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        第9話*勲

 

 この世の中には要領の悪い人間というものが存在する。
  たとえば、最短距離を移動すれば五分と掛からずに到着すると思われる目的地。しかし、彼らはわざわざ遠回りして通らなくてもいいようなルートを突き進み、乗る必要のない交通手段を使ったりする。結果、信じられないほどの時間のロスをすることになるのだ。
  正直、理解に苦しむことも多い。もしかしたら、こっちをからかってわざとやっているのではないかと勘ぐってしまいたくなったりする。だが、やってる本人はいつでも大真面目。必死の面持ちで真剣に目の前の物事に取り組んでいる。そうであるのに、やることなすこと無駄ばかり。余計な体力や精神力を使いまくり、疲労も大きい。
  俺はどちらかといえば、要領のいい人間の部類に入ると思う。
  自分としては至って普通に考えて行動しているのであるが、大方のことはここまで無難に乗り越えてきている。受験しかり、その他の事柄にしかり。もちろん相応の努力が実っての成果ではあるが、地道に積み重ねてきたものがすべてフイになるというような残念な出来事にはあまり遭遇しない。
  とはいえ、今はまだ学生の身の上。この先、楽をしていた分のしっぺ返しが来るかも知れないが……いやいや、それはいくらなんでも考えすぎであろう。
  そんな順風満帆とも言える二十年弱の人生を歩んできたわけであるが、でも俺は知っている。世の中には想像を絶するくらい要領の悪い人間というものが確かに存在するのだ。彼らだって、努力はしている。場合によっては、他の人間の二倍も三倍も頑張っている。それなのに、やることなすことすべてが裏目に出て、最後にはいつも無惨な結果に終わるのだ。
  そんな哀れな姿を十年以上もの間、飽きることもなく見続けてきている。こっちがその姿を見ているということは、本人も諦めることなく努力を続けているということだ。
  頑張って頑張って、それでも今一歩報われない。それはまるで、穴の空いた風船を必死で膨らませようとしている努力に似ている。いくら頑張っても、小さな穴からどんどん空気が抜けてしまう。それなのに、いつまでも必死に膨らませ続ける。
  もしも、と思う。もしも、あの風船に穴が空いていなくて、努力がすべて実を結んでいくとしたら。そうしたら、あの風船はみなぎる圧力に耐えきれず破裂してしまうのかも知れない。
  風船に空いた穴、それは彼女のあまりに必死の努力に対する「ガス抜き」のような存在なのだろうか。
  ――いやいや、そうであったとしても。
  彼女が無駄にエネルギッシュでいつでも元気が有り余っているとしても、モノには限界というものがある。いつか努力の糸がぷつっと切れて、なにもかもが面白くなく無気力になってしまうこともあり得るだろう。一度途切れてしまった精神力を建て直すのはかなり難しい。だから、そうならないうちに少しずつ行動を矯正していく必要がある。
  彼女の欠点は、考えるよりも行動が先に出るところにある。なにかコトを起こそうと思ったら、一歩踏み出す前にどんなルートで進めば無駄が少ないか検討する必要があるのだ。
  しかし、こういうことは言葉で説明しても上手くいかない。「また偉そうなお説教が始まった」とか煙たがられるのが関の山だ。だから、常にこっそりと気付かれないように計画を進める必要がある。幸いなことに相手の思考や行動のパターンは熟知しているから、策を練るのはそう難しいことではない。
  ……とか思いつつも。
  ハンドルを握る俺の手のひらは、次第に気持ちよくない汗をかき始めていた。
「――おい、千花」
  運転中は進行方向はもちろん、前後左右に常に気を配っていかなくてはならない。だから、俺は彼女の方を振り向くことなく、言葉だけで呼びかけた。
「なぁに?」
  予想どおり、間の抜けた声であった。たぶん、そんなところだろうとは思っていたが、少しイラッと来る。出掛けに渡した地図は、まったく見当違いの頁を開いたまま彼女の膝の上にあった。
「この道のままで、本当にいいんだろうな?」
  努めて冷静に感情を込めない言い方にするように心がけた。だが、走り出して一時間以上。予定ではとっくに到着しているはずの海にいつまで経ってもたどり着かないどころか、今走っている場所はどう見ても山道だ。しかも、ギアをドライブに入れたままでは走りにくいほどの急勾配。あたりにはマイナスイオンがたっぷり漂っている。
「えーっ、えっとー。でもっ、真っ直ぐのままでいいはずなんだけどなあ〜」
  この一時間、こちらが何度方向確認をしても、彼女の返事は「とりあえず、真っ直ぐ」であった。だから俺もその言葉通りに進んできた訳である。途中、何度も目的地までの距離を示す道路案内が出ていたが、それもすべて無視してきた。俺は決めていたのだ、今日は彼女の意見だけに従おうと。
  そりゃ、道案内の苦手な人間にすべてを任せるのはいささか乱暴だ。だからそのために、一番わかりやすいと思われる地図を用意した。
  あらかじめ断っておくが、俺はマゾではない。自分を肉体的精神的に追い詰めることに快楽を覚える人種ではないのだ。ならば、どうしてこんなことをしているか。それはひとえに彼女のためである。
  出会ってから、すでに十二年以上。それなりの成長を遂げてきたと信じたい彼女であるが、とにかく要領の悪いこと、この上ない。頑張っても頑張っても成果のでない姿を間近で見ているのは、かなり辛いモノがある。たぶん、本人以上にダメージを受けていると思う。
  今年の春、高校に進学したことで彼女の行動範囲は大きく広がった。同時に大学に進んだ俺も、彼女とは別のテリトリーを持つことになっている。今までは、多少のことがあってもすぐにフォローすることができた。でも、これからは違う。俺の目の届かないところで、彼女が路頭に迷うこともあり得る。
  そうなってしまったとき、途方に暮れるばかりでは駄目だ。どうにかして、自分自身で道を切り開いてくれなくては。でも、それがわかっていても、心配で心配で仕方ない。彼女がいつも死にものぐるいで頑張っているのを知っているだけに、大ゴケしたときの惨状を見るのが辛い。
  だから俺は、身を挺して彼女を成長させることにした。どんなヤバイ事態になろうが決して口を挟まず、困った状況に陥っても自分自身の力で乗り越えさせる。そんな成功体験を積み重ねることで、少しずつ行動パターンを矯正していくことができれば。
「……あれ〜っ、勲くん! この地図、変だよ。いつの間にか、上と下が逆になってる!」
  先ほどの会話から、さらに五分ほど車を走らせただろうか。彼女が不意に素っ頓狂な声を上げる。
「ちっ、ちょっと! ヤバイよっ、止まって、止まって! だって、全然逆の方向に進んでるんだもの。どうして、こんなことになるの? やだなあ〜、じゃあここはどこ!? まさか、隣の県に入っちゃったりしてないよね?」
  それは平気だ、俺もそこまで馬鹿じゃない。いくら、今日は彼女にすべてを託すつもりであったとしても、後戻りが出来ない場所まで進むことは考えていなかった。
「そんなに慌てるな、車を止めたら一緒に確認してやる」
「ええ〜っ、なんでそんな悠長なことを言ってるの!? これって、一大事だよっ。今日中に家に帰れなかったら、明日学校に行けなくなっちゃう〜、それって困るっ! すっごく困るんだけど〜!」
  ……いやいや、それはこっちの台詞だ。正直、俺にだって明日は絶対に休めない必修科目がある。まあ、あと一時間くらいは方向音痴に付き合ってやってもいいと思っていたが、本人も気付いたようだからこのあたりでヨシとしよう。
「ほら、着いたぞ」
  このまま進んだら、行き止まりになるのではないかと心配になるような細道を進んだあと、突然目の前がパッと拓けた。そして現れたのは、どこまでも続く河原。
「あっ、あっれ〜! 海じゃないのに、水だ! なんかすごく綺麗っ! ねえ、降りてみようっ、降りてみようって……!」
  先ほどまでの慌てぶりはどこへやら。彼女は待ちきれないと言わんばかりに助手席のドアを開けて外に飛び出した。
「ほらほらっ、勲くん! 早くっ、急いでっ!」
  実は県境はすぐそこ、ここは家の近くを流れている河のずっと上流に当たる。あたりは背の高い木々に囲まれて、なかなか居心地がいい。しかも交通の便がイマイチなために急激な開発もされず、穴場的なレジャースポットとなっていた。
  正直、今の時期の海は波が荒くてあまりオススメできない。だったら、こんな静かな場所の方がいいのではないかと思った。そう、最初から俺はここに辿り着くつもりだったのだ。
「勲くんっ、水がすごく綺麗! 見てみてっ、魚が泳いでる! きゃあっ、冷たい!」
  彼女はすっかり舞い上がっている。さてさて、あまりひとり歩きをさせるのは危ないからフォローに入ろう。足を取られて水にはまったりしたら、帰りが大変になる。
「おい、足下に気をつけろ。また転ぶぞ」
「わかってるってっ、平気平気っ! ……ええっ、うわわわわっ……!」
  そう思っているうちに、彼女は背の高いススキの陰にすっぽり隠れてしまった。俺は慌てて後を追う。
「どうした、千花!」
「いっ、勲くん〜! なんでっ、目の前が真っ赤なんだけどーっ!」
  草を分けながら進んでいくと、そこには慌てふためいている彼女の後ろ姿があった。その周りには無数の赤とんぼ。いきなりどうしてこんなにたくさん現れたのかと思うほどの大量だ。さすが、水の綺麗な川上。こういう光景は街中じゃなかなかお目に掛かれない。
「すごいな、千花。モテモテじゃないか」
「やっだーっ、こんなの全然嬉しくない! もうっ、助けてってば〜!」
  そんなことを言われても、笑いの方が先にこみ上げてくるのだから仕方ない。別に虫に直撃されたからって、そう被害はないだろう。
「助けるもなにも、お前がそこから離れればすべてが解決するぞ。ほら、そろそろ腹も減った頃だろう。飯にするか」
「ええーっ、ご飯!? なんでっ、勲くんって準備良すぎ!」
  そりゃそうだ、彼女に付き合っていたら昼時に食べ物屋に有り付けないことだって簡単に想像できた。だから朝からコンビニにひとっ走り、弁当や飲み物、食後のスイーツにスナック菓子まで調達してある。
「じっ、じゃあ、いただきます!」
「ちょっと待て、その前にきちんと手を拭け。食中毒になったって知らないぞ」
  そういってウエットティッシュを取り出してやるあたり、俺もかなりの世話焼きだとは思う。
  だがいいのだ、おあつらえ向きの上天気。今日は「恋人ごっこ」にうってつけの一日なのだから。

 

おわり(120805)

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