scene 2 …


 

 

 ――来るなんて、思ってもみなかった。
 会場である田舎では唯一の宴会施設に足を踏み入れた途端、私の歩みは止まった。
  無理矢理に世話焼きのクラスメイトに誘われた同窓会。何でも中学卒業の十年目に当たるから大々的にやることにしたんだって。学年合同。来なけりゃ、良かった…そう思った時、あいつの姿は人混みの中に紛れて見えなくなっていた。 

 一次会で帰るつもりだったのに。気がついたら流れに乗ってしまった。二十五歳ともなると田舎町の女子は半分が既婚で。そうなると絶対的に男女の比率が悪くなるのだ。終電の時間を気にしながら、私は空いていたカウンターに座った。
「やあ」
 隣りの男が振り向いた瞬間、思わず腰を浮かせかける。なんたる偶然、どういうことなの。
「ご無沙汰してます」
 ざっと店内を見渡したが、狭いバーの席はほとんどが満杯。男子が四人五人でたむろっているソファー席にはきっと大歓迎させるだろうけど、付き合う気力がない。だいたい、本当はこんな人混み、来たって何の意味があるというの。私は意を決して能面になって、座りたくない席に腰掛けた。
「ご無沙汰って……琴(こと)、そう言う言い方はないんじゃないか?」
 そう言いつつ、彼は空のグラスを貰ってくれて、バドワイザーを注いだ。白い泡が黄金色の液体の上にもこもこと盛り上がっていく。流れるような一連の仕草の中で、彼はあの頃と同じように淡く微笑んでいた。
  ―― 相変わらず、よく分からない奴。
  乾杯をしようとグラスを差し出した彼を無視して、私は一気に飲み干した。喉の奥がひりひりと痛くなる。おいしいとは思えない味だ。
「だって、こういう言い方しか出来ないわ」
 ぐぐっと腕を伸ばしてグラスに入っていたポッキーを一本取る。こういうところのおつまみは高い。アポロチョコが宝石のようにお皿に数粒並んで五百円とか言う値段が付いてる。このポッキーだって、一本がいくらするんだか。まあいいや、それくらいのことでうるさく言わなくても。
「……何よ」
 にやにや笑いながら眺められていると何とも落ち着かない。私は膝を組みかえると、ついっと横を向いて携帯を取り出した。電源を入れて確かめる。着信なんてひとつもない。こんな薄暗い場所でメールを打つのも面倒だ。
「いや」
 彼の方はタバコを取り出すと、火を付ける。私にかからないように、上を向いてふーっと吐き出す。変わってないラークマイルドだ。白い地にえんじ色のライン。
「相変わらず、良く食うなと思ってさ」
  ―― 失礼な奴っ!! んもう、信じらんないっ!
「悪かったわねっ! 一次会ではお幸せな同級生たちの身の上話に聞き惚れておりましてね、お料理が並んでいても食べる暇がなかったのよ。このまま東京に戻るんだから、電車の中でひからびないようにしなくちゃ」
  私がふくれっ面でそう言うと、彼はすっと魔法のようにカナッペのお皿を置いてくれる。みんなおしゃべりとアルコールに夢中で、お箸の方は動かない。何だろうな、同窓会なんて名ばかりで、体のいい集団お見合い? 男子の目が怖いよ、もしかしてあいつら、彼女いない歴二十五年とか言わないでしょうね。
「へえ、戻るの? 実家には行かないで?」
 少なくとも、彼女いない歴が二十五年ではない男が私の顔をのぞき込む。
「面倒だもん、またせっつかれるだけだわ。近所の後輩がこの前、嫁に行ったのよ。もううっさいったら、ありゃしない」
「ふうん」
 聞いているんだか、聞いていないんだか分からない感じで、二本目のタバコを取る。長い指、また絆創膏を巻いてる。相変わらずドジなんだから。
「そういう『琴音さん』はどうなの? …その後のこと、ゆっくり聞かせてよ」
  彼の視線が最初から私の左手に集中していたことは知っていた。心のどこかで気にしていてくれることを何となく優越感を持って感じ取っていたのかも知れない。
  カウンターの下。いつの間にか絡んでくる指。振り払うことがどうしても出来なくなっていた。

 話をするんじゃなかったんだろうか?

 自分がここまでいい加減な人間だったのかと呆れてしまう。気がついた時には無表情に整えられたホテルの一室で肌を晒している自分がいた。照明を落とした薄暗い空間にふたつの肉体が浮かび上がる。
「……琴……」
 どれくらい飲んでるんだろう。私が知ってるよりも、ずっとかすれた声で彼が囁く。耳元に掛かる微かなアルコール臭。
「あっ……、いやっ!」
 知り尽くした身体を滑る手のひらは、私の感じる場所を的確に捉えてやわらかい熱を加える。羽の先で撫でられたような何とも言えない感覚に知らないウチに身体が反応する。汗ばんだ背中に腕を回してしがみついた。
「いや、じゃないでしょう? 気持ちいいんだったら、そう言わないと―― 」
 大きくのけぞったために露わになった私の首筋に、湿った唇が降るように落ちてくる。
「だめっ……、だってばっ……!」
 言葉のほとんどが息になる。意味を成さなくなる。そうなのかもしれない。千の言葉よりも安っぽいベッドのきしみの方が、今の状況を的確に表現してくれる。
  半年ぶりに受け入れる彼の起こす波に、飲まれていく私。現実と幻想が交差する。過去と未来が曖昧になる。
「どうする?」
 私の身体の準備が整ったことを確認して、彼の声が一段と甘さを増す。
「上になって、琴が自分で入れてくれる? こんなになってたら、きっと大丈夫だよ」
  ……なんか、違うよ。すごく意地悪。
  私はすごく哀しくなって、彼の下でいやいやと首を横に振った。前はこんなじゃなかった、もっと優しかったと思う。記憶の中で反芻した彼はいつでも紳士で…私にやわらかく接してくれた。情事の時でも。
  ううん、本当は気付いていた。彼が変わってしまったこと。数時間前に会場でひと目見た彼は、綺麗に日焼けしてどこか外国のリゾートのバカンスを楽しみました、という風貌だった。身体も一回りがっしりしたみたいで。何かスポーツでも始めたのだろうか?
  この部屋に入って、鍵を閉めて。途端にそれまでの彼の静かな物腰が消えた。
  獲物に飛びつく猛獣のように私に抱きつくと、情熱的に唇を奪う。唇が切れるほどの強さに喜びよりも不安を募らせていた。
 片手でしっかりと私を捕らえながら、もう一方の手は焦るようにネクタイをはぎ取り、シャツを脱ぐ。やがて現れた肩のラインに、声にならない悲鳴を上げていた。それだけじゃない、抱き上げられた時に感じた胸板の厚さも、以前のものじゃない。スーツもワンランク上のものになったみたいだし、髪型もおしゃれだ。田舎から出てきた頃とあまり変わらなかった半年前までの彼は完全に消えていた。
  新しい彼女がいるんだろうか? そうだろう、その気になれば出逢いの多い職場だ。彼がその気にさえなれば、彼の心を動かすだけの女性がいれば。
  いや、そんな風に言わないで。私の中のあなたを汚さないで。そう叫びたかったけど、声にならない。その代わりに涙が頬を伝った。
「琴、いくよ?」
 いつの間に準備を終えたのだろう。彼がすんなりと私の中を満たしていく。背筋を走る鋭い戦慄に、私は耐えきれず、身を起こして彼にしがみついた。ねっとりとした汗の匂いが昔と同じ彼を示している。触覚と、嗅覚と―― 聴覚と。そう言うものを研ぎ澄ませながら、彼を探す。目の前にいるはずの、あんまりに遠い彼を。
「ああ、琴っ……! 琴ォ……!!」
 激しい息づかい。身体がひとつに繋がったことで、彼の身体のわずかなきしみまでが伝わってくる。彼は私の身体を余すことなく吸い上げながら、何度も突きあげて来た。その強さに感情が負けそうになっていく…全てが飲まれていく。終わりのない迷宮。
「あっ、……やっ!」
 目の前の全てが真っ白くなって弾ける。その瞬間に、強く強く抱きしめられた。

「どこに行くの…?」
  シャワーを浴びて、備え付けのドライヤーで髪を整えて、メイクも直して。元の通りにオフホワイトのスーツに身を包むと、背中から声がした。
「もう、電車はないでしょう」
  振り向いてみると。ベッドに横たわったままの彼がこっちを見ていた。先ほどまでの荒々しさがどこかに消え、元の通りの穏やかな瞳。まるで誘うように腕を伸ばすから、慌てて向き直った。まっすぐにドアを見つめる。
「携帯で調べたの。タクシーを三十分くらい走らせると、夜行の出る駅があるわ。時間的には余裕だし、それで帰る」
 一息でそれだけ告げるのが精一杯だった。
  私はすっと立ち上がると、ソファーの上に投げ出してあったバッグを手にする。そのままドアのところまで早足で歩く。膝丈のスカートから伸びた足が震えているのに気付くだろうか? 大丈夫、もうちょっとだから。あのドアを開いて、外に出るまで。
「待てよっ!!」
  その声が背中に届くのと、彼の腕が私を捕らえるのとどちらが早かったのだろう。
  後ろから感じる熱があまりに熱くて、スーツの上からでも身体が灼けそうになる。どくどくと激しく波打っているのが、彼の心臓の音なのだろうか。
「……離してっ……」
 必死でもがいたつもりだけど、もう身体に力が入らなかった。
「まだ、ちゃんと話を聞いてない」
 彼は私の身体の骨まで砕くほどに強い力で抱きしめてくる。
「どうして、勝手に出て行ったんだ。きちんと理由を話してくれるまで、絶対に帰さない」

◇◇◇

 雑居ビルの三階。表にあった看板を確認して、間取り図を見ながら進んできた。でも、いざとなると勇気が出ない。目の前に恥ずかしいくらいでかでかと書かれた白地にピンク色文字の立て看板がある。
『今村結婚相談所』
  こういうのって、もっと現代風なのかと思っていた。本屋さんで貰う厚紙で出来たチラシの広告を見ると、簡単なアンケートに答えるだけで100万通りの出逢いが待ってる、とか書いてあるじゃない。でも夕日に照らされた灰色のドアはそんなおしゃれなムードじゃない。怪しい金貸しか、興信所みたい。実際、隣りのドアは法律事務所だった。
  どうやって入るんだろう、ここ。
  磨りガラスの四角い窓から覗いても中の様子は見えない。何時までかとか営業時間は書いてなかったけど、まだ5時半だよ。ようやく会社が定時で上がる時刻で。これからのかき入れ時に、こんなにひっそりしているものなんだろうか。ドアの向こうに耳をそばだててみても、コトリと音もしないし。
  なんか、感じ悪。他を当たろうかな…。
  自分が臆病なだけなのに、色々と理由を並べ立ててしまう。相手が人間なら申し訳ないと思うが、築何十年にもなりそうな古めかしい建物ならあまり良心も痛まない。きびすを返して歩き出した時、がちゃっとドアが開いた。
「あれ?」
 ワイシャツの袖にスーツの上着を引っかけて、ネクタイ姿。普通のサラリーマン風の男性が顔を覗かせる。思わず振り向いてしまった私とばっちり目が合ってしまった。
「もしかして、お客さん、かな?」
 てろんとしたスーツを着込んだ普通のOL姿の私を見て、彼は営業用なのか親密な笑みを浮かべた。
「ええとね。いつもは午後8時まで営業してるんだけど、今日は金曜日でしょう? 都心のホテルで合同のパーティーを開くんだ。だから、今日はもう看板。社員も留守番の俺がひとりだけ残っていて―― 」
 私が何も反応しないのに、彼はひとりでぺらぺらとしゃべり、とても見えにくいところにあった「営業中」の札をひっくり返した。
「いいです、帰ります」
 何だか急に恥ずかしくなって、もうこれ以上ここにはいられないと思った。
「あ、待って」
 廊下を戻り始めた私を彼が引き留める。
「宜しかったら、お話だけでも伺いましょうか? 中へどうぞ」

 インスタントだけど、男の人がいれてくれたコーヒー。スティックのシュガーとコーヒーミルクを添えて差し出される。低めのソファーに案内された私は、どうしていいのか分からなくてずっと下を向いて黙っていた。
「冷めないうちに、飲んで」
 なにやら分厚いファイルを手にしながら、彼が何気ない感じで言った。
  せっかくいれて貰ったのだから、と一口飲む。その時、ふと気付いたことがあった。
「――小坂さんでしょ?」
「はい?」
 びっくりして、顔を上げていた。え? 何で…? どうして私の名前を呼ぶの?
「小坂……琴音さん、だよね? 三年D組の」
  きょとんとしたままの私に、彼は聞き覚えのある出身中学の名前と、卒業年度を告げた。でも、そこまで来てもまだ分からない。この人が誰なのか。
「俺、隣りのC組にいたんだけど。覚えてない? 理科の実験とか体育とか合同だったじゃない」
  その言葉にも、黙ったままで首を横に振るしかなかった。やだ、全然覚えがない。こんな人、いたっけ? もっとも私の通っていた中学は今時で男子が全員丸刈り。髪の毛の生えた顔なんて想像出来ないんだけど。
「そっか……」
 彼は頭を抱えると、何とも言えない照れ笑いをした。
「久々に、こんなところで同級生に会うからさ。懐かしくなって誘ったのに、小坂さんは全然他人の振りなんだもの。知っていて無視しているんだと思っていた」
「え……そんな」
 ああん、恥ずかしい。どうしたらいいの。元々人の顔を覚えるのが苦手で、今も職場で苦労してる。街で同級生に会っても、名前が出てきた試しがないんだけど。
  ただ。何て言うのかな? 彼の細めた目とか、ちょっと曖昧な輪郭とか。あか抜けきってないところが懐かしかった。短大進学のために東京に出てきて。ずっとひとり暮らしで。背伸びして綺麗に着飾ることしかしてこなかったから、こんな風に変わらない人がいることにホッとした。
「そりゃあね、君はとても綺麗になったから。ちょっと確信が持てないくらいだったけど…ええとね、最初の時にはこの用紙に記入して貰うんだ。ウチはコンピューターなんて使わないから、所長の独断と偏見で相手を見つけるんだよ。時々は親戚とか社員とかまで巻き込んでね。こっちまでとばっちりを受けるから、かなり困っているんだけど」
  そう言いながら、アンケート用紙みたいな紙をぺらっとかざす。でも私がそれを受け取る前に、すっと引っ込めてしまった。
「でもさ、小坂さんくらい綺麗だったら、何もこんなところに来ることないでしょ? ここは良心的だけど、それでもだいぶ料金がかかるよ? 男性会員も三十代が多いし…まだ、二十二、三でしょ、焦ることないじゃない」
  この人って、営業する気がないの? 本当に、不思議な人だと思った。しかも必要のないことまで良くしゃべって。
「……だって」
 何となく、言葉が口をついて出ていた。普通だったらこんなこと、プライベートな友達にだって言わないけど、なんとなく同郷の人に巡り会ったのだと思うとガードが緩んだ。
「顔に『結婚』って、書いてあるみたいでウザいって言われたの。面倒な女だって」
「誰に?」
  ああ、何でそんな風に切り返してくるんだろ? 面倒だな。ちら、っとそちらを見上げると、彼は話を聞く姿勢で穏やかに微笑んでいた。少し考えて、もうこうなったら全部、話しちゃおうと思えてきた。
「別れた彼。だから、本当に結婚してやろうと思ったの。そして見返してやろうって。だって、こういうところに来れば、結婚したい人がたくさんいるんでしょ? その中には私にぴったりの相手だって、ひとりやふたり見つかるはずよ」
「うーん、まあ……そうだろうね」
 こんな告白なんて聞き慣れているのだろうか。彼は顔色ひとつ変えないで、私の話を聞いている。
「でも、ひとつ聞くけど。小坂さんは、そいつのことを見返してやるために結婚するの? そんなのおかしいじゃない。結婚すれば全てが上手く行くなんて、幻想でしかないと思うよ」
「え……」
 ここは仮にも結婚相談所なんでしょう、結婚したい男女が出会うための場所のはずよ。どうしてそれを「幻想」なんて言うの?
「世の中には、結婚に何て夢を抱かない輩がたくさんいる。それどころか面倒なもの、時には人生の墓場だなんて言う奴だっている。あんまり夢を持ちすぎると、現実でつまづくよ?」
「な、何よっ!!」
 分かり切ったような言い方にかちんと来た。そんな風に言うことはないじゃない。私の中で、ぶちんと何かが切れた。
「そんな風に言うならっ! じゃあ、ここに『夢を抱かない人』とやらを連れてきてくれない!? そう言う風に言い切ったら、ここみたいな商売が成り立たないじゃないの!!」
「いいよ?」
 彼は相変わらず口元にやわらかく笑みを浮かべたままで、じっと私を見た。
「ほら、君の目の前に。それで、オッケー?」

 そんな出逢いだったのに、どこをどう間違ったのか分からない。恋愛や結婚に夢を抱かない男と、恋愛や結婚の夢に破れた女。そんな不思議な連帯感が私たちの間に生まれていた。
  寂しかったんだと思う。そこで、さんざん別れた男への恨み辛みをぶちまけて。それでも足りなくて、彼と飲みに行って。そして、千鳥足になってもそれでも別れたくなくて。何となく、付いていった。彼のあとを…彼の部屋に。
  友達はみんな幸せそうに片づいていく。そうじゃない子はばりばりのキャリアウーマン目指して、総合職で頑張ってる。小さなデザイナー事務所で与えられた仕事だけをこなしていた私には、そのどちらにも属さない宙ぶらりんな印象があった。仕事は上手く行かない、付き合っていた男にはうるさがられる。何もかもが嫌になって、楽な方向に逃げてしまおうと思ったのだ。
「―― 一緒に暮らそうか?」
  同居していた従兄が出て行ったばかりだと言う彼の部屋はふたりでも十分すぎるくらい広かった。成り行きのようにベッドを共にして、けだるい余韻にふたりで浸っていた。彼の言葉は当たり前のことのように、口からこぼれてきたのだ。
  私たちは、ひとつの部屋で暮らし始めていた。

◇◇◇

 彼とはじめて会った時。 ―― ううん、正確には中学時代の同級生である彼と再会した時に、気付いたことがあった。
  それは彼が私のためにいれてくれたコーヒーの温度と濃さが丁度良かったと言うこと。インスタントのコーヒーはちょっとした加減で、おいしくなったりまずくなったりする。自分で作ってもそうなのだ。
  それなのに、彼がいれてくれるコーヒーはその後も私好みだった。それだけじゃない、おみそ汁の味も、ご飯の炊き方も。食べ物の好みとかそんな些細なことまでがびっくりするくらい合致した。
  たとえば、今日はお寿司が食べたいなと思ったりする。そうすると携帯に連絡が入るのだ。今日は外で食べようか、って。待ち合わせの場所に出かけていくと、案内されるのは安くておいしいお寿司屋さんで。
 今日は疲れたから、ちょっと甘いお酒が飲みたいなと思うと、スパークリングワインを買ってきてくれたりする。借りてきたレンタルビデオが丁度お互いに見たいものだったとか、夜のTVの番組が一致したりとか。言葉には出さなかったけど、とにかく不思議なことが多すぎた。
  彼と暮らしてみて、はじめて気付く。今までの男たちとの関係がどんなに窮屈だったかと言うことを。相手に気に入られようと自分を飾ったり、無理して合わせたりした。我が儘を言って嫌われたら困ると思ったし。そうやって相手に合わせて自分を変えていくことが「愛する」ということなんだと思っていた。

「結婚なんて、どうしてみんなあんなに夢を持つんだろ? こんな仕事してるのに、どうしても分からないんだ」
  彼は私を抱き寄せながら、自分に言い聞かせるみたいにそう言う。その決めつけるような言葉の奥に何があるのかも、もう分かっていたから、私は彼の意見に同意することが出来た。
  彼の両親は長いこと不仲で、それが近所の評判だったという。何しろ小さな田舎の町だ。私や私の両親はそんな噂話が好きではない人間たちだったから、奇跡的に耳に入らなかったのだろう。それに彼の住んでいた家とウチとは学区の中でも端と端。小学校も違ったのだから。
 ずっとののしりあう親を見ていた。浮気を繰り返す父親と、妻の座を主張して怒鳴り散らす母親。ボタンの掛け違った関係は誰の目から見ても破綻していたのに、紙切れ一枚の関係がそれを継続させていく。
  両親は彼が高校を出る頃に離婚することになったが、もうどちらにも関わりたくはなかった。それくらい心を乱されて傷つけられて来たのだから。親戚を頼って東京に出て、この仕事に就いた。田舎にも帰りたくなかった、嫌な思い出ばかりがつきまとう。その上、あの親の息子だと皆が言う。
  職場でも彼の考えは覆るどころか確信を深めるばかりだった。自分の欲求ばかりを押しつけてくる客、会員たち。上手く行かなくなるとみんなこちらのせいにされる。心を砕いてどうにかまとめたカップルが半年と経たずに離婚していたと聞いて、心が寒くなった。
  彼のそんな冷めた言い方は、そのまま私の心に悲しみの色を落としていった。彼の心の憂いが私の中に落ちていく。彼はとても傷ついて生きてきたのだ。もう、これ以上、彼を苦しめてはならない。
  自分たちが同じ生き物だと言うことを思い出すために抱き合った。彼の腕の中で溺れることで、自分を確かめていた。そこに恋愛の関係はなかったのだ。お互いにそんなものは最初から持っていなかった。あったのは不思議な連帯感…どういう訳か、コイツとは気が合いそうだという最初の予感だけ。大人の関係なんだと思っていた。

◇◇◇

「よろしかったら、僕と付き合ってくれませんか?」
 そう言ったのは取引先の営業部の男だった。結構大口のところで、その分、接触も多かった。いつの間にか顔なじみになっていたのだ。
「はい?」
  何で突然、こんなことを言うんだろう。変な人だなと思った。
  もちろん、一緒に暮らしている彼とのことは会社の人は誰も知らない。学生時代からの親しい友達もだんだん結婚したり田舎に帰ったりと疎遠になっていたから、誰にも気付かれることなく一年以上も続いていた。「同棲」ではなくて「同居」だと思っていた。
「急にこんな話をされたら、驚かれると思うんです。どうぞゆっくりと考えてください」
  その男はあくまでも紳士的に話を進めた。もちろん、その話は狭いオフィスに瞬く間に広がる。直属の上司は私の肩を叩いて嬉しそうに言った。
「良かったな、小坂さんにも春が来たか。やあ、めでたい」
  その時、私は気付いた。この話を断る理由が自分にないことを。

  その変化に気付いたのはいつ頃だったのだろう。空気みたいな彼の存在がいつの間にかなくてはならないものになっていた。
  残業が長引いて戻るのが遅くなると、彼は夕食の支度を整えて私を待っていてくれた。もちろんその逆だってある。結婚相談所はお見合いパーティーが頻繁に行われて、その時は社員である彼も場内整理に連れ出される。そのまま打ち上げになって、帰りが深夜になることもあった。
  この部屋に彼がいるのは当然のこと。何故なら彼の部屋なのだから。だから、彼がいないととても寂しいと思った。ひとり暮らしに慣れきっていたはずなのに、今では独り寝の夜が耐えられないほど、彼の存在が当たり前になっていたのだ。
「早く、帰ってこないかな……」
 起きて帰りを待っていたと思われたら、負担になるかも知れない。彼はそんな関係を望んではいなかったから。私はさっさとシャワーを浴びて寝支度を整えると、灯りを落としてベッドに潜り込んだ。それでも―― エレベーターが音を立てて止まるたびに、廊下を歩く足音が響くたびに、期待していた。
  そんな自分の中に生まれた想いを口にすることは出来なかった。彼が望んでいないことを欲求すれば、その時にふたりの関係は終わる。突き放されて彼を失い、ひとりに戻るのは怖かった。
  がちゃがちゃと鍵を回す音がして、ドアが開く。
  ああ、彼だ。彼が戻ってきた。玄関まで駆けていって飛びつきたいほど嬉しいのに、その感情を押し殺すしか出来なかった。私は壁に向かって横になったまま、息を殺している。やがて、彼が部屋に入ってきて…後ろから私の頬にそっと触れるのだ。
「ただいま」
  今、気付いて目覚めたように、目を開けて振り向く。彼の笑顔が私に向かっていることを確認して、私もふっと頬をほころばせた。
「おかえりなさい」
 遅かったね、寂しかったよ……早く抱きしめて。そう言いたいのをぐっと堪える。
  求めてはならないのだ、願ってはならないのだ。それは最初の時に決まっていたのだから。恋愛にも結婚にも夢を抱かない男だということを承知の上で付き合っているのだ。

 いつからか、 泣くことすら、出来なくなっていた。私がひとりで泣いているのが分かったら、彼はどうするだろう。その涙の意味を知ったら、どんなにか嫌がるだろう。どうしても堪えきれなくなると、哀しいビデオを借りてくる。ストーリーのせいにして、最初から最後までぼろぼろと泣いた。

「住むところを探しているんです」
  何度目かのデートの時に、おしゃべりのついでのようにそう言った。つきあい始めたその人の親戚が不動産業を手広く展開していることを情報通の女性社員に聞いていたのだ。
 男はすぐに承知すると、私の希望にあったアパートを紹介してくれる。その契約を済ませると、私は彼が出張で留守にした時に身の回りの荷物を整えた。ふたりで暮らしたささやかな時間に、彼の生活に入り込んでしまった自分を引きずり出すように。それはとげ抜きで刺さった棘を抜いていくような痛みを伴う作業だった。
  ひとりの部屋に戻った夜。私は久しぶりに音のない空間で思い切り泣いた。

◇◇◇

「理由なんて、…知ってるでしょ?」
 変わってしまった彼の、ほとばしるような熱さに耐えながら。出来る限りの平静を保って私は答えた。
「私を必要としてくれる男が現れたの。すごくいい人で、私のこと理解してくれて。だから、もうあなたとは暮らせなくなったのよ」
  ぎり、と私の骨がきしむ。もう会いたくなんてなかった。会ったらどんな顔をしていいのかそれも分からなかったし。それなのに、こんな風に再会して、挨拶みたいに抱き合って。自分が許せなかった。何のために別れたのだろう、この人の元を去ったのだろう。後悔し続けた日々を悟られたくない。
「本当に?」
  彼の腕の力は緩まない。これだけはっきりと言っているのに、どうしてそんな風に確認するのだろうか。私に何を言わせたいというの?
  彼の声がかすれて、私を包む腕が震えて。そして、耳に届いたのは信じられない言葉だった。
「俺……あの日、部屋に帰ったら琴がいなくて。しばらくは何が起こったのか分からなかった。荷物が全部なくなっていて、琴のいた気配が全部消えていて。何だか、悪い夢を見ているようで―― 」
  辛そうに絞り出す声。震えているのは、もしかして泣いてるの? ……嘘でしょう?
「しばらくたって、ようやく分かったんだ。琴が出て行ったんだって。そう思ったらたまらなくて、琴にどうしてももう一度会いたくて、会社まで行ったんだ。そしたら、琴は建物から他の男と楽しそうに出てきて」
「見たんなら、間違いないでしょ? その通りだもの、もういいわ、離して。私たちは最初から、特別じゃなかったんだから」
 私に出来る限りの冷たい声を出す。そうすることしかできない、彼にしてあげられることは、それしか。
「……琴っ!!」
 鎖が解けるように、束縛がなくなる。がくっと音がして、彼の身体が床に落ちた。驚いて振り返ると、彼が肩を落としてその場にうずくまっていた。
「どうして、あの男の方がいいのか? 俺とそいつのどこが違うって言うんだよっ!?」
 うっと呻いて、彼が片手で自分の口元を覆った。
「どうして、って……」
 そもそも、比べる対象じゃないでしょう? あの男とあなたは違うんだから。心の中で叫ぶ。でも声にならない。
「俺、分からなかった。琴のことを恨んだよ、見返してやるんだと思った。だから、今度会う時までに、琴がびっくりするぐらいいい男になってやろうと思ったんだ。今時の男の研究なんてしたんだからな。スポーツジムなんてのにも通ってみた。琴が離れられなくなるくらい、いい男になろうって…っ!」
「え……?」
  何なの、いまさら何言い出すの……!?
  私はあまりにも驚きすぎて、次の言葉が出てこなかった。彼の中にそんな感情があるなんて知らなかったし、確かめようともしなかった。ただ、心地よい空間を共有する同居人のはずだったじゃない。特別の感情なんてない、あっさりしたふたりだったじゃないの。
「琴がいなくなって、はじめて気付いた。どんなに琴が大切だったか、琴のことをどんなに必要としていたか。自分でも信じられないくらい…琴が、琴が側にいて欲しいと思ったんだ」
  黙ったまま、彼を見下ろす。身体が動かない。何故、今更そんなことを言うの? 酷いじゃないの、遅すぎるわよ。
「戻ってきてくれないか、琴。十日でも、一週間でも…それでも駄目なら、三日だけでもいい。あの頃みたいに、暮らしてくれないか。俺、間違っていたよ。恋愛とか結婚とか、そんなものに惑わされていたのは自分の方だった。今ならはっきりと分かる、琴のことをどんなに想っているか。琴がいないと、あの部屋も、生きてることすら虚しいんだ。琴が欲しいんだよっ……!!」
  腕を掴まれる。指から伝わる強さ。あの頃、こんな風に彼が求めてくれたら。そして私が彼を求めていたら、こんな風にすれ違うことなんてなかったのに。
「今日だって、本当は同窓会なんて出たくはなかったよ。でも、もしかしたら琴が出るんじゃないかって。出会える偶然はひとつでも逃したくなかったんだ。きっと今にストーカーになって琴のあとをつけ回すようになるかも知れないって、自分が怖くて……なのに」
 彼は辛そうに息をした。肩が大きく揺れて、顔を上げたその目から、見たこともない彼の涙がこぼれていた。
「琴は、こんな風になってもあっさりとしているんだもんな」
「そうよ」
 私はしっかりと彼を見据えた。そして、ゆっくりと唇を動かす。
「私、プロポーズされたの、結婚してくださいって。彼の両親にもとても気に入られたのよ? なんだかんだ言ったって、相手の家との関係は大切だものね、間違いないわ。上司も喜んでくれてね、会社のみんなに持ち上げられちゃって、大変」
「……そうか」
  彼の目から光が消える。私はそのままうなだれた彼を見つめると、少しだけ、口元を緩めた。足元からパンプスを落とす。コン、と言う軽い響きに、俯いた彼が顔を上げた。
  彼の脇をすり抜けて部屋の中に入っていく。そして、バッグをソファーに投げると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。蓋を開けてごくごくと半分くらい飲み、そのあと呆気にとられてる彼を見た。
「ぐずぐず話してたら、もう電車、行っちゃったわ。これで、始発まで動けないから、今夜はここに泊めてくれる?」
  ベッドに浅く腰掛けて、にっこり微笑むと、何が何だか分からないと言う表情をした彼がのっそりと立ち上がった。それを見てから、私はスーツをぱさりと脱ぎ捨てる。薄いブラウスの上から、身体のラインがはっきりと見えるはずだ。
「ちょっと待て、どういうことなんだっ! いくら何でも、話のつじつまが合わないぞっ!?」
  やだなあ、いくら身体を鍛えて肉体美を強調したいからって、何も身につけないでその辺を徘徊しないで欲しいわ。そんな風に私が呆れた視線を投げても、彼は気にも留めていないようだ。ずんずんとこちらにやってくる。私の表情から真意を読みとろうと顔をのぞき込んでくる彼の首に腕を巻き付けると、そのまま軽くキスした。
「……琴?」
 呆然とした顔に、徐々に怒りの色が浮かんでくる。彼は私の腕を振り払った。
「何なんだよっ!! どこまでが本当でどこまでが嘘なんだよっ! 俺をこんな風に翻弄してそんなに楽しいのかっ! …琴はそんな酷い女だったのかっ!?」
「嘘なんて、付いてない。全部、本当だもん」
 ごろん、とベッドに仰向けに倒れる。ちゃちなスプリングがそれでも身体を支えてくれた。
「え?」
「プロポーズも本当、彼の両親に気に入られたのも、職場の人に祝福されたのもみんな本当。でも……」
  彼を見つめた、全ての想いを込めて。あの頃言えなかった、そして言いたかった全ての言葉を眼差しに託して。
「私、全部断っちゃったの。そしたら、会社にも居づらくなって、何とか理由を付けて退職しちゃった。アパートも引き払っちゃったから、これからマンスリーでも借りながら、職安通いよ」
  口をへの字に結んでいた彼が、はあ、と言うようにあんぐりと口を開けた。何度も瞬きして、私の存在を確かめる。
「琴、それって……」
「だから、期間を限定しないで、いつまでもいいよって言うんなら、誘いに乗ってもいいわ」
  精一杯の強がりだった。こうして再び巡り会って、どうしようもないほど彼を必要としている自分に気付いた。心を伝える手だてを知らないままに、それでも離れられなくなりそうだった。
「俺たちって、どうしようもなく、馬鹿だな」
  泣き笑いみたいな表情になって。ずっと聞きたかった大好きな声が呟いた。

 彼が私の上に覆い被さってくる。もどかしげに私を包む布たちをはぎ取りながら、深く唇を合わせてきた。私は彼の欲求を助けるように身体を浮かせて、その神聖な儀式を身体に受け止めていく。そこにはさっきまでとは全く違うはじめてのようなふたりがいた。
「……桂樹」
 不思議な戸惑いを感じながら、彼を受け入れる。足の先から脳髄まで走る戦慄に、身体がどうしようもない乾きを覚えた。
  彼はふっと微笑むと私の首筋に顔を埋める。嬉しくて、……でも泣きたい気分で。しっかりと彼にしがみついた。
「やっと、名前で呼んでくれた」
 彼が嬉しそうにそう言って、何度も口づけてくる。ぬくもりと一緒に心を全部伝えていくように。私もそれを余すことなく受け止めていく。それだけでいい、彼がいて、私がいて。ふたりの想いがひとつなら。
「愛してるよ」
  初めて聞く言葉が、ずっと知っていた響きで心に落ちていく。
  そうだ。この言葉をずっと聞いていた。それは音を伴っていなかったけど。彼の瞳が、ぬくもりがいつも私に語りかけていたから。彼自身が気付かないままに。
「お願い、もう離さないで……」
 半年分の想いを、たったひとつの言葉にして。私は彼のいなかった時間を飛び越えていた。

了(030528)

    

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