TopNovel未来Top>君の天使になる日まで・9




… 「片側の未来」☆樹編 …
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 一体、何が起こったのか。しばらくの間、それを理解することが出来なかった。

「……なっ……」

 固まったままの表情で顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、いつもの小憎たらしい微笑み。これが角度によってはたまらなく甘い表情になるんだから侮れない。

「どう、お姫様。夢の国からお目覚めになりましたか? ……幸せのキスって言うんだって、俺のは。たまらなく、うっとりしただろ?」

 悪びれもせず、そんなことを言う。何だか、すごい得意げ。してやったりという感じに。

 

 ――うっとりどころか。あまりに驚いて声も出ないわよ。

 もともと何を言ってもそれを上回る話術で即座に反撃されるから、コイツの前では無口になるしかないのだけれど。それにしても、……ああ、口惜しいっ!!

 

 いくら人通りの少ない時間帯とは言っても、ここは公道。四方八方人影が全く見えないと言う程ではない。実際、背中にはいつもの数倍の視線を感じていた。遠目に見たら、恋人同士のらぶらぶに見えちゃうんだろうな。きっとこの周囲の反応すらも最初から計算尽くなんだと思う。

 だけど、私には理解出来ない。コイツはいちいち行動が不可解すぎる。私を天敵のように扱ったり、そうかと思うといきなり優しい態度を示してみたり。そのたびにこちらの反応を楽しんでいるのが分かる。頭のいい奴の「復讐」とはどこまでも奥が深いのかも。

 勝ち誇った微笑みを崩すことなく、槇原樹はさらに言い放つ。

「期末でいい点数取ったら、もっとすごいのしてやるから頑張れよ? ……そう思えば俄然やる気になるだろ?」

 今度こそ怒りの鉄拳をお見舞いしてやってもいいと思うのに、ああどうしてっ……! 身体が全身麻痺を起こしたみたいに動かないっ。もしかしてコイツは電気クラゲの如く、キスのたびに相手に電撃のショックを与えるのだろうか。いや、そうに違いない。そうじゃなかったら、今の私のこの状況をどうやって説明すればいいの。

 それにそれに。こんなの挨拶代わりだと言わんばかりに、振る舞っている奴が腹立たしい。何様か知らないけど、乙女の唇を奪っておいて、その態度はないだろう。

 ……そりゃ、「挨拶代わり」とか言うわよ、外国では。親兄弟だって、年がら年中抱き合ったりキスしたりしてる。けどっ、ここは日本なんだからね。「男女七歳にして席を同じくせず」とか言われてたんだから、戦前は。

 どこまでも涼しげな横顔。上目遣いに見つめる私の目は、きっと怒りに燃えている。

 

 ――畜生っ! このまま済むとは思わないでよっ……!!! 弱みを握ってるからって、そんな鷹揚な態度に出られて大人しくしている私じゃないんだからね。

 

 ああ、大声で叫びたい。もういい加減、この状況をどうにかしたい。槇原樹につけ込まれてまだ2週間足らず。でも私は今までの人生に匹敵するくらいの視線を浴びて、もうへとへとだった。始終注目を浴びながらも平然としてる奴を見ていると、すぐに慣れるものなのかな〜とか思ったけど、この疲労感は蓄積していくばかり。

 どうせ、他人は私を助けてくれない。いつでも困難にはひとりで立ち向かわなくっちゃ。

 

「じゃあ、また明日の朝。いつもの時間に」

 改札口を抜けると、向かうホームが別なんだな。学区から何から接点のないふたりなんだと思う。最初の頃は、その気もないんだろうけど「家まで送るよ」なんてしつこく言われた。断り続けていたらいつのまにか別れ際のその台詞が消えている。

 当たり前の灰色な階段下、耳元で囁かれる今日最後の肉声。ふうっと頬をすり抜ける吐息。男子って体臭が強いとか言うけど、コイツのは何というか……柑橘系のお茶の匂いなのよね。最初はコロンなのかなって思ったけど、そうじゃないみたい。

 

 視界から奴が消えた後も、私の頬の痙攣は治まらなかった。 

 


「樹くんっ、おはようっ!」

 翌朝。改札を駆け抜けて、定期入れを上着の内ポケットに突っ込みつつ。満面の笑みを浮かべながら、そう叫んだ。

 その時の槇原樹の表情はちょっと見物だったわよ。きっと私が今この場でいきなりひょっとこ踊りを始めたとしても、これほどは反応ないだろう。耳からヘッドフォンを抜き取りつつ、きょとんとした目でこちらを見る。

「あのね、今日は早起き出来たから樹くんの分もお弁当を作ったの。頑張ったから、いっぱい食べてね!」

 少し前ならこの台詞とはかけ離れた外見をしていた私も今は違う。西の杜の制服がぴったり来るような髪型、目立たないように整えた眉とくるんとカールしたまつげ。薄く引いた色つきのリップ。鞄だって、みんなが持っているようなチェックの可愛いのに変えたんだ。それまでは中学からの真っ黒な学生鞄だったんだけどね。

 

 私のことを目にかけてくれていた生徒指導の先生がこの変化をどのように受け止めるかは怖かった。

 教師も生徒もみんなみんなよそ行きの顔をしている西の杜の中で、その体育会系の教師だけが違っていた気がする。廊下ですれ違うたびに気軽に声を掛けてくれてたし。きっときちんとした服装の地味な生徒が好きなんだと思っていた。

 けど、中間の後廊下でばったり出くわしたその先生は、私が予想していたのとは全然違う態度を取った。

「いやあ、小杉。やったじゃないか。お前ならいつかやると思っていたんだよ……俺の見立ては正しかったなあ」

 古めかしい言葉で言えば「あばずれ」の格好になった私など気にもとめてないみたい。彼だけじゃない、他の教師だって今までは授業で分からないところを質問しに行っても「誰だ、コイツ」って顔していたのが、いきなり「おや、小杉。どうしたんだ?」なんて、向こうから声を掛けてくるの。

 レベルの高い学校ではいわゆる「不良」って呼ばれるのは、服装や態度の悪い生徒じゃなくて成績の悪い奴だって言われているけど……本当にそうだったんだな。

 こう言うのも中学の頃とは全然違う。まあ、西の杜の人たちは「着崩す」とは言っても目に余る程じゃないけどね。制服が綺麗に見えるギリギリのおしゃれを楽しんでいるって感じだ。そういうバランスの取り方がすごいなと思う。あくまでも忙しい日常の中でのエッセンスみたいなもの。自分たちの「本業」は何かをきちんとわきまえてる。

 ――そう言えば、自習時間に教室がしーんとしてみんなしっかりと勉強してる風景もここに来て初めて見たわ。ああいう時って羽目を外して騒ぎすぎて、隣のクラスで授業している教師に怒鳴り込まれるものじゃなかったっけ?

 

「えへ、お昼が楽しみになったでしょ?」

 つま先立ちになって奴の顔を覗き込むときの首の角度は、昨日の晩に必死で研究した。左の頬だけにすごく控えめに出来るえくぼ。それが頬に掛かるカールした髪の下から、ちらっと見えるように。

「……どうした、転んで頭でも打ったか?」

 私がわざわざ周りに響き渡るほどの声でしゃべってるというのに、敵は初っぱなから耳元モードに入ってる。ふふ、驚いてるわね。そうよ、これくらいしてくれないと頑張った甲斐がないわ。

「え〜? 私はいつも通りでしょ。ね、早く行かないと遅れちゃうよ?」
 鞄を持ち替えて、右手を差し出す。そして、ぼんやりしたままの彼の左手を自分から握りしめた。

「そう……だな」

 一瞬遅れて、スイッチが入ったみたいに。彼は口の中でもごもごとそんな風に言う。でも、次の瞬間に鮮やかに瞳の色が変わった。握り返された手のひらが、ぎりりと熱を帯びる。いつものように勝ち気な口元がきっぱりと言い放つ。

「行こうか、薫子」

 気が付いたら、いつの間にか私の方が引っ張られる立場になっていた。

 


「へえ、見た目よりも味ってやつだな」

 黒いランチボックスとそれにくっついてるお箸は兄が使っていたものだったけど、そんな使い古しですら手にする人間で上等な品に見えるものね。いつも彼はパンばかりのお昼ご飯だったから知らなかった。想像していたよりずっとお箸の持ち方が上手。っていうか、もう食事のマナーは完璧かも。
 いくら綺麗に着飾ったタレントでも旅行番組とかでお箸をとんでもない持ち方してると、それだけで幻滅する。顔やスタイルはいくらでも人の手を加えられるけど、一番基本の衣食住はどうしても「育ち」が出てしまうんだ。パーフェクトな人間って、どこまでも崩れないんだなあ。

「そんなこと、言わないで〜。どんどん食べてね、デザートだってあるんだから」

 飲み物からお手ふきまで、きちんと用意した。真夜中の思いつきだったから心配したけど、それなりに冷蔵庫の中は潤っていたし。まあ、自分としてはまあまあの出来映えだったと思う。私は自分のお弁当箱は脇に置いたまま、ピックを突き刺したリンゴやオレンジの入ったケースを差し出す。

 もしかしたら、その辺の植え込みにギャラリーが潜んでいるかも。そんなことも計算済みだ。

「――68点、ってとこかな?」

 もごもごと動かしていた口元が止まってから、槇原樹はぽつりと呟いた。もちろん、あまり響かない低い声のバージョンで。

「……え?」
 いきなり点数が出てくるから、驚いてしまう。68? 68点……? 何よそれ、何かすごい微妙な数値じゃない。やっぱり必死に作ったコロッケが爆発して、仕方なくレンジでチンの冷凍食品で代用したのがばれたかしら……?

 頭の中で色々考えつつ、次の言葉を模索する。うう、難しい。賢い女は切り返しも上手くないと駄目なのに……!

「馬鹿、弁当じゃないってば。お前のその、腰が抜けるくらい下手な演技の点数」

 思わず顔を上げて、目の前の男をまじまじと見つめてしまったじゃないの。完璧なまでに勝ち誇った笑顔ときんぴらゴボウの豚肉巻きがアンバランスだ。

「なっ……、何のことっ!? 嫌だわ、樹くんっ! 変なことを言わないで」

 うわあ、いくら経ってもこの距離には慣れない。じっと見つめないでよっ……、冷や汗が出るじゃないのっ! ただですら、この男に慣れない「くん」なんて付けてるのが鳥肌ものなのよ。でもでもっ、やり過ごさなくちゃ。

「私も意地を張るのはやめたのよ、自分に素直になることにしたの。……これからは樹くんに気に入ってもらえるように、努力するんだから」

 どろりと背中を汗が流れる気配。必死に考えてあった台詞なのに、どうして舌がもつれるのかしら。

「ふうん、……そう」

 上手くもなく不味くもなくと言った感じで、奴はお弁当の残りを平らげた。あら、意外。ご飯粒のひとつも残ってない。すごい綺麗に食べるんだなあ。

 そんなことに感心していたら、芝生に付いていた手の甲がふわっと温かくなった。

「……っ!」

 いつの間にか息が掛かるくらいそばに寄られている。ええっ、ほんの一瞬前には私たちの間にはお弁当箱を三つ広げただけの距離があったはず。ど、どういうこと? 忍者じゃないんだから、勘弁してよ……! まさか服部半蔵の子孫とか言わないでしょうね?

「ふふふ、薫子、昨日の『ご褒美』で相当参っちまったんだな。お前も当たり前に女だったんだな〜、そうか何でも言うこと聞くから、もっとすごいのしてくれって? ……いや、キスじゃ足りないかな。ふたりっきりになれる秘密の場所で、この上なく親密な関係になりたいとか……?」

 

 ――きっ、きゃあぁぁぁぁっ!? ま、待ってっ! 息が、息が掛かるんだけどっ! 耳元、くすぐらないでよ。……じんじんするぅ……!

 私は必死で身体をよじった。ええと、やってることは本当に大したことないはずなの。遠目からだったら、そっと寄り添っているようにしか見えないと思う。でもっ、違うのよ。体温とか、吐息とか。目には見えないもので捕らえられている。冗談じゃないわよ、ここは学校だよっ。しかも白昼堂々でしょ……!?

 

 思わず、ぎゅっと目を閉じたら。次の瞬間に、くすくすと笑い声。いつの間にか身体の半分を覆い尽くしていた熱気も消えた。

「馬鹿な奴だな。そんな風に俺がすぐに騙されると思ったのかよ? 人をコケにするのもいい加減にしろよな、三文役者みたいなナリで良くもまあ恥ずかしげもなく」

 ほら、早くしないと予鈴が鳴るぞって言わんばかりに、私のお弁当の包みを差し出す。受け取ると、朝詰めたままのずしっとした重み。かいがいしく彼氏に世話を焼く献身的な彼女でいた私は、とても自分の食事までに頭が回らなかったのだ。

「ま、努力は認めよう。どうせ、自主性のない女を演じて俺に嫌われるように仕向けたかったんだろ? それくらい、猿でも分かるぜ」

 そう言いながらオレンジの皮を剥く指先は、やっぱり綺麗だった。

 


 受け取ったお金で、すぐに馴染みのビーズショップに行った。

 天然石のコーナーはいつも見るだけだったんだけど、ちょっと奮発したんだ。無駄遣いは絶対に出来ないって思っていた。でも、これは私の作ったアクセサリーが売れたお金。自由にしてもいいはずだ。 

 これからの季節にぴったりな若草色の石をいくつか選ぶ。頭の中に浮かんだモチーフを早くかたちにしたくて、予習復習もぱぱっと終わらせて机の上に買ってきたものを広げた。

 

 ――で、石を透明なテグスに通しながら考える。

 どうしたら、槇原樹が私に愛想を尽かすだろう? こんな女、もう嫌だって思われるにはどうしたらいいのだろう。普通は素っ気ない態度を取っていれば、脈がないと思ってくれるだろう。でも奴の場合は特殊だ。こちらが嫌がれば嫌がるほど、喜んで突っかかってくる。反応を楽しんでいるみたいに。

 付き合う相手はみんな超一級品。それなのに、長続きしない。そのすっきりとした笑顔の隣を歩く顔がどんどん入れ替わる。……きっと飽きっぽいに違いない。奴が「やだな」って思うのはどんな瞬間なんだろう?

 ころころした天然石。加工したガラスビーズとは違って、ひとつひとつが違った味わいを持っている。女の子だって、そうでしょう? 似ているように見えても、みんなそれぞれに異なった輝きがあるはず。なのに、どうして槇原樹の前ではその彼女たちがそっくり同じになってしまうんだろうか。

 みんながもてはやすカリスマ的存在。でも私は全然魅力を感じなかった。確かに格好いいと思うし、全てに置いて優れていることは認める。けど、……なんて言うのかな。ぐっと引きつけるものがないんだもん。

 

 そう……思っていた。こんな風に、すごく近くになるまでは。

 

 何かね、変なの。奴の周囲には周波数の違う電波がたくさん流れ出ている。そして周りの人間たちの心を引き寄せてしまう。いつの間にか巻き込まれていく。

 あのとんでもない行動だって、そうだ。

 生々しいとか、直前に食べたラーメンの匂いがするとか、言うじゃない。実際、少女漫画のようにはロマンチックじゃないんだって、キスシーンなんて。こんな……、こんな。季節外れの雪のひとひらが淡く舞い降りたような感覚があるわけない。

 言えなかったよ、あのシーンを思い出すたびに「びっくり」よりも「うっとり」が上回ってきたことなんて。それこそ、奴の思うツボじゃない、冗談じゃないわ。女の子を夢中にさせる術なんて、デフォルトで身に付けているはず。きっと無意識のうちに心を鷲づかみに出来るんだ。

 計算され尽くしている、このままだとやばいことになる。きっと私は、自分の意志とは関係のないところであんな男に振り回されて、挙げ句に崖の上から突き落とされるように捨てられるんだ。――やだ、そんなのは絶対に嫌。そこまで情けなくはなりたくない。

 

 だから……、嫌われる女になる方法を考えたのだ、必死に。けど、さすがの槇原樹。私如きの付け焼き刃な思考では、とても太刀打ち出来る相手ではなかったんだな。

 


「ま、……いいだろう?」

 それきり、私がお弁当を食べ終えるまで黙りこくっていた男が、深い溜息とともにそう切り出す。

「お前、解放してやってもいいぞ。だけど、それにはひとつ条件があるけどな。それがクリア出来たら考えてやってもいいかな?」



 

2004年9月10日更新

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