――もしかして、私。すごい場面に遭遇しちゃった……?
ギンガムチェックのお弁当を胸に中庭に一歩踏み出そうとして、足を止めた。 黒縁の硝子の向こう、不意に現れた一団。中心に向かってぐるりと周りを取り巻くのが、ラベンダー色のブレザーとチェックのスカートという制服を着込んだウチの学校の女子生徒たち。まあ、特別棟の東端という学校の敷地内なんだから、当たり前なんだけど。どう見ても、大勢でひとりを取り囲んでいると言う感じだ。 いやあ、待ってよ。勘弁してよっ! こっちは午前中の四コマの授業をどうにかくぐり抜けて、ようやくほっと一息のランチタイムなのに。ついでに雑音がない所で、午後の英文法の予習もおさらいしたいの。面倒なことに巻き込まれたら、溜まったもんじゃない。 最近、新しく見つけたとっておきの場所。ぽかぽかとひなたぼっこにはもってこいの芝生の上に、そんなふうにたむろられたら迷惑なんだけど。まあ、そんなこと対大勢に言ったところでどうなることでもないか。別に私だけの陣地と決まったわけでもないし。 天下の西の杜学園高等部の「いじめ」の実態――そんなでかでかとした見出しが頭の中を過ぎる。でも次の瞬間、私の膨らみに膨らんだ妄想はあっけない終焉を迎えた。
「いや〜ぁん、何処に行っちゃったのかと思った!」 「そうよぉ〜、樹くんってば、逃げ足早すぎー!」 そう。聞こえてきたのはそんな拗ねるような声たち。他にもまだ数名……ええと、全部で7,8人はいるかな? それぞれがまるで最初から決められた台詞を読むように、次々にまくし立てる。まあ、その口調も妙に甘ったるしくて、聞いてるこっちは背筋が寒くなるけど。どうも逃げるターゲットを大勢で追いかけてここまで辿り着いたという状況みたいだ。 あら。授業中よりもスカートをぐっと短くしてる後ろ姿は、ウチのクラスの……確か、小川さんじゃないの。 うわあ、普段とは全然声のトーンが違う。高等科二年生に進級して、早1ヶ月。もともと外部受験組の私は顔見知りも少ないため、未だにクラスの数名しか顔と名前が一致しない。でも、小川さんくらい目立っている人はすぐに覚えた。はきはきしていて人望も厚く、何かというとまとめ役を買って出てる。 ――あ、そうか。そう言うことか。 他のクラスの女子も入り交じっていて何なんだろうと思ったけど、ようやく分かった。これって、バレー部の二年生集団だ。チームワークで奇襲攻撃に出たのかしら? 円陣組んで逃げ場をなくしている技も相当なものね。 「もう、困るなあ……」 ああ、やっぱり「彼」だ。 小川さんのこともすぐに分かったけど、コイツに至ってはもう視界に入らないようにする方が大変なくらいだ。ただですら学年で五本の指にはいるほどの長身。しかも鬱陶しいくらい目立つんだから。中等部から数えて四年連続の「ミスター西の杜」だって、言うし。もちろん、今年も目指してるみたい。 やいのやいのと言い続ける女子集団を前に、彼は大袈裟に首をすくめて見せた。すごっ、ぐるりと皆を見渡すさりげない「気配り」ならぬ「目配り」はプロ級だわ。 「逃げてた訳じゃないだろう? 昼飯のパンが売り切れると困るから、急いでいたんじゃないか」 で、その言い方がね……何というか、全然困ってる人っぽくない。手慣れたあしらい方が、とにかく鼻につく。一応は追いかけられて追いつめられた感じなんだろうけど、何となく女子たちとのやりとりを楽しんでいる風にも思えて。
あああ、貴重な昼休みがどんどん少なくなるじゃない。 とっとと立ち去りたいんだけど、心の片隅を巣くっている好奇心がそれを許さない。私が柱の影で耳をそばだてるまでもなく、やりとりはどんどんと続いていた。
「今日こそは、はっきりさせてよね! 樹くんが明日美と別れたのはもう分かってるんだから、テニス部の次は私たちの番よ。くじ引き負けたからこんなに後になっちゃったけどさ、ようやくなんだし」 「そうよぉ〜、誰を選んだって文句は言わないしー。とりあえず、今フリーなのはここにいるだけなんだけど、もしも樹くんの彼女になれるなら、今の彼氏と別れてもいいって言ってるのもいるよ?」 まあまあ、と騒ぎ立てる一同をなだめているのが、ウチのクラスの委員長であり、さらに生徒会役員でバスケ部のレギュラーだったりする男だ。まだ三年の先輩もいるんだから、それなのに昨秋の新人戦からメンバー入りするのはすごいことらしい。外部から来た私にだって、それくらいは分かる。 ――槇原樹(まきはら・いつき)。 校内だけでなく他校にもその名は轟いている。私なんて学区も全然違うのに、それでも中学のクラスの女子の中には複数の彼の「ファン」がいた。聞くところによると、いくつかファンクラブもあるそうだし。派閥争いもすごいんだよと聞かされて、馬鹿馬鹿しいと思ったものだ。 だいたいさ、男の癖に美しさを売りにしたりして、愛嬌振りまいてどういうつもりなんだろう。生徒会やってるだけあって、先生方からの人望も厚かったりする。けどさ、あまりにも非の打ち所がないのって、逆に薄気味悪くて気に入らない。結構、鼻持ちならない奴とか思ってる。ただし、私の様な「アンチ派」は本当に少数だろうから、あえて口には出さないけどね。 頭のいい人には大きく分けて二通りあると思う。ひとつは要領がいいのか何なのか、それほど努力をしている風にも見えないのに、何となくいい成績が取れてしまうグループ。そしてもう一方は、凡庸な頭に必死で知識を詰め込んで、努力に努力を重ねて這い上がるグループだ。 今までね、そう言うのって本当に一部の人間だと思っていたのよ。それが、ここの学校に入学したら、それこそ掃いて捨てるほどゴロゴロいるんだから。ううん、ほとんどそうだと言ってもいいかも。悲壮な顔つきで試験勉強してるような人はいつの間にか脱落して、他の中学高校に転入することになるんだって。 そして、それを私に一番強く印象づけてくれたのが、今目の前で標的になっている「槇原樹」と言う人物だと思う。劣等感というものを飼い慣らしている人間にとっては、多かれ少なかれ、彼のような存在は脅威じゃないかな。 ――で、「今度は私たちの番」って、一体……? 何なのそれ!? だいたい、「樹くんの新しい彼女はテニス部のナンバー1」だって噂されてたのは、つい最近だった気がする。確か、一年の終わりくらい? まだひと月か二月しか経ってないじゃないの。
耳に飛び込んできたいくつかの単語を組み合わせても、私にはこの言葉の意味が理解出来なかった。 まあ、いいわ、面倒くさい。ともかく、この使い古された少女漫画のワンシーンのような光景から、早いとこ抜け出そう。いい加減、腹の虫も限界だ。
「あら、誰かと思ったら……『風紀委員』の小杉さんじゃないの?」 見たくもないシーンに背を向けて、足音を立てないようにこっそりと歩き出そうとしたら。背中に呼びかけられてしまった。小川さんの声だ。 「後ろ姿でもすぐに分かっちゃうって、すごいわ〜」 他にも多くの言葉を含んでいるように思えるひとこと。他の女子たちもこそこそと囁きあっているのが分かる。 ――ああ、お邪魔様! 好きこのんで居合わせたわけじゃないわよ、おあいにく様。 そう言わんばかりに、きびすを返す。そのまま今度こそ、足早に立ち去ろうとした瞬間に……またまた、背中に声が飛んだ。
「やあ、待ってたよ、薫子(かおるこ)ちゃん! 逃げることないじゃない、こっちにお出でよ」
思いがけないひとこと。 顔を上げた私の視界の向こうに見えたのは……わざとらしく微笑む「奴」の姿ではなく、その周りでこちらを睨み付けている女子たちのとんがった視線であった。呆気にとられている私の耳に、さらに「奴」の言葉が流れ込んでくる。 「みんな、悪いね。実は僕、生徒指導の鹿島センセに呼び出されちゃってね、やっぱりここはアイツのお気に入りの薫子ちゃんにいい知恵を授けて貰おうと思ってさ。ほらほら、しつこい女の子は嫌われるよ〜。じゃあ、この話はまた後でね」
――知らないわよ、そんな話! ……とすぐさま切り返せなかったのは、私が小心者だからだけではない。あの女子たちの視線に耐えられなかっただけだ。私の手のひらは、うららかな春だというのにじっとりと汗が滲んでいた。
「……どういうつもりなんでしょうか?」 先ほどの一団が去った後、私は意を決してそう話しかけた。好ましくない相手に自分から声を掛けるなんて、鬱陶しくて嫌だ。でも、仕方ないじゃない。目の前の「彼」はにやにやと笑っているだけだし。 だいたい、何でコイツが私のファーストネームを呼ぶのよ、しかも「ちゃん」付けで! クラスメイトと言えど、何の接点もないし、はなからアウト・オブ・眼中だと思ってたわ。 「やだなあ、怖い顔しないでよ。ほら、昼休みが終わっちゃうと大変でしょう? 早く弁当を食べないと」
静止画像でしかはっきり見たことのなかった顔が、滑らかに動き出す。見れば見るほど腹が立つというのに、それでも視線が追ってしまうって、どういうこと? うわあ、何てまつげが長いんだろう。男なんだから、まさかビューラー使ってないだろうな。いや、分からないわ。今は男性のメイクだって普通だと聞くし。こんなに間近で見つめたことなんてなかった。……綺麗な顔って……本当に近くで見ると恥ずかしいものね。
……ととと、本当だ! あと予鈴まで15分しかないじゃない。 私は芝生の上に座り込むと慌ててお弁当箱を広げた。こんなところで、こんな男の隣でなんて嫌だったけど仕方ない。だって、今更クラスに帰ったら、もう小川さんがさっきの話を広めているはずだし。そんな空気の悪いところで食べたくないわ。 だいたい、誰のせいでこんな嫌な思いをしてると思ってるの? 勝手に人を口実に使うなんて、失礼しちゃう。一年の時もとうとう最後までクラスでは孤立した状態だったけど、まさか今年もそうなっちゃったのかしら? ……ま、いいけどね。無理して媚びを売るのも性に合わないし。 「へえ、美味しそうだねえ。そのつくねって、手作り? レトルトのとは色が違うね。……一個もらっていい?」 私がきつい視線で睨み付けたのが功をなしたのだろう、奴はふふっと鼻で笑うと購買部の前に売りに来てるパン屋の袋を取り出した。スタンプで店名が押してある。飲み物は飲むヨーグルトイチゴ味だ。何だか、意外な感じ。ブラックコーヒーとかの方が似合いそうなんだけど。
メロンパンを取り出して豪快にかぶりついている横顔を、また知らない間に目で追っていた。 横顔のラインは言うに及ばず、前歯の歯並びまで綺麗。無駄な肉は何処にも付いてないのに、かといってひ弱な印象はない。夏でもないのに、こんがりと綺麗に日焼けしてる。バスケって、体育館でやるんじゃなかったっけ? まさか春休みは南の島に泳ぎに行ったとか言わないでしょうね。 「良かったよ、タイミング良く薫子ちゃんが来てくれて。マジ助かったかも」 私はぎょっとして俯いた。うわうわ、横顔ならまだ見られるけど、正面からだと辛いかも。何て言うのかなあ、顔面から輝き放ってるって感じなんだもん。もう、嫌! こんな態度を取ったら気があるとか誤解されるじゃないの。 「ホント、参るよなあ……、選べないから向こうで勝手に決めてくれって言うのにさ。集団で来なくたっていいじゃない。いくら何でも、あんなにたくさんといっぺんに付き合えないよ。 大袈裟に溜息をつく仕草に、自ら酔っている気がして嫌な感じ。いけ好かない奴だと思うから尚更、いちいち気に障るのかしら。 「――何で。あの中から選ぶとか、言うの?」 いや、何となく。もうその理由は見えていた。それだけじゃない。ふわっと額に掛かったウェーヴヘアをかき上げた瞬間、彼のまとっていた仮面がひとつ、ぺらんとめくれた様な気がしたのだ。 「んなの、決まってるだろ? こっちがひとりに決めるのもかったるいし、面倒だし。どうせ、女子なんてどれも同じようなもんじゃない。だから、女子が群れなして押しかけてきて『付き合ってくれ』って言われたときに、言ってやったの。君たちの中で話し合って選んでくれって。そしたら、もう後は、何故か部活対抗でくじ引きをしたみたいで、気が付いたら持ち回り制になってたってわけ」
……何、それ。最低じゃない。 私の推理もそれなりに当たっていたけど、それ以上に現実は粗悪だった。
そんなことが許されるの? って言うか、そんな風に今までやって来てて、どうして誰も文句を言わないのよ!? さっきの子たちも、こんな奴の言いなりなんて、どういうこと? 確かにルックスは最高かも知れないわよ、でも腹黒さも天下一品じゃないの。 そりゃ、取っ替え引っ替え彼女が変わっているよなあと思ってたわよ、この一年。だけど、そんな裏事情までは気付いてなかった。もともとコイツのことには触れないように過ごしていたから、アンテナが受信しなかっただけかもだけど。そこまでするのって、非道徳にも程があるって言わない……?
私の顔色が目に見えて変わったことに気付いたのだろう。奴は少しも悪びれる様子もなく、かえって興味深そうに身を乗り出してきた。 「へえ、本当に何も知らなかったんだ。丸一年も同じ学校にいて、気付かないなんて天然記念物モノだね、薫子ちゃんは。いつも机にへばりついて参考書と向き合ってたら、スクールライフも楽しくないでしょ? たまにはみんなから注目されて、気持ち良くなるのもいいんじゃないかな。 「は……はあ……?」 おなかの中がふつふつと怒りで沸き上がってくる。きっと表情にもそれは表れていたと思う。なのに、目の前の男は不敵な微笑みで、とんでもないことを言い放ったのだ。 「薫子ちゃん、僕の彼女になりなよ」
次の瞬間。 ぶちっと音を立てて、私の張りつめていた理性の糸がちぎれ飛んだ。多分、からかわれてるんだろう、本気のはずもない。だからマジで返すなんてどうかしてると思う。でも、……でもっ。こんな言い方ってないわよね。 そりゃあさ、恋愛至上主義とか、そんなうんちくを今更延々と述べる気力もない。もちろん、この広い世の中にはこんな考え方もあるだろうし、それを否定するほど野暮じゃないわ。……だけど。 私だって、世間には疎い方だけどそれでも知ってるわ。コイツの両親って、巷では「カリスマ夫婦」とか呼ばれているんでしょ? 上の娘が成人式過ぎてもらぶらぶで、老若男女を問わず、羨望の的になっているとか。その息子が、こんな人を馬鹿にしたような考え方をしていていいの? って言うか、あの両親の方も単なるパフォーマンスでしかなかったりする……?
「……残念ですけど」 半分くらい残っているお弁当箱。すごくもったいないけど、大きな音を立てて蓋をした。そして、さっさと立ち上がる。 「私、注目されることにも気持ちよくなることにも興味ないの。女子に騒がれるのがウザいから適当に見繕って彼女を捜すなら、他を当たってくださいっ!」 スカートにくっついた芝を乱暴に払う。風向きで、奴の方に吹っ飛んだって別にいいわ。もう、腹立つ、信じられない。美しいバラにはトゲがあるとか言うけどさ、見た目ばっか良くて性悪の男なんてサイテー! 「……ふうん、いいの?」 思わず、また振り向いてしまった。もう二度と顔なんて見たくないと思ったのに。 だって、本当。今までと声のトーンが違う。ドスがきいてるって言うか、何というか。目に映ったのは案の定、仮面を全部外した小悪魔の微笑み。気のせいだろうか、この瞬間、ふたりの周囲だけ気温が五度くらい下がった感じがした。 「なっ、何よっ! そんなことでひるむかと思ったら大間違いなんだからね……っ!」
ああ、何でなの。声が震えてる。 何っ、何? ふふふっと不敵な笑い声を上げた彼は、焦げ茶の瞳でまっすぐに私を見つめた。
「俺、君の秘密、知ってるんだけど。……ばらされてもいいのかな、小杉さん?」
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