scene 5 …


 

 ――こんなこと、あるとは思ってもみなかった。
  大好きな彼、三日前には私を抱きしめて「愛してるよ」と耳元で囁いてくれたあの唇が動く。柔らかさもぬくもりも全部知っているあの場所が。
「ごめん、もう……おしまいにしよう」
  彼の後ろに続いている並木の街道。ちらちらと舞い落ちる金色の葉。急に呼び出されて、何だろうと思っているところに、彼の一撃が打ち込んできた。
「……え?」
  言葉の意味が、実はよく分からなかった。デートじゃなかったから、どうでもいい服を着ていた。彼は私の休日出勤を知っていた。そうだよね、同じ会社だもん、シフトくらいすぐに確認出来る。急な残業もすぐに分かるから、待ち合わせ時間の変更には苦労しなかった。
  仕事上がりで、少し頭が呆けてるのかしら? 何を言ってるんだろう、彼。おしまいって……何?
  冗談でも言ってるのかな? と一瞬思った。でも彼はそんなタイプじゃない。どちらかというと嘘を付くのが下手な、不器用な人間だ。
「急に、そんなこと言われても、『はい、そうですか』なんて言えないよ。何で? 私、何か気の触ることをした? 直せるところがあれば直すよ?」
  それなりに、気は遣ってきたつもり。でも、きっと知らないところで彼を怒らせていたのかも知れない。だとしたら、どうにか出来る。
  ……だって、私はまだ、あなたが好き。とっても、好き。
「経理の園田さん、知ってるでしょう?」
  彼は私の質問には答えず、勝手に話を進めていく。
「彼女と、結婚するんだ。だから……悪いな」

  賑やかな夜の街。休日でもあり、おしゃれな海沿いの観光スポットに若者が溢れかえっている。みんな楽しそうに笑ったり、はしゃいだり。何がそんなに面白いというのかしら。
  ……これからどうしよう。
  携帯を取り出して、登録してあるナンバーをくるくると表示させる。でも、この半年間を彼との為だけに使っていた私には、こんな時に気軽に呼び出せる友達が思い当たらない。改めて思い知らされる。彼が……彼だけが、私の全てだったのだ。
  まっすぐに家に戻ればいいのに、それもしたくなかった。だって、今夜は兄夫婦が子供を連れて泊まりに来ている。別に誰も来てくれなんて言ってないのに「顔見せ」と称して、ちょくちょくやってくるのだ。もちろん嫁姑の仲の兄嫁と母親がしっくりいくはずもなく、そのしわ寄せは全て私に降りかかってくる。
  家族として、いつもなら当然のこととして取り持つけど、今日はとてもそんな気分になれない。
  かといって。音信不通にしていた友達にいきなり連絡したら、今までの一部始終を話さなくちゃならない。それもそれで億劫だ。ただでさえ、混乱してるのに。何も知らない人に説明するなんて無理。
  うだうだと考えをまとめられずに歩き続けて。気がついたら、見覚えのあるバーのカウンターに座っていた。
  ここは彼と何度も来たことのある場所。人気があるんだかないんだか、いつも適当に席が空いている。その割りにはお酒もおつまみもおいしくて、値段も手頃だ。もちろん、ひとりで入るのは初めてだった。
  メニューで手当たり次第に注文して、私はあっという間にグラスを5つも空けていた。まあ、カクテルなんて居酒屋のチューハイとかに比べたら、量が少ない。ぐいっと一口で飲み干せるものも多いから。ただ、バーテンからすれば、色合いや味、香りまでも楽しんで欲しいと思っているだろう。カウンターの一番端に座った私は、何とも言えない視線で見られていた。
  いいじゃないの、一杯でも多く呑んで貰った方が利益になるんでしょ?
  こちらに背を向けてライムを搾っている白い背中を見ながら、私はまたメニューを手にした。
「やあ」
  その時、隣の席に誰かが座った。その頃の私は、もう視界が潤んで、焦点が定まらない状態。酔いが回っていたのか、泣きすぎて目が腫れ上がっているのか、自分でも分からなくなっていた。
「いい呑みっぷりじゃない、今度は俺におごらせてよ」
  私の返事も聞かずに、その人はさっさとメニューを私から奪い取った。
「今井さん、彼女にブルー・ムーン、で俺はモスコー・ミュールね」
  カウンターの中には初老の男性と、もうひとり私たちと大して年齢の変わらない感じの青年がいる。注文に反応したのは若い方だった。
  しばらくして、隣りの人の前に銅製のマグカップが置かれる。そのすぐあとに、私の前にも薄紫のカクテルグラスが置かれた。ふんわりと花の香りがする。
「スミレの香りだよ。そのお酒の話、知ってる? ね、桜さん」
「え……」
  いきなり名前を呼ばれて、私はその時初めて隣の席の人をしっかりと見た。お酒のお店だけあって、薄暗い穴の中のような内装だ。天井も低めで、木目までしっかりと確認出来るほど。発色の悪い蜂蜜色の灯りの下に若い男性が座っていた。
  ――あれ?
  思わず、瞬きした。だって、この顔、知ってる。そりゃ、相手が私の名前を知ってるんだから、私も相手の顔を知っていても当然だ。でも……どこの誰だったか、までは咄嗟に浮かんでこない。
「何年ぶりだろ、…ええと、桜さんは成人式の時の学年同窓会にいた?」
  柔らかい髪の毛。彼のすぐ上に光源があるから、髪の表面が金色に見える。実際には明るい栗色なのかな。もちろん染めてるんだろうけど。ノンフレームの柔らかいラインの眼鏡。くっきりとした綺麗な瞳に、すっと通った鼻筋、薄くも厚くもない口元。
  ぱっと見は、ちょっとしたタレントさんみたいだ。まあTVでそこそこの芸能人も本物はすごく綺麗なんだって聞くから、このレベルは一般人なのかな。でもっ……成人式の時の同窓会? と言うことは高校の同級生か。いたっけな、こんな人。
  必死で記憶を辿る。そして、ようやくひとつの映像が私の脳裏に蘇ってきた。
「ええと…あのっ、あ、『会長』!?」
  駄目だ、私は人の名前とか顔とか覚えるの苦手だもん。ニックネームしか出てこないわ。
「ふふ、思いだしてくれた? 新聞部の桜さん」
  彼は嬉しそうににっこりと微笑んだ。彼の周りが、ふんわりと柔らかい光に包まれているような気がする。
「奇遇だなあ、こんなところで懐かしい顔に会うなんて。今日はね、面接でこっちに来たんだ」
「面接…? あ、そうか今年四回生なんだね、就職だ」
  自分がとっくに仕事してるから、何となく同級生が全部そうみたいな気がしてしまう。真新しいスーツ姿もそれで説明が付いた。何だか妙にぱりっとしてると思ったのよね。ネクタイもおろしたてみたい。
「うん……、桜さんは短大だっけ? もう働いてるんでしょ、どんな会社なの?」
  同窓生と言うだけで、どうしてこんな風にあっという間にうち解けてしまうんだろう。それまでの沈んだ気分もちょっと忘れて、会話しているとグラスはすぐに空になった。でも、もっと話していたいな。そう思ってメニューを取ろうとしたら、彼の手が通せんぼする。……何?
「呑み終わったんでしょ? 場所変えようよ」
  そう言うと、二枚の伝票を手にして、立ち上がる。私が顔を上げると、眼鏡の奥からいたずらっ子の瞳が微笑んだ。

  一杯は大した量じゃないと言っても、何杯も呑んだらさすがに効いてくる。しかもいろんなお酒をチャンポンだからなお悪い。
「カクテル」とひとことに言っても、それに用いるベースのアルコールは様々なのだ。ジンだったり、ウォッカだったり、ワインだったり、ブランデーだったり…他にもあると思う。適当に目にとまったものを呑んでいたから、良く覚えていないけど。
「で? 朝まで話を聞くのが、どうしてこんなところなの?」
  まあ、黙って彼のあとを付いてきた私も私だけど。ほんと、すううううっと流れるように、気がついたらホテルの一室。無機質な白い壁に囲まれていた。
  きちんとベッドメイクされたカバーの上に乱暴に腰を落として、この部屋にいるもうひとりの人間を睨み付ける。彼は全く悪びれた様子もなく、上着を丁寧に脱いでハンガーに掛けてる。ついでに、ネクタイも外して。
「やだなあ、俺たちは運命の再会なのに。どうしてそんな風にしかめっ面してるの?」
  自分が非常識なことをしているくせに、まるでこちらに非のあるような言い方。ああ、この拗ねるような話し方は確かに彼のものだ。高校の頃から、そりゃ見てくれのいい男だったけど、更に洗練された感じで。今でもさぞかしモテるのだろうな。
  ワイシャツのボタンを三つ目まで外して、私の隣に座った。……やだ、もうちょっと離れてよ。そんなにくっつかなくたっていいじゃない。
「男と別れたんでしょ、桜さん」
  意識して視線を合わせないようにしていたのに、この言葉にはっと顔を上げてしまう。うわ、さっきのお店で見たよりももっと近い。いきなり単刀直入に言われては言い返す言葉も浮かばないわ。
「あんな風に派手に呑みまくっていたら、誰だって気付くよ。あんまり泣くと、綺麗な顔が台無しじゃない」
  私が何も言わないでいるから、彼は勝手に話を続ける。
「別に……会長には関係ないでしょ? 放っておいてよ」
  思い切り、顔を背けた。あの人が似合うと言ってくれたから、頑張って伸ばした髪。ようやく背中の半分まで来た。それが私の動きに合わせて揺れて流れるのが今は忌々しくさえ思える。忘れたいのに、……お酒の力を借りて忘れちゃおうと思ったのに、こんな風にわざわざ蒸し返さないでよ。
「放ってなんて、おけないよ」
  ふわっと、腕がまとわりついてくる。滑らかに、吸い付くように、彼が私の背後に回った。
「やぁっ…! ちょっとぉっ!!」
  そりゃあ、こんなところに来たんだから、もしかすると下心があるのかなとは思っていた。でもっ…、いくら旧知の仲だと言っても、再会してどうしていきなりこんな風になっちゃうの!?
「やめてってばっ! 会長っ!!」
  いくら彼がすらりとした線の細い体格だからと言って、男と女の力の差は歴然としてる。腕を振り解いたのは、私の中の必死の抵抗だった。
「あなたは、そりゃ、こういう遊びには慣れてるかも知れないわよっ……でもっ、私は違うものっ! 違うっ……そう簡単に、あの人を忘れられないわよっ!」
  新しい涙が、ぼろぼろと流れてきた。情けない、振られた女は人恋しくなってるから、いいカモだと思われたんだろうか。そりゃ、彼はどこから見てもいい男だ、どこへ行っても人気があるだろう。高校の頃だって、生徒会室に関係ない女の子がいつもたくさん押しかけてた。
  ……ああ、嫌だわ。どんどん、思いだしてくる。冴えなかった高校時代、私の中で封印したはずの記憶たち。あの人に出会って今までの人生が変わったと思っていた。
「忘れなくて、いいじゃない」
  しばらく、ベッドの端と端で、にらみ合いが続いた。……ううん、怒りを露わにしていたのは私だけ、彼の方は穏やかな瞳のままだった。
「…え…?」
  何言ってるの? この人。一体何を考えてるの……?
「そりゃあね、俺だって桜さんがそうして欲しいと言えば、一晩中でも話を聞くよ? でも、そんなことしてどうするの? そうしたら、彼は戻ってくるの?」
  まっすぐに私を見つめる瞳。穏やかな黒はどこか誰も知らない深海の色を映してるのかしら……?
「桜さん、……その人に会いたいんでしょう?」
  そう言って、彼は何とも言えない表情を作った。笑っているような、泣いているような、私の心がそのまま吸い込まれていくような。
  会いたい……、会いたいですってっ!? 何てこと言ってるのっ、信じられないっ!!
「…どうして…」
  感情をいきなり喉の奥から引っ張り出されたみたいに気分が悪い。忘れようとしながら、忘れられない、矛盾した心が浮かんでくる。私の中の収拾のつかない感情。
  いきなり手のひらを返したように冷たくなったあの人が信じられない。もう、何もかもを忘れて、まっさらの気持ちに戻ってしまいたい。
  ……でも。会いたい、のかも知れない。と言うか、あの人ときちんと話がしたい。どうして、一方的にあんな風に。だって、突然だったもん。
  付き合い始めるときって、お互いに心がひとつになって始まるものなのに。おしまいはそうじゃないの? 私の心はまだあの人で一杯なのに、勝手にひとりで終わらせないでよ。
  いろんな想いがふううっと浮かんできては沈んでいく。私がそんな風に堂々巡りの想いをしている間、彼はただ静かにこちらを見ていた。
「会わせてあげる、……彼に。今すぐ」
  ――どういうこと? そう思った時に、彼の腕がまた私を捕らえる。大きな翼みたいに、ふんわりと抱き取られていた。
「桜さん、目を閉じて。そして、彼のことを思いだして。俺がその人になるから、……ね?」
「そんな……」
  なれるわけないじゃない、馬鹿なこと言わないでよ。会長はあの人じゃない、全然違う人間でしょ? そんな都合のいいことを言わないでっ……!
「なれるよ、絶対。だから、目は開けないでね。夢から覚めちゃうから」
  淡い微笑みが、私を包む。開きかけた唇に指を押し当てられて、言葉が封じ込められた。そして…、大きな手のひらが目隠しするみたいに私の瞼を閉じていく。
「思い出さないと、忘れられないから。だから、しっかり刻みつけて……」
  お酒の力を借りているからなのだろうか? それともこれは彼の魔法なのだろうか。私はほとんど抵抗も出来ずに、意識の底に落ちていった。

「……あっ…!」
  身体にぴりっと戦慄が走る。痛みと快感の狭間で、私は泳いでいた。首筋に吸い付く湿った唇、胸を包み込む手のひら。それが、あの人のものであると確信した。
  胸から離れた手がするすると下に降りていって、おなかの辺りを何度も撫でる。むずがゆい感覚がそこから流れ出して、頭の奥が泡立っていく。愛される時の満たされた気持ちが、どんどん膨らんでいく。
  あの人が、本当に好きだった。
  私のこと、前からずっと気になっていたと言ってくれた。いきなり目の前が拓けた気がした。だって……私のこと、好きだって、世界で一番好きだって言ってくれた人がいる。恋愛に慣れている人にとっては当たり前のことかと思う。でも……そんな風に言われたの、私は初めてだったから。
  ……初めての、恋人だった。
「好き……、好きよっ…離さないでっ…!」
  いつか、身体を貫かれて、激しい波に飲み込まれていた。気の遠くなるような快感の中で、身体が意識のフチを浮き沈みする。私はあの人の腕に抱かれている、本当にそう思えた。
  おしゃべりをするのも、一緒にいろんなところに行くのも、みんな素敵だった。瞳を見つめ合って微笑みあうことでこの世の全てが自分に味方している様な気がした。
  けど……、一番好きだったのはあの人に抱かれている時間。肌のぬくもりを直に感じていると、心まで繋がっていくように思えた。あの人にとって私が一番近い存在、あの人の全てを私は抱き留めている。きっと、ずっと、いつまでも、永遠に一緒にいられるんだ。
  自分の方から求めたりするのは恥ずかしくて出来なかった。なんとなくそんな流れになって、あの人の足がホテルに向くのを待つしかなかった。高校時代、短大時代、仲間内の中心的存在だった私、何をする時も先頭切って仕切っていたはずの私が、特別の男の前ではしおらしいばかりの女になっていた。
  ……でも、それを情けないなんて思わなかった。あの人に似合う女になりたかったから。ずっと、ずっとそばにいたかったから。そのためには頑張りたかった。
「行かないでっ…、離さないでっ…! どこにも行かないでっ…っ!」
  自分の叫びが部屋の壁に反響していくのが感じ取れた。目を閉じていても、全てが分かる。私は今あの人とひとつになっている。もうこれ以上、無理なくらいそばにいる。
  だって……、私の想いに応えて、あの人も愛してくれる。飛び散る汗、息の上がる輪郭を辿り、捕らえて、抱き合う。最後は身体のくぼみのかたちに合わせてお互いがぴったりと重なり合っていた。
「好きっ……、大好き」
  息が上がったまま戻らない。
  揺れ続ける白い船の中、私はあの人の腕の中で柔らかい眠りに落ちていった。意識の途切れる瞬間まで、長い指が髪を梳いてくれていた。

  目覚めた時、部屋には誰もいなかった。
  朝の光の溢れた部屋は昨日の夜を全て洗い流してしまったみたい。テーブルの上、ルームキーと一緒に、携帯のナンバーのメモが置かれていた。それを拾い上げた時、カバンの中で私の携帯が鳴る。液晶画面には、たった今、目で追ったばかりの数字が綺麗に並んでいた。
「何で、先に出て行ったの?」
  私の言葉に彼は意外そうな顔をした。
「先に…? どういうこと? 俺は何も知らないよ」
  そう言いながら、目が笑っている。これからもうひとつ、面接を受けに行くんだという。昨晩はどっちにせよ、どこかビジネスホテルにでも泊まるつもりだったんだって。何よ、そう言うことだったのね。
  少し、会話が途切れて。そのままふたりで並んで歩いた。とても一夜を共に過ごしたふたりじゃない。私たちはただの同窓生だ。
「――5回だけ、付き合うよ」
  別れ際、彼が付け足すみたいにそう言った。
「桜さんが、きちんと『彼』を思い出に出来るまで。5回だけ、付き合おう。ずるずる続けるのは嫌でしょう?」
  それは私も同感だった。
  男に振られたからって、その空白を埋めるために別の人と付き合うなんて違うと思ってた。でも、このままで自分ひとりの力で立ち直れるかどうか不安だったから。
「……何で、5回なの?」
  何となく、それを訊ねていた。他にもう少し突っ込み所はあるような気もしたけど。
「えーーーっ?」
  彼はくすくすと楽しそうに笑う。昨日と同じスーツ姿で、でも私の知っている昔の彼が見え隠れする。
「どうしてだろう……、指が5本だから、かな?」
  そんな風にして、私たちの不思議な契約は成立していた。

 

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