「……なんだよ、つまらなそうな顔をして」 槇原樹が私にぴったり寄り添って歩くのには訳がある。何故かと言えば、そうしないと毒々しい言葉が吐けないのだ。奴は私にしか聞き取れないほどの声で、ぎりりと手綱を握る。 翌日、放課後。やはりコイツが隣にいた。
「彼女」というのは、「彼氏」の用事や部活が終わるまで待っているのが当然なんだとのたまう。ええ、もう。そりゃあ、偉そうな口調で。 でもね。 そんな風に真剣に自分のことに取り組んでいても、どうしても周囲のひそひそ声は耳に届いてくる。
「えええ、あれがそうなの? マジ〜?」 「全然普通じゃない、どうしちゃったんだろう……樹くん、熱でも出たのかな?」
注目されるのは、何も登下校の時だけではなかった。学校の中にいても、始終視線を感じている。何とも落ち着かなくて、イライラし通しだ。 こんな状況をこの先も続けていたら、いつか発狂してしまうんじゃないだろうか。とんでもない要求を突きつけられてから丸一日、私はもう全神経をすり減らしていた。ヒットポイントは果てしなくゼロに近くなっていた。
出来ることなら、本当に昨日の全てが夢だったらいいのにと願ったわ。 だけど冷蔵庫の中には、昨晩どんなに頑張っても食べきれなかった「アップルトルテ」がぎゅうぎゅう詰まっている。見た瞬間に朝から胸焼けがした。 登校時も気が重い。家を一歩出た瞬間から、なにやらとげとげしい視線は感じるし、ついでに短く切られたスカートで足元はスースーするし。とても「自意識過剰」という言葉で片づけられるレベルじゃないと思う。ひとつひとつの出来事がまるで「嘘じゃないよ〜、本当だよ〜」と私に囁いているみたいだ。 並の神経なら「ちょっと頭痛が……」とか寝込んでしまうだろうけど、それが出来ないのは「西の杜」の恐ろしさ。ああ、1日休んだら、どれくらい授業が進んでしまうか知れない。
――で。 駅の改札を抜けたところで、足が急ブレーキを掛けて止まった。だって、いたんだもん。それまでも「何時出てくるか」と春先のゴキブリのように恐れていた「奴」が、こともあろうに出口付近で一番目立つ掲示板の柱のところに。 ラフに崩しているように見えて、実は計算し尽くしてるとしか思えない立ち姿。持て余し気味の長い足でリズムなんて取っちゃって。手には携帯、耳にはヘッドフォン。何か音楽でも聴いているのかしら? 時々画面を覗きながら、ふふふっと笑う。昨日私から取り上げたままの眼鏡をちゃんと掛けてるのもわざとらしい。 西の杜の制服は、袖を通すだけでワンランク人間が上がったように見えると言うのは周知の事実。 多分、誰もが知る地元の超名門に通っているという自信が内面から溢れているのだろう。だから電車がホームに着くたびに、改札口からどわーっと吐き出されてくる生徒たちはみんな輝いている。そのキラキラが帯となって進んでいく駅前通りは別名「ラベンダー・ストリート」と呼ばれているんだ。 ……でもなあ、違うんだな。 その誰よりも、とびっきりに制服を着こなしているのが私の視線の先にいる人物だ。憎ったらしいと思うけど、事実は認めなければならない。
どうにかして、気付かれずに通り過ぎる方法はないものか。何故この駅には改札がひとつしかないの。今から北口の方を遠回りしていたら完全に遅刻だし……。 そう思いながら、出来る限り「奴」から離れた場所をこそこそと歩いた。どうにか柱の位置を通り過ぎ、ロータリーに辿り着く。だが、ホッとしたのもつかの間。 「ああっ! 薫子ちゃ〜んっ! おはようっ、待っていたんだよ。ひどいなあ、全然気付いてくれないなんて」 ――そう、彼は素晴らしく通る声の持ち主なのだ。まるで拡声器を使ったかのように、360度ビンビンに響き渡る。もちろん、私の前方の50メートルくらいを歩いていた生徒までが振り向いた。 「僕さ、今日は嬉しくてすごく早起きしちゃって。君のこと、ず〜っと待ってたんだよ。一時間も立ちんぼしてたんだから、もう足は棒みたいになったよ」 今の台詞、「嬉しくて」と「一時間」に無駄にアクセントが付いていた。 スピーチと言うのは不思議なもので、全部の言葉をしっかりとしゃべると逆に聞き取りにくくなる。日本の政治家はそうでもないけど、アメリカの大統領選挙とかの演説をTVで見るとすごくよく分かる。強調するところをしっかりと、そのほかの部分は流れるようにするのがコツなんだ。 いかに自分がご大層なことをしたかと言うことを少なくとも半径50メートルに分布する人間に知らしめて、奴はにっこりと微笑んだ。周りからは親愛を込めて私を見つめてるように見えるんだろう、しかし角度を変えれば「してやったり」の勝ち誇った笑い。当然のように手を繋いでくるんだから、もうさらに注目が集まる。 見られていることをしっかりと意識してるんだろう。人なつっこい笑顔で私の顔を覗き込む仕草までがブラウン管の中の俳優のように白々しい。うわ、うわぁ、前髪がくっつくくらい、近くに来ないでよっ……! 「……ボケ。人のことシカトするんじゃねーよ」 耳元で囁かれたのは、私だけが知っている冷たくて低い声だった。
天下の槇原樹を1時間も待たせたデリカシーのない女として、私はすっかり有名になってしまった。誰も待っていろなんて頼んだ覚えはない、約束だってしてないのに。周囲の人たちは勝手に誤解してくれるじゃないの。わざわざあんなに目立つところで……! はめられたとしか思えない。
「変だよな〜、もしかして小杉さんって不感症? こんないい男が傍にいたら、嬉しくて嬉しくて知らない間に頬が緩んじゃっても当然なのに。そんな風に我慢すると、身体に毒だと思うよ? 人間、素直に生きないと、だんだん性格が歪んでくるんだからね」 ……いや、もう。あんたのせいでどんどん根性が歪んでいる最中なんですけど。っていうか、こんなに素晴らしい「お手本」を見せられたら、参考にするしかないじゃない。 ちらっと、一瞬だけ顔を上げた。ああっ、もう! やっぱり、口惜しいけど綺麗な顔だ。今の表情で私の言わんとすることは分かったはず。なのに、奴と来たら「ふうん」なんて鼻を鳴らしてる。 「ああ、前にもいたな。何人前の子だったかな〜? 確か茶道部のすごいおしとやかな純和風美人でね、親ももちろんお弟子さんをたくさん抱えてる名門の家。身のこなしとかも完璧で野郎どもの中にもファンが多かったんだよね。でも、その子は俺と連れだって歩くと途端にぼんやりしちゃって。何を話してもとんちんかんな答えしか返ってこなくて、どうしたのかと思ったんだ」 聞いてません、私は話してくれなんて言ってない。なのに、槇原樹は過ぎた恋の思い出を朗々と語りはじめる。 「……で。しばらくしてから、思いあまって聞いてみたんだ。そしたら、彼女は何て言ったと思う?」 私が乗り気じゃないのは分かっているんだろう。強引に会話に参加させようと、三つ編みを引っ張る。シャギーをビシバシに入れられて、自分で上手く結えなかったらどうしようかと思ったけど、コレがするするとすごく編みやすかった。あの恵里香って言うバレー部員は本当にすごいかも。 髪を引っ張られれば、もちろん痛い。だから「やめてくれ」って、抗議の視線を向けたつもり。そしたら、槇原樹は私をじーっと見つめて言うの。 「『樹くんとこうして一緒にいるだけで、夢を見てるみたいで。雲の上を歩いているように、自分が何処にいるか分からなくなるの……』、だと。いやあ、せっかくいつもとは違うタイプのことお近づきになれるかと思ったんだけど、上手くいかないもんだな。とうとう最後まで、彼女を現実の世界に戻すことが出来ないままだった……」 ふうっと、辛そうに溜息。俯いた額に、ふわふわと前髪が落ちた。 な、何っ!? その陳腐な話はっ!! 普通の男がコレをやったら、反射的に「ばっかでー!」と叫んでしまうだろう。でも、敵は「西の杜のアイドル」、嫌みなく決まってしまうのが恐ろしい。と、思ってるうちに、薄い唇の端がふふんとつり上がる。 「もしかして。……お前もそのタイプ? 俺の素晴らしさに、参っちまってるとか……?」
――じょ、冗談じゃないわよっ! 馬鹿もたいがいにしなさいよねっ……! こんな風に脅されて、断るに断れなくているのに、そんな心境になれたらその方がびっくりよ。 もう、髪が引きちぎれたって構わないわと言う感じで、私は強引に奴の手を振りほどいた。そして、ずんずんと先を急ぐ。 今日は「ちょっと、遠回りしてみようか」なんて言われて、線路の高架下の遊歩道にいた。一駅分歩いてしまおうというお手軽な逢い引きだわね。あまり人通りのない道に来ると、彼は途端に本性を現す。こう言うときこそ、どこかから学校関係者が出てきてくれないかと思うんだけど、まるでバリアーを張られているみたいに、人影がない。
頭の上で、時計塔が4時を告げた。 毎週木曜日は短縮授業になる。全学年が5限までで、部活も休みになっているところが多い。私にとっても、普段よりは少し早く戻れる憩いの日。こんな風に無駄な時間は過ごしたくないのに。 「……あ、やべ。タイムリミット」 多分、ぽつりと呟いた言葉だったんだろう。でも丁度、夕暮れの風に運ばれて、独り言が私の耳元に届く。何の気なしに振り向くと、彼はさっきの場所に立ったままポケットをごそごそしていた。少し困った顔を下後、何事もなかったように顔を上げる。 「俺、これで帰る。何かすっきりしたし、――あ、そうだ」 またもや、小憎たらしい台詞を吐いた後、奴は早足で私の側に寄ると、当然のように右手を差し出した。 「ちょっと、携帯貸して。自分の、学校に置いてきたみたいだ」
こんな時、どうするべきだと思う? 別に貸してやる義理なんてないんだよね。どこかに連絡取りたいなら、さっさと公衆電話でも探しなさいよ。この頃では設置場所が減ってきたとは言っても、駅まで戻ればあるでしょ? あんた、足が速いんだから、一気にスパートしなさいよ。 ――とかいいつつ、気が付いたらバッグから取り出していた。サンキュー、なんて鼻歌交じりに受け取るのが腹立たしい。
「へええ、イマドキ黒縁眼鏡なんてかしこまってるから、携帯も真っ黒かと思った。これ、新色じゃん。俺も欲しかったんだよ、メタリック・イエロー」 ちょっとねー、無駄口叩いているうちに早く返しなさいよね。彼はさっさと私に背を向けると、ひとりでばばばっと操作してる。 「ふふ、送信完了。コレで小杉さんのメアド、ゲットだな。あ、ちゃんと名前で登録しておいてよ? ま、それは捨てアドだから、何か悪用したらすぐに登録変更しちゃうけどね〜」 ……え? 何っ!? 何がどうしたのっ……??? 槇原樹は私に携帯を握らせると、ぱぱぱーっと忍者のような早足で遠のいていった。呆気にとられて見送った後に、確認する。あれ? 送信記録に見覚えのないアドレスが……。えええっ、何じゃコレ……!!!
『樹くん、だぁいすきv ずっとそばにいてね♪ か☆お☆る☆こ』
一分前の送信記録。――やられた。 思わず脱力。私はタイル模様の遊歩道の上に、へなへなと座り込んでしまった。
「届いてるんなら、返信しろよ。全く、フットワークの重い奴だな。せっかく親切に朝メールしてやったのにさ」 まるで朝露がキラキラと光る風景の如く、気持ちのいい笑顔で槇原樹の登場だ。対する私は、誰の目からも明らかなほど、瞼がぷっくりと腫れているに違いない。不本意な早起きをさせられた身にもなって欲しい。何しろ寝ぼけた頭だったから、電源をオフにすることも思いつかなかった。
『モーニンv 薫子』『起きて起きて、朝シャンしないと間に合わないよ?』『お肌の手入れを怠ると、10年後に泣きを見るぞ』『いい加減に起きないと、家まで押しかけるからな』 ……だんだん態度がでかく、口も悪くなってくる。目覚ましも起きないでいると徐々にグレードアップした音声になっていくもんだけど、メールの場合もそうなのか。 ちょっと待て、何であんたが家まで来るのよ。確か、家は反対方向のはず。そうじゃなくたって、また噂が広がったらどうするのよ。冗談じゃないわ……! 慌ててベッドから飛び出すと、速攻で身支度を整えた。どうせ三つ編みにしてしまうんだから、私には「朝シャン」なんて洒落込んだ習慣はない。つんつんと飛び跳ねた寝癖だけ、水を付けてなでつけてみた。
イライラしながら待っていたら、奴がやって来たのは何と45分後。 「うわ〜! 感激っ! そんなに僕に早く会いたかったんだねっ! 薫子ちゃんって、本当に健気で可愛いよ、……惚れ直してしまいそうだ」 またまた、公衆の面前で派手なリアクション。周囲の生徒たちの注目を浴びたことを感じ取ってから、さささっと私の脇を陣取る。その後は例の如くの「囁き攻撃」に突入だ。 「馬鹿、顔は洗いっぱなしじゃ駄目だろ。5月は紫外線が一年で一番強いんだからな? せめて日焼け止めくらい塗らなくてどうする。格好悪い真似して、俺に恥をかかせるなよな」 ……すご。 どうして何も塗ってないって分かるんだろう。化粧水とか乳液とかそう言うのを付けているかも知れないでしょ? いや、実際にはそんなご大層なことはしてないわけだけど、あっという間に言い当てられるのは胸くそ悪い。だったら、最初から、身だしなみのきちんとした人をチョイスしなさいよ。 「ま、慌てて手入れを始めたって、そう簡単に変われるはずもないけどな」 そんな風に悪態を付いたかと思うと、次の瞬間には私の携帯を手にしている。えええ、嘘でしょ? スカートのポケットに入れておいたのに……、信じられないっ!! こっちが叫ぶ間もなく、ぴこぴこっと操作して、すぐに戻してきた。あれ、悪魔のメッセージが全消去されてる……? 呆気にとられて、思わず奴の方を振り向いてた。そしたらまた、私にしか聞こえない周波数の電波を飛ばしてくる。何だろう、コイツもしかして、エイリアン?? 「お前は信用ならないからな、人のメールを兄貴やその仲間たちに売られちゃたまらない。――ま、そんな命知らずなことをするほどは間抜けじゃないと信じたいけど」
このひとことにはさすがにむかっと来た。……冗談じゃないわよ、馬鹿っ!
人が思いっきり睨み付けたのに、待ってましたとばかりに見つめ返してくる。口元にはいつも消えない微笑み、自信満々で誰にも負けないぞって言ってるみたいだと思う。腹立つ、本当に何が楽しくてこんなことをしてるんだろう……? 知らないのかしら、槇原樹は。いくら自分が悪いことをしてしまったと思っている子供だって、親や教師が執拗に責め立てれば意固地になるのよ? 私がそこらへんのガキと同じ精神レベルだとは思いたくないけど。 「あのねえ、ちょっとぉ――」 さすがに堪忍袋の緒が切れたぞ。弱みを握られてるのは分かっていたのに、その瞬間にぴきんと来た気がする。 「うわっ、何だよ! いきなり……!」 突然の奇襲攻撃には、さすがの腹黒男も驚いたらしい。 向き直った私が振り上げた手には携帯、それが落下点に入ったとき、彼はとっさに腕で自分の顔をかばった。朝の日差しをいっぱいに浴びたストラップ。絶妙のタイミングで、奴の上着袖のボタンに引っかかる。
ブチギレたのは、どうも私だけではなかったみたい。一瞬の間をおいて、ふたりの間に色とりどりの硝子玉が散らばっていった。
2004年8月13日更新 |