たとえば。 当たり前の「明日」が必ず来るって信じていた頃。何の憂いもなかった楽しいだけの日々を過ごしていた頃の私だったら、人の言葉も何気ない優しさも素直に受け止めることが出来たと思う。
「もう、あんたの顔なんて見たくない」 ある日突然、そんなことを言われた。何の前触れもなく、本当に昨日までは普通に仲良くしていた子から。思わず振り向いて彼女の顔を見たら、私が期待していたような「今のは冗談」って言うおちゃらけた笑顔じゃなくて、かといって怒っているわけでもなくて。……そう、視界から嫌なものを排除するときの無表情だったんだ。 中二の二学期。それまで目の上のたんこぶだったひとつ上の三年生が引退して、いよいよ私たちが部活を引っ張っていくことになった。ひと学年が2クラスの小さな中学校だったから、二年生の部員は8人。校外試合をするにはギリギリのメンバーだった。 ……そう、だから彼女の言い分も分からないではない。せっかく仲間が一丸となって頑張っているときに、ひとりだけ離脱するのは「裏切り」的行為だ。こちらとしても後ろめたさはあったし、きっと今までみたいに仲良くは出来ないだろうなと諦めていた。 ――でもさあ、アレはショックだったわ。 彼女のひとことで、他の仲間たちもいきなり態度を豹変させた。きっとそれまではおなかの中に溜め込んでいて、ずっとくすぶっていたんだろう。ちょっとした衝撃で、全部が外側に溢れ出てしまったんだ。
あの時から、私は「裏切り者」。 バレー部の元仲間たちからシカトを決められただけでなく、気が付いたらクラスの中でも完全に孤立していた。「自分のことしか考えてない嫌な女」って、噂される。受験のことで担任の先生に相談に行けば「贔屓されてる」とか言われて、さらにとげとげしい視線を浴びせかけられた。 小学校の頃から仲良しで、だから一緒の部活を選んだ。部員のみんなもいい子ばかりで、毎日楽しくて仕方なかった。練習が終わった後、先生方の目を盗んで買い食いしたり、ブティック巡りをしたり。同じキーホルダーやアクセサリーを買ってお揃いにしたりしてた。今になってみると、いつでも集まってわいわいやっていただけのような気がする。でも、それで十分だった。
自分の周りの風景が突然、色を無くす。そんなことが本当にあったんだよね。 私はひとりぼっちでモノトーンの世界の中で過ごしていた。何もかもが虚しくて、つまらない日々。次第に無口になっていく娘に対し、何も知らない両親は「受験勉強に集中してきた」って喜んでた。
週明け、月曜日。 私を15分待たせた槇原樹は、いつもながらの甘いマスクをほんのりと笑顔でトッピングしてそう言った。 一応、世話を掛けたんだし。きちんと編み直したストラップを見せると、予想通りの反応。そんな肩越しを、登校中の面々がすり抜けてく。時折「わ〜、樹くんだ!」「今日も格好いいね〜」なんて囁き声が聞こえてきた。 ……ようするにさ。 この笑顔は「みんな」へのサービス。別に私に向けられたものじゃない。人目に付くところでだけ、さりげなく施される優しさも、その全ては「槇原樹」というブランドを保つための手段だ。裏側の奴を知っている私にはすごーく冷めた目で観察することが出来た。生物や地学の授業みたいにレポートをしたためるように頭の中で色んな単語が踊る。 生体実験のラットだと思えばいいのよ。下手に「可愛いなあ」とか情が湧いたりすると、解剖するのが辛くなるでしょ。だから、冷めた目で見てればいい。最初から期待するような存在じゃなくて、良かったなと思うわ。
週末の二日間。 四方八方から飛び交う視線からも逃れて、数日ぶりにゆったりとした気分で過ごすことが出来た。恐れていたのは兄が勢い込んで帰省してくることだったけど、何でも特別講義とか言うのが入っちゃったんだって。鼻水をすすり上げる音まで聞こえそうな、泣きのメールが来たわ。中間テストの勉強もあったわけだけど、その時間をさっ引いても少しはくつろげた。 ビーズを編むのは本当に久しぶり。 西の杜の高等部に入学してからは、とにかく忙しくて。すっかりご無沙汰してしまっていた。参考書やノートの上に道具を並べて、ひとつひとつテグスと呼ばれる透明な細い糸に通していく。単純な作業をしつつ、頭ではこの数日の怒濤のような日々が巡る。きちんきちんと編み込まれていく細かいパーツを見ているうちに、私の心も凪のように穏やかになっていった。 編み物でも、絵を描くことでも、何でもいいと思う。手仕事って、何だか落ち着ける気がする。細かい作業なんてあまり得意じゃないし、整理整頓とかもそれほど好きじゃないけど、思い切って「えいっ!」って始めちゃうと、とってもすっきりするんだな。 やっぱり。いきなりどどんと視界を占領するように現れた槇原樹のことがあれこれ思い起こされた。こうして何のしがらみもないときくらい忘れてもいいのに、それほどのインパクトだと言うことね。百聞は一見にしかず、とか言うじゃない? それと一緒だと思う。今までは近くにいても関わりのない存在だったから、あの辺が賑やかだなーって思う程度だったみたい。 注目を浴びるだけの存在ではあるわね。だって、何しろ360度、どっから見ても隙がない。 誰だって、気の抜けた顔になる瞬間ってあるはずなのに、奴にはそれがないんだな。「あ、課題のプリントを忘れた」なんて時にも、その慌て方が絵になると言う奇特さだ。「いやあ、困ったなあ……」ってさりげなく視線を投げかけられたら、普通の女子だったら喜んで「コピーしていいよ」って自分のプリントを差し出すだろう。 ――あ、間違っても。私はそんなことしないけど。勝手にすれば、って会話を終了させたわ。 そしたら、奴は教室に辿り着くなり、隣の席の子に借りてるのよ。で、何て言ったと思う? その子に。直接聞いた訳じゃないけど、もうあっという間に噂が広がっていた。 「薫子ちゃんの前だと、格好悪いところなんて見せられないんだ……」 とかなんとか、28度に小首をかしげて(この辺りの数値がどこから出てきたのかは、不明)恥ずかしそうに呟いたって言うじゃないのっ! まあ、こんなの序の口だけどね。兄に聞かせたら涙を流して喜びそうだけど、教えたくないなあ。 とにかく、普通の人間がやれば「馬鹿みたい」って鼻で笑われそうなことすら、演技派の俳優のように完璧に決めることが出来るらしい。これも「カリスマ夫婦」とか言われている両親や、私設ファンクラブがいくつもあるというふたりのお姉さんたちを見て育った末っ子の強みかしらね。
「薫子ちゃん、僕の彼女になりなよ」 そう言われたときは、どうしようかと思った。 こっちはしっかりと弱みを握られている訳なんだし、表向き「彼女」と称して、とんでもないことをさせられたら困るし。あの顔でいきなり人には言えないような趣味があるとかだったら、乙女の危機って奴? ……あ、そんなに詳しい訳じゃないんだけど、私も。何かものすごい世界があるんでしょ、大人って。 けど実際は、拍子抜けするほどに清く明るい男女交際だ。ううん、この程度じゃ小学生どころか幼稚園児レベルかも。 私たちがふたりで過ごすのは、駅から学校までの通学路を往復30分足らず。それからお弁当の時間くらいかな? なんかね、彼女って彼氏のお弁当を作るものらしいよ。試験前だからってことで逃げてるけどね。この上、早朝から人の弁当まで作らされたら気力も体力も尽きるというものよ。 人目に付きやすい時間をわざわざ選んで歩くわずかな道のりは、私を「彼女」だと周囲に認識させるための奴の腕の見せどころ。そのこだわりようったら、半端じゃないわ。 ほら、良くいるじゃない。 電車の中でも歩きながらでも、やたらとベタベタしている安っぽいカップル。ああいうのを見ると「ふん、そうやってるのも最初だけだよ。せいぜい楽しくやれば?」って冷めた気分になるわよね。正直、すごく頭悪そうだし。 さすがは「恋上手」な槇原樹、その辺は抜かりない。奴は全身で「彼女といる時間が楽しくてたまらない男」を、この上なく美しく表現するのだ。何かを訊ねられて、こちらが返答したときのリアクション。瞬時に色んなボタン操作が行われる精密機械みたいに完璧だ。喜んだり、驚いたり。ひとつひとつの仕草がとにかく自然で嫌みがない。
「薫子ちゃんに、こんな特技があるなんて知らなかったな。こういうのって手芸部のやること? 文化祭で作品展示したら、きっと人だかりが出来るよ。……ビーズなんて、小さな女の子のオモチャかと思ってたのに、こうやって眺めると本当に綺麗だ」 私たちの周りには、朝の瑞々しい日差しが溢れている。その輝きを吸収して、わずかばかりの硝子玉で作ったストラップも高級ジュエリーの輝きを放っていた。多分、手にしているコイツの微笑みも一役買ってるんだろうけどね。 何か、すごいなあと思う。だって、たとえば頑張って作ったものを褒めてもらえたら、誰だって嬉しいじゃない。出来はどうであれ、時間と手間が掛かってるんだから。 槇原樹の長くて綺麗な指は、大切そうに四つ葉のモチーフに触れる。 「そうそう、僕、初めて気付いたよ。こうやってハート形を根元をくっつけて四つ並べるとクローバーのかたちになるんだね。すごく単純なことだったんだけど、ああ、そうかって」 うわあ、少女趣味。 ……とか、普通は思わないんだろうな。「樹くんって、ロマンチスト!」って、素直に感動するのが当然。そして、奴はそれを知ってる。お姉ちゃんのいる男子ってオンナゴコロを掴むのが上手いって言うけど、本当にそんな感じだ。 「きっと、力作のコレクションが色々あるんでしょう? 見てみたいな。結構好きなんだよね、こういう綺麗なものを眺めるのって」 ―― 一番好きなのは、「綺麗なもの」じゃなくて「綺麗な自分」を眺めることなんじゃないの……? 見られている自分を意識するのが好きなんでしょ? とか突っ込んじゃ駄目? 「別に。他にはいくつもないわよ。期待されるようなものはないから」 もうすぐ校門だ。 ここまでは他の登校中の生徒たちとそれなりに間隔が開いていた。だから外野の人間たちは、私たちが楽しそうに会話してるその姿しか見ていなかったはず。でも、三つの方向から歩いてくる全ての人並みが一緒になったらそうもいかない。面倒だもん、もしもあれこれ訊ねられたら。 「色々作ったって、始末に困るだけだもん。ネックレスとかイヤリングとか作っても、私には似合いっこないし。それにビーズだって、そんなに安いものじゃないから。あれこれ作りたくなると、きついのよね」 まあね、ちょっとは嬉しかったわよ。こんな風に褒められたこと、ないから。……ううん、二人目かな、正確には。 「ふうん……そうなんだ」 そんな風に、寂しそうに溜息付いたって知らないわ。それも華麗なるパフォーマンスなんでしょう……? 「ビーズって、そんなに高いの?」 私はちらりと一瞥しただけで、その質問には答えなかった。多分、こんな会話のことなんて、放課後にはもう忘れ去られているはず。だからいいのよ。
そのころ、兄は出席日数ギリギリの高校生をしていたから、家の中はいつでもどんよりと薄暗い。夜になると「集会」に出掛けてしまう得体の知れない息子に両親はピリピリと神経をとがらせていた。……まあ、私はどんな集まりに行ってるのか見当付いてたけど、教えたらそれこそ卒倒しそうだし。そんな家に帰りたい子供はいないと思うんだ。 何気なく入った手芸店で、パッと目に付いたのが一本のストラップだった。シャワーのように薄緑の細いラインが幾重にも流れ落ちて、その先端に四つ葉のクローバーのモチーフが付いてる。揺れるたびに触れ合って、しゃらしゃらと音がするのもいいなと思った。 欲しいなって思って値段を聞いたら、想像していたよりもずっと高くてびっくり。その日の持ち合わせだけではとても足りなくて、後日出直すことで取り置きをお願いする。その時に親切に対応してくれたのが、ユカリさんだった。 「実はね、これは私が初めてお店で販売するオリジナルなの」 そのショップには何人かの店員さんがいたけど、ユカリさんは最近ビーズの講習を受けて売り場を任されたばかりだったと教えてくれた。その時のはにかんだ笑顔が忘れられない。他にもいくつか作品はあったけど、どれもセンスが良くてドキドキする出来映えだった。 でも程なくして。バッグの金具に引っかけて、解けなくなって。力一杯引っ張ったら、そのまま飾りがちぎれてしまった。その時は自分の部屋の中だったから、ビーズはだいたい拾うことが出来たけど、もう悲しくて。次の日、悩んだ末にユカリさんのいるショップに立ち寄った。 「あらあ、……じゃあ、薫子ちゃんに特別に編み方教えてあげる。時間掛かるけど、いいかな? ……初めてなんだよね、こう言うの」 自分のせっかく作ったものが壊れてしまったら、とってもがっかりするだろうなと思っていた。なのにユカリさんは全然そんな素振りを見せず、それどころか講習料もなしに私に作り方を順を追って説明してくれた。普通はお店できちんと材料を買わなかったら、そんなことはしないんだって。内緒だよ、って言ってた。 ユカリさんの作品に憧れたわけは、ビーズの色合わせにあるのかもと思った。身に付けてる服も髪型も、控えめなメイクもどれもすごく素敵。そんな彼女の人柄がそのままにじみ出たみたいな、素敵な色合いだった。ちょっと地味めな色遣いでも、ユカリさんが手がけるとすごくシックで垢抜けてる。こういうのってセンスが良くないと出来ないよなあと感心しきりだった。 かなり入り組んだ作り方だったので、少しの時間ではどうにもならず、何度もお店に通ってやっと元に戻った。 「良かったね。今度、お店でやっている講習会にも是非来てね。材料費にちょっと上乗せしたくらいで、受講出来るから。それに生徒さんもみんないい方ばかりで、きっと仲良くなれるわよ」 面倒なことをお願いしたのに、ユカリさんは嫌な顔ひとつせずに私に接してくれた。もしもユカリさんが先生なら、どんなに楽しい講習会だろう。暇を見つけて是非、参加してみたいと思った。
――でも。 私はその後、ショップに行かなくなった。だって、昇降口のところでわざと聞こえるように悪口を言われちゃったんだもん。 「薫子ってばさ、受験勉強するからとか言ってたくせに。……毎日のようにあそこのショップで遊んでいるらしいよ」 どうもクラスの誰かのお母さんがあのお店で働いていたらしい。運が悪いこともあるもんだと思う。制服を見て自分の娘の同級生だって知って、家に戻って話したみたい。
そして、年が明けて。久しぶりにショップを訪れたとき、もうユカリさんはいなかった。 「結婚してね、ご主人の都合で地方に行っちゃったのよ」 それきり、もうユカリさんには会えなくて。思い出と言えば、これだけ。もう何年もつり下げっぱなしだからちょっと古めかしくなったけど、どうしても手放せなかった。
何となく一日どっぷりと感傷に浸って、気が付いたら放課後。ようやく立ち直った辺りで、また話を蒸し返された。 「お前さ、いつも教科書や参考書とにらめっこしていて楽しい? 眉間にくっきりと縦皺が寄ってるけど、知ってる? 眼鏡がなくなったら、目立つったらないぞ〜」 人目に付かないところに来ると、すぐにサラに戻る。それまでの柔らかいムードは何処へやら、悪ガキモードに変換だ。 うるさいなあ、もう放っておいてよ。これくらい素人芸だわ、誰でも出来るレベルじゃないの。多分、それを知っていて、からかってるんだわ。本当に嫌な性格っ! 二年生になって初めての定期試験はもう目の前。 消えない縦皺が何だって言うのよ、どうにかして平均点を取らなくちゃ、大変なことになるの。あんたみたいに、チャラチャラ遊んでいて点数が取れる人間には分からないでしょうよ。私はいつでも背水の陣なんだからね。 ……って、言い返すのも虚しいから、心の中で叫ぶ。そのまま、ずんずんとひとりで先に歩いていくと、尚も話を続けてくる。 「でさ、考えたんだけど……」 相手に何てしたくなかった。早く家に戻って、英単語のひとつも、公式のひとつも覚えたい。でも、槇原樹はそんな私をあざ笑うかのように、さらに爆弾発言をしてくれる。 「お前の作った奴、ウチの店に置いてみろよ。小遣い稼ぎにくらいはなると思うぞ」 ――は? はあああああっ!? 冗談も休み休み言えと言っていい? なに馬鹿言ってるのよ、こんな独学でちょっとかじっただけのレベルで、お店に並べられるような売り物が作れるわけないでしょ。 思わず振り向いて、どんな顔が言ってるのかと見つめてしまった。思ってたよりもマジな顔でびっくりしたら、すぐににーっと意地悪く笑う。 「メイク道具はともかくとして、スキンケアくらいはどうにかしろよな。不規則な生活してるんだろ? そんな肌荒れ起こしてると、今に修正不可能な月面と化しても知らないぞ」
……結局、それが言いたかったのか。
元の通り、前に向き直ると、おあつらえ向きにあかあかと燃える夕焼け。街全体が、私の怒りの色に染まっているのかと思えば、ちょっとだけ気が晴れた。
2004年8月28日更新 |