなり厳しい。それも行き先がファミレスって訳でもないし。
「まー、な。そもそも大丈夫じゃなかったら、誘えないだろ?」
微妙な表情の変化では、心内までを探れない。こっちだって、自分の代金は払う気持ちあるんだよ? 最初の夜こそはあまりに驚きすぎて素直に「ごちそうさま」しちゃったけど、二度三度と続けばそうもいかない。いくらなんでも、そこまで図々しくはなれないわ。
「それに、さ」
私の表情がかなり難しいものになっていたんだろう、彼は平静を装いつつさっぱりとした口調で続ける。
「俺が誘わなかったら、別の奴にチャンスを与えることになっちまうだろ? 今は一日だって無駄にしたくはないんだ、……ま、もしも芳賀さんの方が乗り気じゃないっていうんなら仕方ないけど」
そんな風に真顔で見つめられたら、返答に困ってしまうじゃない。迷惑じゃないよってはっきり言っちゃったらふたりの仲を認めているみたいだし、その逆もなあ。現段階では特に不都合な点はないのは自分自身が一番良く分かってる。
明日の晩に会うことは同意したい、でもこれ以上彼に負担を掛けさせるのはたまらなく心苦しい。
「ええと、……だったら」
次の場所は私に決めさせてもらえる? って台詞が気がついたら口から飛び出していた。そのことに一呼吸置いてから、自分自身でびっくりする。
「あ、うん。……もちろん」
彼にとってもそれは想像の範疇を超えたものだったんだろう。話題や語彙の多さからは意外なほどに淡泊な表情が、明らかに変化する。好意的に受け取られたのかその逆なのか、判断が出来ないのが残念だけど。
「良かった、じゃあ決まったら連絡するね」
なるべく抑揚の少ない声であっさり言ったつもりだったけど、内心は心臓ばくばく。その瞬間から、どうしようどうしようって頭の中がぐるぐるしていた。場所が決まって予約を入れても、そのあとのメールがなかなか打てなくて。あっさりさっぱりビジネスライクな文面に一体どれくらいの時間を費やしたのやら分からない。
一体何に焦っているのか、自分でもよく分からない。よく分からないことなら忙しさにかまけて放っておけばいいのに、その心の切り替えも上手くいかない。たった数日間の状況変化にこんなに振り回されるなんて、ホントどうかしている。たとえるなら、ぶくぶくと潜水状態。そろそろ息継ぎに水面から顔を出したいところ。
結局、彼の遅刻は十五分とちょっとだった。
打ち合わせが長引いた上に電車の乗り継ぎでタイミングが悪く、思った以上に時間が掛かってしまったのだとか。すまなそうに頭を下げる相手に余裕の微笑みで答えるのは、その待ち時間に少しばかりヒートダウン出来た私。緊張も極限まで来ると、驚くほどあっさりと吹っ切れるもんなんだと知った。
「大丈夫だよ、余裕持たせて時間決めたし」
主導権を取るのって煩わしいことだとばかり思っていたのに、実際はそうでもないみたい。対人関係では当たり障りなく適当にというスタンスだったけど、こういう立場も楽しいな。
「いや、ほぉんと申し訳ない。せっかく芳賀さんが誘ってくれたのに」
頭ひとつ分大きな彼が必死に身体を縮こませているのはちょっと可愛い。そんな風にされるとね、すぐに許したくなっちゃう。ほんの数日前には「無礼な奴だ」と腹を立ててた相手のに、私としたことがなんたる変わりよう。
「だから、全然気にしてないって」
頬の筋肉を緩ませながら、今の受け答えはちょっとだけ本心じゃないなって思う。正直なところ、何度か不安は走った。もしかしたら今夜はドタキャンされるんじゃないかなとか。腕時計の秒針の進みがえらくのろのろに思えたし、かといって「それでも別にいいや」って気持ちを切り替えるのも無理だった。
―― 会いたかった、んだよな。
自分から漕ぎ出した船じゃない。しかもきっかけはあまりに不謹慎。今この瞬間だって、どこまで信用できる相手か知ったもんじゃない。
だけど、これだけは事実。私にとっては見慣れすぎているいつもと同じ風景なのに、彼がそこに存在するのかしないのかで全く違うように思える。何というか、彼の出現で急に辺りの色がパッと華やいだって感じ? それまでの憂鬱さが嘘みたいになくなっているのはどうしてだろう。
今日もまた、周囲の誰からも誤解されそうなポジションでふたり連れだって歩く。いつもとちょっと違うのは道案内をする私の方が少し先に立っているってことくらい。時々気になって振り返るたびに、肩口でカールした髪が揺れた。見苦しくない程度に手直しをしたばかりのかたち、自分でも意識しないままに念入りに身だしなみを整えている私を鏡の向こうに発見する。
―― 何だろ、この気持ち。
「ドキドキ」とも「わくわく」ともちょっと違う、何とも形容のしにくい心地。かといって「憂鬱」とか「煩わしい」とかとは全然違う。ただ……何というか、とにかく不安定。これから私、私たちってどうなっちゃうんだろうって、楽しく会話をしている振りをしながらいつでも心のどこかで考えてる。
もしかして、恋愛の始まりってこんな風だったかな。あまりに久しぶりすぎて、全然分からない感じ。いいよ別に、難しく考えなくてもって開き直りたいのに上手くいかない。昨日と今日が繋がっていても、それが明日に続く保証が全くない一本橋。どこかで言葉が気持ちがちょっとでもぶれたら、そこで全てがおしまいになっちゃうんだ。
その時のことを、ほんの数日前と同じように軽く考えられない私がいる。適当にあしらって振り回したかったのになんたる誤算、あーもうどうにかして。
「……あの、芳賀さん。もしかして、そこの店じゃなかった?」
こうして呼び止められて初めて気づく辺り、今までのやりとりを上の空で過ごしていたのが丸わかり。あれ、あれれ、どうしちゃったの。案内役のはずの私が目的地をぼんやり通り過ぎてしまうなんて。
「あ、ホントだ。ごめん、ごめん」
慌ててくるりと方向転換。そうすると、驚くほど彼との距離が縮まった。そして当然と言えば当然のことなんだけど、互いの衝突を避けて数歩後ろに下がるリアクション。微妙な間の取り方が、ぎこちなくてちょっと悲しい。
「別に予約とか取ってないの、そんなにかしこまった店じゃないし。今ぐらいだったら、絶対座れるから」
あのまま歩き続けていたら、自分のアパートに案内しちゃうところだったわ。全く何考えているのよ、信じられない。
「どうぞ〜、って。自慢げに言えるほど通い詰めてはいないんだけどね」
学生時代の仲間とか、郷里の友達が来たときとかに必ず足が向く居酒屋。いわゆるチェーン店ほどは規模はなく、それでいて小料理屋よりはざっくばらんな構え。多分、私が男だったら仕事帰りにいっぱい引っかけてたんだろうなと思う。
「芳賀さん、って」
すぐに足音が付いてこないことを不思議に思って振り返る。それを待っていたかのように、彼がゆっくりと息を吐いた。
「すごくしっかりして見えるのに、たまにこういうことあるよね。でも、それってすごくホッとする」
一体どういうリアクションを返したらいいのか分からない台詞に、一瞬動きが止まる。
「それって……褒めてるの?」
かろうじて不自然じゃない程度の間合いで言葉を返せたことに安堵する。もちろん「馬鹿にしてるの?」って続ける選択肢もあったけど、なんだかそれってちょっと今は躊躇われて。
「うん、もちろん」
すごくさわやかに笑顔になるから、もうどうやって反応したらいいのやら。私の耳たぶがほんのり色づいてしまったのは、日が落ちて急に冷え込んできた今夜の陽気のせいばかりじゃないと思う。
「……そ、ありがと。一応、お礼を言っとくわ」
ああ、馬鹿馬鹿。どうしてそんな可愛くないこと言っちゃうの! 自分が自分で情けなくて口惜しくて仕方ない。自然にしようって当たり前みたいにしようって思えば思うほど、どんどん不自然にぎこちなくなる。こんな私、誰か止めてくれないかな。
どうしてもぬぐい去れない違和感はその後も続いたものの、期待を裏切らない美味しい食事とお酒が楽しい時間を過ごさせてくれた。
「ごちそうさま、……なんか遠慮なくたくさん食っちゃった気がするけど。かなり掛かったんじゃない?」
レシートを握りしめて彼のもとへと進むと、その手にはもう新しいタバコがあった。火を点ける仕草を一瞬止めて、私に訊ねてくる。
「ううん、そんなことないよ。今までのとことは全然レベルが違うし」
まーそれなりによく食べましたって感じだったけど、最初から払うつもりだった出費なら心構えも出来てるからそんなに辛くない。こういうのって不思議なもので、知らない間に財布からごっそりお金がなくなってると嫌な気分だけど「今日は使うぞ」って思ってれば全然平気なのね。良くも悪くも一人暮らし、生活費の帳尻はいつでも自力で整えられる。
「それより、こちらこそありがと。こんなとこまで連れ出しちゃって悪かったね」
まだ十時をちょっと回ったくらいだから、これから彼が自宅に戻ることには全く支障ない。でも乗り換えが結構面倒なんだよね。もうちょっと互いの中間点になるように気を配るべきだったかな?
「いや、悪いなんて全く」
駅まで送るよって、どちらからともなく並んで歩き出す。河川と呼ぶには少し物足りない水路に街灯の輝きが揺れて、人気の途切れた道が続いている。
「それなら、こっちだって毎晩付き合わせてすまないと思ってるし。うん、……だから何というか」
ごにょごにょって、そのあとの言葉が尻つぼみになって良く聞こえない。はきはきとしゃべる彼にしてはすごく珍しいことで、何だか急に不安になる。ええと、その。あとにどんな言葉を繋げるつもりなの? 急に薄暗くならないでよ。
「えー、そんな。いいじゃない、どっちにせよご飯は食べなくちゃならないんだし。どうせならふたりの方がずっと楽しいよ。ひとりご飯は誰に気にすることもなくて気楽だけど、やっぱ味気ないしね」
お互いに生まれ育った土地を離れての一人暮らし。でもって、付き合ってる相手もいない。そんな感じで似たもの同士でしょって気軽さで本音が出た。
ホントにねー、一人暮らしも最初のうちは楽しくて楽しくて仕方なかったのよ。自分のスケジュールを自分で百パーセント支配できるのってすごく快感だもの。近所迷惑さえ気をつければ、お風呂の時間だって自由だしね。
「……楽しかった?」
彼はまださっきのタバコに火を点けてないみたい。何度も何度もそうしようとしているみたいなのに、そのたびに立ち止まってしまう。
「うん、もちろん」
頬にほんのりと残っているアルコールが、思いがけずに私を素直にさせた。
ホントのことホントだって言って何が悪いのって、開き直っちゃったのかな。ようやく口から出た本音が、すごく嬉しかった。
「増川君と一緒にご飯するの、楽しいよ。これ、嘘じゃないから」
彼の手からタバコが落ちる。それをスローモーションで追っていた視界が、ふっと途切れた。