八時ちょうどに灯りが落ちて、それからまだ1時間くらいしか経過してないはず。夜はまだまだ続く。 目の前の男は、いつもに増してぺらぺらと良くしゃべる。暗闇の中で、ぺらんと剥がれた外皮。中から、半熟卵みたいな心が現れる。外向きの「アイドル」の顔と、私に対するふてぶてしい顔。そのどちらでもない、私の知らなかったもうひとりの彼。大人と子供が同居している、不安定な気持ちが見え隠れしてる。
「う……それは、その。だから」 ごめん、という言葉がなかなか出てこなくて、私はもごもごと口の中で繰り返した。言い過ぎたのは分かってる、だからこんな風にあてもなく探しまくったんじゃない。ものすごく口惜しかったの、でも誰に対して何に対してあんなに憤っていたのか、今ではもう思い出せない。 だけど、こんな考え方は根本的に間違っていたのかも知れないね。きっと、槇原樹は無理なんてしてないし、辛くもない。当たり前に行動してるだけで、あんな風になっちゃうんだ。 「だから、謝ることなんてないって言ってるだろ?」 そう言われちゃったら、もう駄目だよ。何か言う前に先回りされると、もう前には進めなくなる。私は無言のままで奴を見た。……微笑んでる、いつものように。 「最初はさ、『何言ってんだよ、コイツ』とか思ったんだけど……そのうち、なるほどねって。そうか、俺のこと『嫌い』って思う奴はちゃんと存在したんだなって、むしろホッとしたんだ。今まで、上手くいくことばかりで、正直気持ち悪い部分もあった。今は、すべてが解消された気分だよ」 ――よく分からない。どうして、「嫌い」と言われることで安心したりするの? 誰かに嫌われることはすごくショックだと思うよ。言われて当然のことだったとしても、面白くないはず。 心の中で言葉がいくつも浮かんで消える。何を伝えて何を隠したらいいのか、思いあぐねていた。そんな私に、目の前の男は「気にすんな」って笑顔で応える。それから、ふっと瞳の色が変わった。 「――あまり知られてない話なんだけど。俺さ、ガキの頃にちょっとした村八にされたことがあったんだよね」 驚いて目を見開いた私が楽しくて仕方ないというように、彼はまた喉の奥でくくくっと笑った。 「それまで何となくいつもつるんでたダチがいたんだけど、そいつがある朝突然に俺を無視し始めたんだ。もう突然、何の前触れもなく。あれはショックと言うよりも、ただただ狐につままれたような気分だったな。最初は何か原因があるに違いないって、それとなく探ったんだけどなしのつぶて。そして気が付いたら、俺の周りから人間がいなくなってた」 初めて耳にする話だった。小学校の6年生の時だったって言う。そのころ彼は地元の公立小学校に通っていたけど、そこでの出来事だったらしい。 相手は地元ではかなり名前の知れているチェーン店の息子。学校に文具とか備品とか卸している関係もあって、みんなから一目置かれていたという。だから、クラスの仲間も突然のその子の態度には驚いた様子だったけど、何となく雰囲気を察して表向きは槇原樹を避けるような感じになっていった。 「途中までは色々思い悩んだりしたけど、そのうちハッと気付いてね。もしかして、これは俺の超えるべき壁じゃないかって。今まですべてが上手く行きすぎていたから、この辺で一度くらい躓いて思い知らないと行けないのかも知れないなって思ったんだ。それまでも、出来る限り上手くやってるつもりでいたけど、きっと何かが足りないんだ。今回はそれを知るいい機会になるだろうって」 ……なんかすごすぎ。 こんな風に考えちゃう小学生っているの? やっぱり、コイツの思考回路って付いていけないわ。そりゃ、すべてがすべてするすると上手く行くばかりじゃなかっただろうとは思ってた。これだけ四六時中注目されているんだもん、目に見えたり見えなかったり、とにかく周囲の反発はあっただろうって。そうじゃなかったら、嘘っぽいもん。 「だけどさ……なんかね」 彼は何かを思い出したように、深く溜息をついた。長い指先、爪の部分に少しだけ外の明るさが灯る。 「クラスの他の奴ら、可笑しいんだよ。あいつの見てる前では俺のことを無視してるのに、いなくなった途端に態度が変わるんだ。そして口々に『お前は本当は悪くないのは分かってる、でも仕方ないんだ』とか言い訳してくる。正直そっちの方がよっぽど嫌だった。挙げ句に担任の教師までが俺の肩を持ちだして、もう滅茶苦茶。大きな水族館の魚の流れを眺めているみたいに、絶え間なく周囲の状況が動いている感じだった。 ああ、……そうかあ。そうだよね、同じクラスの人間しか知らなかったら、みんな自分の情けない話を口外するわけもない。小学生も高学年になると、親にも自分の失敗や情けない部分を隠すようになるから、そんな感じだったんだろうな。 教室の中での大事件は、外部に漏れることもなく当事者だけの胸の中にしまわれた。今頃は関わったほとんどのクラスメイトたちはとっくに忘れ去っているのかも。 「なんか、難しいね」 ぽつりとそう返していた。そりゃ、私も村八の経験はある。だけど、あれはそもそもの原因を自分自身が作り出したのが分かっていたし、煩わしい人間関係を断ち切ったことで受験勉強に専念できて良かったっていつの間にか納得してた。それに、奴のように「上手くやってやろう」って気負いが最初からなかったもん。「何が原因だったんだろう」って考えたら、他にも目に付くことは山のようにあったと思う。 槇原樹にとっては、気にしていないように見えてもかなりその時の一件が堪えているんだろう。私のように端からちょっと眺めていただけでも分かる学園内にも特定の仲の良い友達もいない感じだったし、かといってそれを苦にしている様子もなかった。深く関われば裏切られたときのダメージも大きいって……心のどこかでいつもセーブしていたのかな? きっと無意識のうちに。 「お前の存在が目障りになり始めてから、何となくあのときのことを思い出したりしてた。 まだ、それほどの昔の出来事じゃないよ? 最初に昼休みの中庭で遭遇してから、ほんの一月も経ってない。それなのに、奴のいい方はもう一昔も前の話みたいだ。穏やかな語りが、そう思わせているのだろうか。 「けどさ〜、お前って本当に変な奴なんだもの。今までの経験が少しも役に立たない、普通の女の子が色めきたって喜ぶような台詞をあっさり流したりして。これでも試行錯誤を重ねて改善を試みたんだけど、結局のところ、すべてが不発に終わった感じだな。今回ばっかりは、完敗だと思ったよ」 「そう……なの?」 何だか、意外。そんな風に考えていたなんて。 こっちは次から次へと繰り出されるマジックにすっかり惑わされていたんだよ。ものすごく優しいことを言われたかと思うと突き放されて。邪険にされたと思えば、包み込まれたりして。周囲の奇異の目だけでも堪えたけど、やっぱりここにいる張本人の一部始終に振り回されていた。 「すげー嫌々に付き合ってるのが分かってるから、わざと困らせようとして無理難題を押しつけたのに、あっさりと反撃に出るんだもんな。参るよ、全く。 ポケットの中、まだまだアイテムはぎゅうぎゅうに詰まっていたのだろうか? あとからあとから繰り広げられる新しい事柄に、私はもう何がどうなってるのか分からなかった。 「本当に……もう、何で俺がこんなに必死になってるんだよ。馬鹿らしくて仕方ない気分だ。だって、気が付いたら女の尻を必死で追いかけてるんだぞ、この槇原樹様が。そんなことがあっていいはずないじゃないか。情けなくていい加減にしろと自分に何度も言い聞かせてたら、とうとう決めの一撃だ。 くすくすくす。膝を抱えて、こらえきれない笑いをかみ殺してる。やっぱ、私担がれてるの? だって、話している内容とコイツの態度に全然接点がない。だいたい……話自体がちょっと間違ってるし。
――嘘よ、嘘。そんなはず、ないもん。何言ってんのよ、振り回されたのはこっちの方だよ。 そう思いながら、改めて自分の姿を確かめる。短くなったスカート、綺麗にかたちを整えてピンク色に染まったつやつやの爪。鏡がないから全体は確かめられないけど、頬の先、くるんくるんと踊る軽い髪の毛。クラスのみんなの会話の中で色々覚えたスキンケア、流行りのコロン。 「樹くんの彼女」なんだから、綺麗でないと恥ずかしいと思ってた。これ以上、影であれこれ言われるのは嫌だもん。素材の不備は仕方なくても、やれることはきちんとやって最良のコンディションでいようって。そうすれば、少しは自分の心を巣くってる劣等感から逃れられるかも。 でも、本当にそれだけだったんだろうか。
「お望み通り、解放してやるよ。これ以上頑張らせたら、とてつもなくヤバい方向に走りそうな気もするしな。……そのために、ここまで来たんだろ?」 奴は顔を上げた。首をゆっくりと回して、こちらを振り向く。浮かびがった頬の輪郭。まっすぐな瞳がふたつ並んでこちらを見つめているのを、暗がりに慣れてきた視界が捉えた。 これって、すごく有り難いことだよね。そうよ、そうに決まってる。兄の秘密を掴まれて、今まで逃げることも出来なかった。やっと、平穏な日々が帰ってくる。私にとっても何よりも望んでいたことのはず。……ううん、でも。こんなに中途半端なままでいいの? ああ、私。どうしてこんなに戸惑ってるんだろう。嬉しいはずの申し出に頷けないなんて。 「だけど、その前にひとつだけ。条件がクリアしてからだったからな。今の薫子なら、簡単に分かるだろ? 俺のことが『大嫌い』なお前なら、俺の出した問いかけの答えが。どうして、俺のことが嫌いなのか……表を返せば、どうすれば俺は嫌われずに済むのか分かるはず。それさえ分かれば、いいよ。もう、考えるのもかったるいんだ、あいつがあの日うやむやにした理由を教えてくれよ?」 ――きっと。長いこと、探し続けていたんだろう。 何だか見たこともないはずの彼の過去が浮かんでくるような気がした。あまりにも立派すぎる父親、反発しながらもそれを超えることの出来ない自分を嫌悪し続けていたに違いない。それなのに、ことあるごとに周囲はふたつの存在を較べたがる。頼れるものもないままに、ずっとさすらってきたんだ。そして、彼を解放する手段も、ただひとつ。 「あのさ、……ちょっと話はずれちゃうかも知れないけど」 言葉がまとまらなくて、まずは言い訳した。私は目の前の男のように、弁論の術に長けていない。聞き手に分かりやすいように話に惹き付けるようにするなんて、絶対に無理。口惜しいけど、それは真実。 「あんたは、マザコンとは違うと思うよ? そりゃ、初恋の人は千夏さんだったかも知れない。でもお母さんってすごく身近な存在だもん、とても素敵な人だったら憧れるのは普通のことだと思う。きっと……それよりもずっとこだわっていたのは……お父さんの方でしょ?」 そうよ、あんな素敵な女性。同性の私だって、憧れちゃう。ちっちゃい頃、まだ自分の世界が狭かった時にすぐそばにいたら、絶対的な存在になったって仕方ないと思う。問題はそこじゃない、違うところにあるはず。 けど。やっぱり、話がすっ飛びすぎたかな? 一度はマジになった彼の表情が、驚きの色に変化していく。そしてさらに、苦笑いに変わっていった。 「……なんだよそれ。はぐらかそうとしたって、そうはいかないからな」 首をすくめて、話を終わらせようとする。やっぱりそうね、嫌なんだよこの話題。こんなに似てるのに、本当に見た目は「ああ、槇原透さんの息子だ〜!」ってすぐに納得しちゃう位なのに、だからこそすごく嫌だったんだね。 「はっ、はぐらかしてるのはそっちでしょ? あのねえ、いつまでも逃げていたって始まらないんだよ。あんたは色々よく分かっているようでいて、自分のことはからきしじゃないの。さっきだって言ったじゃない、『まだ、届かない。それどころかもっと遠くなった気がする』……とか。その考え方が間違ってるってこと、どうして気付かないの? 「な……んだよ、それ。話、飛躍しすぎ。意味わかんないよ、全然」 こっちが必死に話してるのに、やっぱり要領の得ない返答が戻ってくる。まあ、仕方ないんだけど。私自身もきちんと考えをまとめている訳じゃないし。だけど、これだけは分かるの。いつまでもここの部分にこだわっていると上手くいかないんだよ。完璧であろうとしすぎるから、空回りするんだから。 ――もうちょっと、素直になりなよ……とか。ひねくれ者の私が言ったんじゃ、説得力ないかな? 「だから〜、透さんが千夏さんを得てあんなに素敵になったなら、あんたもこれから頑張ればいいんだよ。千夏さんみたいな女性を探すわけでもなくて、透さんのように振る舞うわけでもなくて、あんたはあんたなりのやり方で頑張ればいいんだよ。そうすれば、きっとすぐに手にはいると思う。
あああ、もう。何で、こんな風にしか言えないんだろ、私。 やっぱり根が体育会系なのかな? そう言えばコイツにもまだ言ってなかったけど、実はバレー部に誘われていたりするんだよね。とても私のレベルじゃレギュラー入りは難しいけど、何だかいいかなとか思い始めてる。
「ふふ、そうなの? ……本当に、薫子はそんな風に思ってくれてるのかな」 ようやく、奴が反応してそんな風に言ってくれたから、私は必死で頷いた。うんうん、大丈夫。なれるなれる、絶対に。だから、もうこんな風にひとりで傷を癒さないで。これじゃあ、誰も気付いてくれないよ。もっともっと、自分を解放しなくちゃ。 「じゃあ……何で、そんなすごい男のこと、薫子は『大嫌い』なのかな。今度はその理由を教えてくれる?」 微笑みを崩さないまま、でもまっすぐなよどみのない瞳が私に向かう。綺麗な目の色、視線をそらせなくなる。 「……え?」 まあ、核心を突かれたと言えばそこまでだ。彼の知りたいのはこれに尽きるのだから。だけど、悲しいかな今までなめらかに動いていた私の舌は、急に硬直してしまった。 「それは、その……」
どうしてだろう、何であのときにあんな言い方をしたんだろう。とにかく腹が立っていた、とてつもなく憤っていた。だから、もう全部ぶった切って終わりにしたかったんだ。……でも、何に? 私は何がそんなに気に入らなかったんだろう。目の前の男のことが? 明日美さんが? ……違う、きっと。そうじゃない。
「教えてよ、……いや、教えろ。これは命令だぞ。まだこの先、夜は長いんだからな。どんな手段を使ったって、吐かせてやる。痛い目に遭いたくなかったら、早めに素直になった方がいいぞ?」
2004年11月19日更新 |