scene 3 …


 

 ちっちゃい頃だったと思う。従兄弟の部屋でかかっていた音楽。その歌詞がとても印象的だった。
  昔の恋人が「僕」を呼びつけて、失恋話をする。いつもは音沙汰もないのに、他の男と別れるたびに呼び出す。ヤケ食いをしながらしゃべり倒すと、彼女に笑顔が戻る―― 確かそんな内容だったと思う。
  子供心にもすごい話だなと思った。
  彼女も彼女だが、彼も彼だ。どうして別れた女に呼び出されて出かけていくんだろう? 好きと嫌いで構成される感情の中で、こんな複雑なやり取りがあっていいのか。彼女と彼はこんな関係で満足しているのかな。
  その疑問を自分の中でかみ砕いて消化するまでに、長い長い時間が掛かった。でも、それもアリかなと今は思っている。何故なら今、私自身があの唄の主人公たちと全く同じような状況に置かれているからだ。

「なぁに〜、聞いたよっ! 天音(あまね)、企画部の森くんと別れたんだって?」
  終業後のロッカールームにて。堅苦しい制服を脱ぎ捨てて流行りの服に着替えていると、背中から声をかけられた。
「ん〜?」
  振り向くと、同期の冴子が立っている。その姿を目に映した時、私はぎょっとしてしまった。
  すごーい、何だろこのブラウス。新品なんだろうな、見たことないもの。見頃や袖にギャザーを寄せているイマドキの服。でもって、そのサーモンピンクが……ええと、なんて言うかなあ、一瞬どっきりする。まるで、素肌みたいで、ついレースの胸元を覗いてしまうんだ。
「まった、べそべそと泣いてるんでしょ? ひとり暮らしじゃ落ち込むだけじゃん。どう? 良かったら、愚痴くらい聞くよ? 今夜は飲み倒そうよ」
「おあいにく様」
  私はシルク素材のカットソーを頭から被ると、つんと尖らせた口元で答えた。
「振られたんじゃないわよ、こっちから振ってやったのっ! 何さ、ちょっと後輩からちやほやされたからっていい気になっちゃってさ。鼻の下を伸ばしてるから、蹴り入れてやったわ」
  知らないうちに声が大きくなっていたのかしら? 向こう側のロッカーからも笑い声がしてきた。
  一応、今ここにいるメンツはチェック済み。冴子と、ロッカーの陰にいるもうひとりもだんだん少なくなってくる同期組の生き残り(売れ残り、と言わないようにっ!)。
  用心はしているのよ。あの小うるさい後輩たちがいたりしたら、また噂のネタにされちゃうからね。
「駄目よぅ、冴子。天音はこう言う時は亮太に泣き付くことになってるんだから…」
「ええ〜っ!?」
  冴子は尚美の言葉に大袈裟に反応したあと、全くもって信じられないと言うように私を見た。
「亮太ってっ、あの亮太っ!? やっだ〜、あんたたち、まだ関係が続いてたのっ!?」
  そんな大声で言わなくたっていいじゃない。まあ、その通りなんだけどさ。
「亮太って、あたしらよりも二学年年上だったよね。ってことは……ええっ、今年二十八っ? いい加減にしなよね、天音。奴だって今にかわい〜奥さん貰っちゃって、あんたなんてお払い箱なんだから」
  ―― 何とでも言いなさいよ。私だってそれくらいは分かってるんだから。
  でも私だけが悪いんじゃない、亮太だって同罪だ。今回もひとことメールしたら、すぐに携帯に掛かってきたもの。
「会いたい」
  短いそのひとことに、対する答えは決まっている。
「どうしたん? 今週末だったら、そっちに飛べるけど。また泊めてくれるんだろ?」

◇◇◇

「久しぶり〜!」
  インターフォンが鳴ったので、玄関のそばの受話器を取る。防犯用のカメラに向かって、彼が手を振っていた。
「よっ、元気だった?」
  そう言って差しだされるのが、生八つ橋。これが広島の紅葉まんじゅうのこともあったし、岡山の吉備団子になったりもした。ああ、そうだった。春の異動で京都に移ったんだっけ。
「へえ、今度はこんな部屋に住んでるんだ。だんだんレベルアップしていくよなあ、天音もいい身分になったもんだ」
  初めて訪れる部屋 だということもお構いなしに、さっさと上がってくる。まだ、どうぞとも言ってないよ?きょろきょろと2DKの部屋を見渡している背中を呆れ顔で見つめる。
  私は男と別れるごとに部屋を変えていた。
  だって、嫌じゃない。そいつの存在を知らしめるものを全て捨てても、それでもまだ記憶が残る。ああ、あの窓辺にあいつが立っていた、とか思い出すのはまっぴらだったし。
  仕事でお得意様周りをしているからだろうか。亮太は住所を教えると、初めての土地でも迷うことなく訊ねてきてくれる。
「髪、切ったんだ」
  さっき、駅から電話が来た。そうなるとあと五分強だと思って、コーヒーをいれていたのだ。それをメーカーのポットからマグに注ぐ。水色とピンクのペアカップが再会を象徴してる。気がついたら、これも五年ものなんだな。もっともこのごろでは年に数回しか登場する機会がないけど。
「そりゃそうだろ、半年ぶりだからな。今回はちょっとレトロに、昔に戻ってみたりして。結構似合うだろ?」
「……馬鹿」
  変わらないその口調に、思わず吹き出してしまった。落ち込んでいたはずの私が、もうおなかの底から笑ってる。本当に彼は不思議な人だ。
「若造りしたって、どんどん中年へのカウントダウンは始まってるでしょ?」
  そう切り返しながら。でも、もう一度まじまじとその姿を見つめていた。
  ホント、何だか学生時代に戻ったみたいだよ、亮太。初めて出会った頃、彼はこんな風に長めのスポーツ刈りだった。年はふたつ違いでも、彼の方が一浪してるから学校での学年はひとつしか違わない。私たちは大学のゼミで知り合ったんだよね。選択したテーマが偶然同じで、色々教えて貰ってるうちに親しくなっていった。
「は〜ん、天音こそ。今度はとびきりのいい男見つけて、俺に結婚式の招待状を送ってくれるって言ってたじゃん。それが、どうしたんだよ」
  もう、何でいきなりそう来るかな? まだまだ心の傷は深いんだからね。乙女心が分かんないかから、彼女が出来てもすぐに振られるんでしょう?
  私がちょっときつめの顔で睨み付けたら、彼は悪びれた様子もなくにま〜っと笑った。
  細くなる目と、薄くて大きめの口元と。尖った顎と。そのすべてが亮太を定義づけてる。少しずつかたちを変えながら、歳を重ねながら、でも久しぶりにあっても変わらないものがある。
「まあ、いいや。話はあとからゆっくり聞くからさ。時間はたっぷりとあるんだし―― 」
  そう言いながら、ふいに腰に回される腕。当たり前みたいに、私に寄り添っていく身体。ふわんと、タバコの匂い。
「どう、まずはメシでも食いに行く? どこかおいしい店を教えてよ」
  そう言いながら、滑らかに輪郭をなぞっていく手つき。大きな手のひらがしっとりと身体に馴染んでいく。ぞくそくっと背筋を上がっていくのは、久しぶりの感覚だ。私は素直に身を預けると、ほぅっとひとつため息を落とした。
「……最初は、亮太が欲しいな」
  くすっと、喉の奥で笑う。きっと、亮太だってこの言葉を待っていたんだよね。
  ベッドサイドで私を抱きしめる頃には、彼を包んでいたスーツも、ネクタイもなくなっている。どんどん近くなる、身体の距離。半年ぶりなんてこと、とっくに忘れていた。
「あっ、やぁっ……! いきなり、何するのっ!」
  身体がびくびくっと反応して、思わず首にすがりついていた。軽い抱擁を繰り返したあとに、突然下着の上からその部分をなぞられる。熱くて、もう彼だけを待ち望んでいるその場所を。
「ふふ、これは身体検査。どうかな、天音のここは変わったかな……?」
「……馬鹿……っ!」
  もう、駄目。言葉とは裏腹に、身体は内側から溶けちゃいそう。とろとろと熱いものが身体の奥から溢れてきて、彼の指に絡みついていくのが分かる。
「あんっ、……駄目っ、もうそんな風にしないで……! いやぁんっ……!」
  あとから、あとから。止めどなくと言った感じで私の想いが流れ出す。どうしよう、こんな風にされたら、もう立ってられない。
「……そんな目で見るなよ」
  燃えるような瞳って、こう言うのを言うんだろうか? サッカー選手がボールを追う時のような、必死の視線が私に絡みつく。彼は腕を抜くと私の目の前にかざした。そして、血管の浮き出た手首の辺りをぺろんと舐める。
「こんなところまで流れて来ちゃって。こりゃ、何度やったら満足して貰えるのか分かんないな」
  嬉しそうに笑わないで。そんな風に、私の全部を包み込まないで。
  そう思ったら、どっと涙が溢れてきた。今までずっと我慢してきたものが一気に解き放たれる。そんな私の変化には構うことなく、彼はもう一度私を強く抱きすくめると、そのまま倒れ込むようにベッドに沈んだ。
「やぁっ……! 亮太っ……、あっ、はぁ……んっ!」
  身体を開かれて、あっという間に彼を受け入れる。恥ずかしいぐらい待ち望んでいたものを、自分自身がやわらかくやわらかく飲み込んでいくのが分かる。
  女の身体はこうやっていつでも男のものになるように出来ている。それでも初めてのときには、何て神聖なものだなんて思ってたっけ。でも、気がつくと相手は誰でもどんな状況でも、抱き合ってしまえば同じだと分かってきた。
  何人の男に抱かれようとも、満たされるのは己の身体の欲望だけ。その反対側で、狂おしく渇いていく心がある。
「りょっ……、亮太っ! 亮太……あっ……!」
  くっと、呻いて彼の身体が跳ねる。次の瞬間、とろんと何かが身体を満たしていく気がする。ふたりの間にある薄い膜が、真実の出会いを確実に隔てていることも忘れてしまう。
  のぼりつめるその瞬間に、私と彼はひとつになる。
  そう……知ってる。この感覚は亮太とじゃないと味わえない。すべてを忘れて溶け合うことが出来る男がこの世にひとりしかいないことに私はとっくに気付いていた。
  ―― それなのに。どうしてさすらい続けているのだろう……?

◇◇◇

 亮太が一年早く大学を出て、しかもこの不況下に大手企業に就職出来て。それはちょっと嬉しかった。だって、自分の男が、誰に言っても名前の分かるところに勤めているのは気分がいい。その次の年には私が就職して、ふたりの関係はその後も二年くらい続いた。
  別れた理由もとても簡単だった。
  彼が会社の配置転換で関西方面に異動になったのだ。これは彼の会社では「かわいい子には旅をさせよ・若者行脚」と呼ばれている。全国に支店のある会社で、入社してしばらくは基本を叩き込まれていた社員たちがあちこちに飛ばされていくのだ。そしてその赴任先での頑張りいかんで、その後の出世に大きく影響していく。
  やる気のある者だけが残り、そうでない者は振り落とされる。至極当たり前な弱肉強食の構図だ。まあこんな不況下、それくらいのバイタリティーのない人間は生き残れないと言いたいのだろう。
  亮太が最初に飛ばされたのは広島だった。東京から新幹線で三時間以上かかる。飛行機ならもう少し早いが、空港までの交通の便を考えると結局はどちらでも同じくらい。
「今はメールも携帯もあるし。何てことないよ、会う気になればいつでも会える」
  彼はそう言ったし、私もそう思っていた。
  お互いに忙しいのは仕方ない、これで壊れてしまうような関係ではないはずだ。―― でも、やはり頭で思い描くのと現実とでは異なる。最初の二ヶ月、彼は仕事に慣れるのに必死で、一度も東京に戻ってこなかった。
「ゴメン、今週も帰れない」
  毎週、決まり切った台詞を聞いた。最初は落胆した…でも、徐々に慣れてしまう。いつか彼に会えない日常が当たり前になっていった。
  数ヶ月が過ぎた頃。私に男の影がなくなったのに気付いたのだろうか、取引先の男性から食事に誘われた。
  久しぶりの感覚。女友達とは毎週飲みに行っていたけど、やはり男性と一対一とは違うものだ。今まで気にも留めていなかったが、この人も話は面白いし、ルックスだってなかなか。しかも近所の会社にいるから何時でも会える。
  気がついたら、亮太とその新しい男性との比重が変わっていた。二度三度と大人の逢瀬を続けたあと、私から遠くの彼に連絡を取った。嘘だけは付きたくなかったから。
「……そう」
  まるで予期していたことのように。亮太の受け答えは当たり前の音色だった。
「しょうがないよな、距離は埋めようがないから。天音がそれでいいと思うなら、俺は諦めるよ」
  もっと引き留めてくるかと思ったのに。嘘だろって言って、慌てて駆けつけてくれるかと思っていたのに。耳の中に震えて落ちていくかすれたため息が、全てを物語っていた。
  追いかけては来ない、彼にとって私はそれだけの存在だったのだ。
  それきり。亮太との関係は思い出の中に葬られていった。遠く離れていて、二度と会うことはない。もしも将来、彼がこの街に戻ってきたとしても、きっと気付かない。それくらい私たちは変わってしまうのだ。
  一度、携帯にメールしてみた。大した意味があった訳じゃない、ただアドレスが残っていたから送ってみただけのこと。でも宛先がありませんと戻ってくる。そのあと、携帯に直接掛けてもつながらなかった。

 私が次に亮太を思い出したのは、半年以上の時間が過ぎてから。
  付き合っていた新しい男との間に徐々に亀裂が入り始めたのだ。その男は田舎の跡取り息子だったから、結婚話が浮上した頃からしっくり来なくなってくる。
  それまではとてもいい感じで距離を置いていたのに、いきなり色々とうるさく私の行動に口を出してくるようになった。服の好みから、化粧の仕方、髪型。その上、女友達と飲みに行ったり、仕事のつき合いで食事に行くことにも難色を示し始めたのだ。
「男と会っていたんだろう」
  そう言って、私を見るそいつの目は蔑みの色を濃くしていた。帰省するたびに「都会の女性は派手好きで腰が軽い、上手く行くはずがない」と両親に言われ続けているという。そんな状況では男の精神状態が不安定になるのも仕方のないことだったのかも知れない。
  次第にお互いがとげとげしい空気に包まれてくる。どちらが先に音を上げるか、時間の問題だった。
「結婚」―― その二文字の単語に魅力がなかった訳じゃない。だけど、男の話を聞くたびに憂鬱になる。
  都会で長い時間を過ごしても、これだけの固定観念があるのだ。田舎の両親に至ってはコテコテだろう。自分にはとても耐えられるはずがない、最初は別居でいいという約束も当てにならなかった。
  ギリギリのところまでいがみ合って。ふたりは壊れた。「別れよう」と言いだしたのは、男の方だったけど、それを聞いた自分が落胆するよりもホッと胸をなで下ろしていた。

 元の通りにひとりになって、その時に自分があまりにも自由すぎることに気付いた。
  そりゃ、男と付き合っていても毎日会うわけでもない。いつまでも学生気分でいる訳じゃないし、メールだって一日に何度もという感じではなかった。ただ、次はいつ、と言う約束がないというのは動かしがたい事実。
  その不安定な気分に押し潰されそうになるのに時間は掛からなかった。
  ある夜、ひとりの部屋で酎ハイの缶を開けながら、パソコンをいじっていた。古いメールボックスを開くと、そこに懐かしいアドレスを見つける。
  卒論の延長で、亮太とのやり取りはパソコンメールが多かったのだ。そう言えば、携帯のメール送信は苦手だとか言ってたっけ。お互いにバイトしたりで時間も不規則だったから、いつでも読めるメールが嬉しかったことを思い出す。
  彼の話し方と同じ、弾んだ文章が現れる。目で追っているだけで、あの日の笑顔が浮かんで来るみたい。楽しかった記憶が次々に思い起こされる。どうして思い出ってこんなに美しいんだろう。亮太とは今度の男のようにこじれて別れたわけでもない。
  でも最後に携帯で話した日から、私たちの関係は途切れていた。とっくに終わっている。亮太はもう、私とのことなんて忘れてしまったんだ。
  諦めていたのに、それなのに。気付くと私はメールを打っていた。
『会いたい』
  それしか、言葉が浮かばなかった。勢いに任せて送信する。これは私と亮太を結ぶ最後の糸だった。
  細くて長い糸。携帯は買い換える時に機種変更出来なければ、番号もアドレスも変わるだろう。でも、パソコン用のアドレスはあまり変わらないのではないだろうか。
  その後は恐ろしくて、なかなかメールチェックをすることも出来ない。もしも、送ったメールが戻ってきてしまえばそこまでなのだ。
  膝を抱えて、耳を塞いで、どれくらい時間が過ぎただろう。何て馬鹿なことをしてるのかと自分で自分が悲しくなった。
  亮太ははっきりと意思表示をしたじゃないか。私に教えた携帯のナンバーを変えて、繋がりを切ってしまった。……それなのに。
  三十分くらい経って。
  いきなり私の携帯が鳴った。見覚えのない番号に私はどきりと胸が引きつれるのを感じていた。
「―― どうしたん? 天音」
  まるで時間を飛び越えて来たような、あっさりとした声。その一音一音が胸の底にことりことりと落ちてくる。
  携帯を握りしめたまま、ひとことの言葉も発することが出来なくて。ただ、涙が止まらなかった。

 

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