見上げれば、黒と藍のまだら模様の空。泣き出しそうでどうにか持ちこたえてる感じに見える。生ぬるい風は闇の向こうから流れて、私の隣を音もなく通り過ぎていく。 フェンス越し。木々の隙間から見えるのは、闇に浮かぶ要塞みたいな異空間。防犯のためなのかな、クリスマスみたいにライトアップされてる。限られた人生の一部分だけを過ごす場所。静かな住宅街に続く道に、そこだけが明るい。
――別に、何の根拠があるわけでもないし、確信もない。
だけど、私が思いつく場所といったらひとつしかなかった。もう一カ所、学童をやっていたあの建物も一瞬よぎったけど、現在あそこは改装中だってことだし。もし、ここが駄目なら、潔く諦めよう。 昇降口真下の非常口。脇にバケツを三つ置いてある小さなドアだけが、いつでも開いているって教えて貰った。校舎内に遅くまで残ってることが多いって聞いたから。用務員さんが7時に施錠するはずなのに、その後はどうしてるのかなと思ってた。 アルミ製で、上半分がすりガラスの窓になっている入り口。シルバーのドアノブは、私を待っていたかのようにくるりと回転した。
こちらが声をかける前に、顔を上げた人がそう言う。天井から床まで、すっぽりと暗幕を張った壁。その隅っこに奴は座っていた。教室の照明は全部落としてあるから、廊下から差し込んでくる明るさだけしかない。 夜の学校って、初めてだったからどきどきした。教室の電気はどこも皆消えていて、まだ夜も8時前だっていうのにもう職員室にも特別室にも誰もいないみたいなの。そう言えば、明日に備えて早く下校するようにとか指導があった気もする。自分以外の足音は聞こえないし、まるで肝試しみたいだったよ。 目の前の奴の顔の左半分が、ぼんやりとした緑色のライトに浮かび上がった。素顔のままの道化師、口の端が少し上向く。 「良く出来てるなあ、飾り付け。他のクラスも一通り覗いてみたけど、これほど完璧なところはなかったぞ。すごいよな、ウチのクラスは。明日の本番が楽しみだな」 私の緊張した気持ちとは裏腹に、奴はどこまでも伸びやかな自然な声だった。 頭は働いているのに、何故か言葉が出てこない。ここに来るまで、色々考えて何度も戻ろうと思って、それでもどうにか自分を奮い立たせていた。なのに、今の私は扉の柱にかじりついたまま。だって、……想像してたのと違うんだもの。 「何か、忘れ物か? どうしたんだよ、突っ立ってないで中に入ればいいのに」 口元から白い歯がこぼれる。私に向けられたその笑顔は、いつもと全然変わらない。ここが昼間の明るい賑やかな教室だったとしても、全然違和感ないよ。こんな風にひとりで教室に籠もってるなんて、やってることは異常なのに、そう思わせないところがすごい。それにさ、いきなり現れた私にも全然驚いてないし。普通、もうちょっとリアクションがあるもんじゃないの? 「……友達の家に泊まるって、それ違うじゃない」 やっと、それだけ言葉になった。自分の心に渦巻いているのとはほど遠い憎まれ口。それを知ってか知らずか、彼は少し首をかしげるとふふっと笑った。 「何だ、わざわざ家に電話したのか。お前、余計なこととか言わなかっただろうな。……まあ、母親は少しも疑ってなかっただろ? 俺って、とにかく信頼されてるから」 何がそんなに可笑しいんだろう……? 自分の言葉に自分でうけて、くくくっと肩を震わせてる。私は近視だし、いくらコンタクトを入れていても、こういう薄暗い状況では視界がはっきりしない。もっと近くに寄らないと奴がどんな顔をしてるのかも微妙なんだ。あっちは、見えてるんだろうな。私の方が光源に近いし、視力もばっちりいいんだし。 心配してたのに、何だか気に病んでた自分が馬鹿みたいに思えてくる。何だぁ。やっぱたいしたことなかったじゃんって、ふてくされた心がそれでもホッとしてた。
――かくれんぼの結末。鬼の私の方がこんなに戸惑っていて、なんか情けないね。
「すげー顔、してる。だからいつも言ってるだろ? よく考えてから行動しろって。……あ、それとも」 一頻り笑った後、奴はぽつんとそう言う。 「少し堪えたかも知れない、って思ってた?」 向かって右手側の校庭に面した窓。指が入るくらいの隙間がある。確かペンキの臭いがきつすぎるからって、空けておいたんだ。そこから湿っぽい風が静かに流れ込んでくる。奴は静かにうつむくと、ふわりと浮き上がった前髪をかき上げた。 改めて、綺麗だなあとか思う。そう言う状況じゃないって分かってるのに。 言葉が浮かばない。ひとこと、ごめんって、それで本当にいいのかな……? もっと他に気の利いたひとことがあるのだろうか、それが分からない。口惜しい、きっと何を言っても適当にあしらわれちゃうんだろうな。 「別に。……お前に謝られることもないし」 奴はまるで私の心の中を覗いたようにそう告げると、傍らのコンビニ袋から缶コーヒーを取り出して置いた。
まあ、まだ今は宵の口と言ったところだけど……それに、けばけばしく飾り付けしたお祭り前の教室に、生ぬるい缶コーヒー。ついでに爪楊枝を刺したたこ焼きまで出てきたりして、ムードもなにもあったもんじゃない。でも、よく考えたら晩ご飯も食べてないし、空きっ腹だったことも確か。しばらくは無言でそれをつまんでいた。こんなことをしてる場合じゃないとは思うんだけど。 なんかさ……、いつもいつも気が付くとコイツのペースに乗せられている。頭の中で事前にごちゃごちゃと考えていたことが全く役に立たなくなって。聞きたいことも言いたいこともてんこ盛りにあったはずだよ、でもあまりにそれががちがちに心の中で固まって、訳分からなくなってる。 ああ、何してるんだろ、私。
「何か言いたいことでもあったんじゃないのか?」 合計6個の大きめのたこ焼きの皿が空になって。ようやく奴は口を開いた。 「黙っていたら、分からないだろ。それとも何か? 俺は天才だから、言わなくても分かるとか思ってるんじゃないだろうな」 私たちの間にあるのは、コーヒー缶がふたつと空っぽの発泡スチロールのお皿。これだけ近くに来れば、表情もはっきり読み取れる。さっきよりもだいぶ目が暗がりに慣れてきたし。顔を上げた私を見つめているのは、やっぱりいつもの奴の笑顔だった。人を見下したような語り口もそのまま。 「まあなあ。俺さ、自慢じゃないんだけど。相手が何をして欲しいのか、どうしたら喜ぶのかってことがだいたい分かるんだよな? それで、思いついた通りにすれば、そのまんま感激されてさ。そう言うのって、気分いいじゃないか。単にそんな感じだったんだけど……まあな、お前のような凡人から見れば神業に思えても仕方ないってことか。
……こっちこそ、驚いたわよ。あんまし平然としてるから。 あんたのお母さん・槇原千夏さんと少し会話して、もうじっとしてることなんて出来なかった。最悪の事態だって考えたんだから。……もう、馬鹿みたいだね。だから、コイツを自分と同じ思考回路の持ち主だって思っちゃ駄目だったのに。何度失敗しても懲りないんだから。
そう思って口にしたコーヒーは微糖だった。深い苦みの中にほんのりとした甘みが残る。普通にいれるならお砂糖は抜きなんだけど、何故か缶だとブラックはきついんだよな。あれ、と思って確かめると、奴の方はこの前と同じ黒いブラック缶だった。……もしかして、気付いてくれてたの? 確かめるように顔を上げたら、今の今までこちらの様子をのぞき込んでいた奴がまた、ふふって笑った。 「まさか、押しかけてくるとは思わなかった。お前って、やっぱ変わってるよな。今、自分がどんな状況に置かれているかも分かってないだろ? それとも、期待してたりする?」 振り向く間もなく、突然ぎゅっと手を掴まれた。 いくらすらりとした無駄のない体型だとは言っても、やはりここは高校生男子。想像していたよりもずっと指先の力が強い。これにはさすがにぎょっとした。だって、一瞬前には全然、そんな感じはなかったのに。 「しっ、……してないってばっ! 何考えてるのよ、馬鹿っ!!」 自分でもびっくりするくらい、身体が飛んだ。ばばばっと、あっという間に奴が3メートルくらい後方に遠ざかる。そっと様子をうかがうと、男はさっきと同じくつろいだ体勢でにやにやとこっちを見てる。 「ばーか、俺にだって選ぶ権利はあるの。まあ、お前がどうしてもって言うなら、可哀想だから頑張ってやってもいいけどな……どう?」 もう、思い切り。力の限り首を横に振っていた。奴は私のそんな反応を楽しむみたいに笑ってるけど、やっぱ用心に越したことはないわよね。後ろ手で確かめる。扉に続く柱がすぐそこにあった。 「え〜、もったいない。こんなチャンスは二度とないのにな。いいよ、帰りたきゃ帰れよ」 そう言いながら奴が自分の腕時計を見る。 「……もしも、今更それが出来るならな」 口元が妙に自信たっぷりに見えるなあとか思った。そして、その瞬間――。
――ぶつ。
廊下から伸びていた私の影が突然消えた。目の前が真っ暗になる。ち、ちょっと、どういうことっ!? びっくりして辺りを見渡すと……あれ、あれれ。廊下の照明が全部落ちてるっ……非常口の誘導灯まで点いてないけどっ……!! 「え……? 停電っ!?」 窓の隙間から差し込んでるのは校舎を照らしてる照明? でも暗がりの方が勝っていて、ほとんど何も見えない。どこにいるのか分からない男に叫ぶ。待って、何が起こってるのよっ……!? 「何うろたえてるんだよ、本当にお前は何も知らないんだな。ウチの学園のセキュリティーシステム、聞いたことない? 夜の8時ジャストになるとな、校舎内のほとんどの電気が全部止まって、その代わりに赤外線センサーの防犯装置が働くの。それくらい、常識だろ?」 平然とした声が、闇の向こうから聞こえてくる。何よ、それ。そんなの知らないわよっ! 「え……、嘘。だって……」 じゃあ、どうして非常口の鍵が開いてるのよ。それこそ「お入りください、泥棒さん」じゃないの。冗談じゃないわよ、そんなの信じられますかって。 「おっと、動くなよ。そこの扉には付いてるからな、センサーが」 戸口に手を伸ばしかけたの、どうして分かったの? 私はびくっとして、そのままの姿勢で固まってしまった。 「警報機が作動して、警備員が飛んできてみろ。お前、立派に犯罪者だぞ。忘れ物を取りに来たとか言い訳しても、絶対に学校側の印象は悪くなるだろうなあ……推薦目指してるんだろ? やばいじゃん」 くすくすって、どうしてそんな風に笑ってるの? だったら、あんただって同罪じゃない。こんな風に人っ子ひとりいない校舎にいてさ、見つかったらなんて申し開きするつもりだったの? 「あ、俺はな。最初から泊まるつもりだったから。遅くまで生徒会とかの仕事してたあと良くやるんだよ。それに面白いじゃん、完璧なシステムの裏をかくのって。そのために保健室から毛布とか拝借してきてあるし。いいじゃん、お前もここにいれば?」 こっちが訊ねる前に、あっさりと告げられる。何しろ、真っ暗になっただけでパニックなのよ、その上にそんなとんでもないことを言われたら、もう、どうしていいんだか。それに……。 「わ、私っ、そんな困るっ! 外泊なんて、したことないし。親に言い訳も付かないわよっ……!」 もう、泣きそう。ああ、こんなことなら、無理せずに明日にすれば良かった。 そうよ、家を出てくるときにはまだ親は帰ってなかった。でも、もう帰宅してる頃。きっと私がいないのを訝しんでいるだろう。今日は予備校とかもないし。このまま一晩戻らなかったら、それこそ警察沙汰だ。それはもっと困るじゃないのっ! 「ふうん、言い訳? そんなの簡単じゃんか」 闇の向こうの男はあっさりとそう言う。馬鹿、簡単な訳ないじゃない。私はあんたと違うんだからねっ!ああ、どうすればいいのよ。やっぱ、ここはやってきた警備員さんに正直に話して帰して貰うしか……。 「明日、文化祭だろ? その前日に友達の家に突然泊まることになったとか、そういうのってアリなんだよ。やってみろよ、上手くいくから。で、明日の朝に早く登校した振りすりゃオーケーだろ? 朝飯なんて、近くのコンビニで買えるよ。セキュリティーだって朝の6時になれば解除されるんだぜ?」
なんか、段取り良すぎじゃない? もしかして、前にもこんなことがあったとか……。そんな風に思っちゃうくらい、すらすらと説明される。だけど、そんなの上手くいくはずないじゃない。絶対無理だよ。 ……う、でもどうしたらいいの? 方法はいくつか考えられるけど、どれがベターが分からない。と、思ってたら。
「おい、お前のだろ? 携帯鳴ってるぞ」 闇の向こう、光の点滅が見える。そうか、鞄は奴のそばに置いてきたんだっけ。私は青緑の輝きに飛びついた。……うわ、お母さんだっ!! ど、どうしようっ! 心臓はばくばく、でもこうなったら、どうにでもなれ? 仕方なく、今聞いたばかりの話を棒読みのように告げる。ああ、この心音が伝わりませんように……! そしたら、呆気ないほど簡単に「なら、早く連絡してよね。心配するじゃない」なんて言われた。友達の名前も聞かないの、こんなのってアリ?
「……はぁ」 あっけなく電話は切れて、思わず脱力。本当、がくっと来た感じ。そしたら、すぐそばで、また笑い声がするの。やっと目が慣れてきた。奴の輪郭がぼんやりと見える。 「ふふ、お疲れ。本当に、冷や冷やさせるな、お前嘘付くのも下手だろ? あんまり真正直すぎても疲れるぞ。もっと上手くやれよな、ハゲるぞ」 そう言いながら、今度はミルクティーの500のペットが出てくる。一体どれくらい買い込んだんだろ、まさかふたり分を想定していた訳でもないだろうし。ああ、でも喉がカラカラ。やっぱ、有り難く頂こう。 ごくごくって、一気に半分くらい飲み干していた。気が付くと奴も隣でウーロン茶のペットを開けてる。ふうって、ビールを飲んだおじさんみたいに溜息ついて、それからゆっくりと膝の向きを変えた。 「ここんとこ、何かと寝不足だったし。今夜は雑音が聞こえないところで爆睡しようと思ってたんだよな。……なんか、目が覚めちまったじゃないか」 瞬きのたびに、まつげの先が揺れる。何度も何度も、この横顔を見てきた。未だに、こうして会話してることすら不思議な気がするけど。私って、何考えてたんだろ。どうしてコイツを突き崩そうなんて、出来もしないことをやろうとしてたのかな。
――傷つかないはず、ないと思った。 やっぱ、私が悪かったって。でも、謝る隙さえ与えてくれないんだよね。口惜しいな、本当。もう、嫌だな。コイツのそばにいるのは。どんどん自分が情けなくなってくる。西の杜の生徒たちは自信たっぷりで迷いがなくてそこが苦手だったけど、この男はその最たる者だ。 苦手なのに、嫌なのに、どうして心に引っかかったまま抜け落ちないんだろう。こんな風にしている自分が滑稽だって分かってるのに、何をしがみついてるの? 諦めなよ、もう。無理なんだよ、私には。
「薫子」 ずぶずぶと、劣等感に沈み込んでいきそうになる刹那、ふいに名前を呼ばれた。もしかして、ここに来て初めてかも。すごい久しぶりに聞いた気のする響き。 「お前、本気で人を好きになったことあるか?」 ……え? また、一体何を言い出すんだ。思いがけない問いかけはいつものことだけど、やっぱ驚かされる。 「そ、それくらいあるに決まってるでしょ? 馬鹿にしないで」 そうよ、あんな風に花から花へ飛び回る蝶々のように、色とりどりの女の子たちをとっかえひっかえ彼女にして。そんな奴に言われたくないわ。確かにきちんとした「彼氏」がいたことはないけど、憧れた相手だったら何人もいるもん。そう言うのもこの頃ではご無沙汰だったけどね。 「そんなこと言うあんたこそ、どうなのよ」 むっつりと睨み付けたのに、涼しい笑顔にかわされる。 いつもそう、だから嫌になる。振り回されるのはもうたくさん。だいたい、私はあんたの天敵なんでしょ、憎たらしい相手にちょっかい出さないでよ。それとも何? また人の失恋話でも聞いて笑い飛ばすつもりなの……? いいよ、もう。いい加減にしてよ。 「ふふ、そんなの当然だろ」 目の前の男はそう言った後、何か思い付いたように身を乗り出してきた。 「そうだ、……退屈ついでに教えてやろうか? 俺の初恋の相手。トップシークレットだぞ、高く売れたら今度こそ奢れよ? ――とは言っても、実のとこ、お前も良く知ってる人間なんだけどな」
2004年11月5日更新 |