scene 9 …


 

「どう、気に入ってもらえたかな?」
  デザートの皿が目の前に並ぶ頃、丸テーブルの向こう側でそんな声がした。花の香りのするお酒でほんのりとしていた気分が、ふっと現実に引き戻される。ああ、そうか。私は食事中だったんだっけ。
  ふんわりとした不思議な音階のメロディーが静かに流れている。会社仲間の間でも密かな噂になっているチャイニーズ・レストラン。取り壊しになった立体駐車場の跡地に鉄筋の外枠が出来上がったときから「どんなお店が入るんだろう」と皆で期待してた。
  だから今日、彼の口からここの名前が出たときは素直に嬉しかった。開店当初から雑誌や地元TVに取り上げられたために、その人気はうなぎ登り。ディナーの予約は半年・ランチも数ヶ月待ちとか言うことで、毎日恨めしい気分で店の前を通り過ぎていたんだもの。
  中庭を大きく取った贅沢なデザイン、建物全体がまるで大きな湖の上に浮かんでいるような錯覚を覚えるような造りになっている。朱塗りの橋をいくつも越えて、色鮮やかなコスチュームの店員さんたちが迎えてくれる店内へ。何もかもが物珍しくてきょろきょろと見回してしまう私に、彼はどこまでも優しい。取引先の担当の人、何度も話をしたことはあったけどこんな風にふたりきりで会うのは実は今日が初めてだ。
「ええ、もちろん。雰囲気も素敵だし、お料理も美味しいし。会社の友達にも思い切り自慢できそうです」
  確かこの前、仕事の話で顔を合わせたときにここの話が出たような気がする。でもほんの雑談みたいなものだったし、内容も良く覚えていない。
「そう言ってもらえると光栄だな、僕も頑張った甲斐があるよ。学生時代の仲間がここの関連会社に勤めていてね、ちょっとしつこく食い下がってみたんだ」
  決して恩着せがましい言い方ではないけれど、さすがに恐縮してしまう。初めてお目に掛かったときからとても良く気の付く優しい人だと思っていた。確認やフォローのメールも頻繁にくれるし、人当たりが柔らかで一緒にいてストレスを感じないタイプ。窓口となってくれる担当の方は彼以外にも数人いたけど、彼が電話口に出てくれるとホッとした。
「そうなんですか、それは申し訳ありません」
  うーん確かに、ちょっとやそっとの根回しじゃここのディナー券は手に入らなそう。本当に私が誘われちゃって良かったんだろうか。かなり不安になってくる。
「いや、だからそんな風にかしこまらないで。こういうところは野郎と飲みに来たってつまらないしね。やっぱり食事は望田(もちだ)さんのような可愛い女の子と一緒の方が美味しく感じるよ」
  前菜から始まるフルコースはゆっくりと時間を掛けて振る舞われる。テーブルについてから、すでに1時間半近くが経過していた。その間、彼は始終にこにこと楽しそうに話題を提供してくれて飽きることがなかったのは事実。うん、……確かにそうではあるんだけどね。
「……それでね」
  襟元に挟んであったナフキンを綺麗にたたみ直して膝に置く。ついついその手元に目がいってしまった。何度も何度も同じ場所に折り目を付けてる、必死で何かを反芻するように。指先の微かな震えを確かめたそのときに、私の中の「予感」が大きく膨らみ始めた。
  ――これは、やばいかも。
  最初から「もしかしたら」という気持ちはあった。仕事の延長ではなく個人的に誘われると言うことは、それなりの意味があると解釈した方がいい。分かっていた、でも意識過剰に断るのも何だか変だしね。一緒にご飯を食べるくらいならいいかなと思ってた。
  都会にありがちの縦に細長いビル。ワンフロアの床面積はかなり控えめで、多分この大きさのテーブルだと五つか六つがせいぜいだと思う。各テーブルの間には椅子に座ればあちら側の頭の先も見えないくらいの高い衝立があって、プライバシーがしっかり守られている感じ。食事を運ぶ人がすれ違っても平気なくらいゆったりとしたスペースが取られている。
  細木を組み合わせた工芸品のような衝立の模様、アーチ型に湾曲したその部分に目線を合わせていた。何だか……何となく、彼の目を真っ直ぐに見られない雰囲気。
「その、……何というか。こういうのって慣れてないんだ、緊張するね。でもあんまり回りくどいのも良くないかな」
  照れ笑いをして、軽く頭をかく。そんな仕草を視線の端に感じ取った。
  うん、分かるよ。こういう場面、今までに何度もあったから。そしてこのあと何を告げられるか、私がどう受け答えするかも全部想像が付く。それだけじゃない、その後の私たちの進んでいく道も。
  だけど、それだからこそ駄目なんだよ。私は決めたんだもの、二度と相手主導の恋はしないって。何度も何度も同じ失敗をして、ようやく思い知るなんて馬鹿もいいとこだけど。確かに彼はいい人、私に好感を持ってくれてる。お付き合いを始めれば、きっと楽しいひとときを送れると思うんだ。けど、……それもいつか終わるの。今までがそうだったように。
「ごめんなさい」
「ごめん」
   刹那。私の声に重なるように、衝立のすぐ向こうから耳に覚えのある懐かしい声が聞こえてきた。

  自分が好きになったその相手が、自分のことを同じくらい好きになってくれる。恋愛ってそんな素敵なものなんだと、何も知らない頃は当たり前に信じていた。
  灰色の受験生、高校三年間の日常はいつも何かに追い立てられているような感じだった。友達はライバル、笑顔のその裏でしのぎを削り合う。二対一の割合で男子の多い共学校ではあったけど、とてもそっちにエネルギーを使っている暇はなかった。彼氏彼女のいる人もいたけど、すごい根性あるなあと思っちゃうくらいだったもの。
  恋のお手本はお気に入りの恋愛小説や息抜きに見てる連続ドラマ。素敵な恋に平凡なヒロインがみるみるうちに花開くように美しく生まれ変わる。とくにビジュアルでそれをしっかりと提示してくれると、すごく説得力があった。もちろんそれも作り話の中の出来事だって承知していたつもり。
  でも「出逢いのきっかけ」というキラキラは、本人たちにだけ分かる輝きで道ばたに落ちているんだって思ってた。赤い糸の伝説だって、絶対に本当。それに気付かない人はたくさんいるだろうけど、私は必ず運命の人に辿り着いてみせるんだ。
  春が来て、涙と汗と努力の結晶とも言える合格通知を手にした私。そのときすでに、「厳しい現実」を思い知るカウントダウンは始まっていたのだ。
「良かった、あなたも外部生? 何だか内輪で固まっている感じでやりにくいよねーっ、嫌になっちゃう」
  進学したマンモス大学。右も左も分からないようなキャンパスで、美春に出逢った。シャンプーの宣伝みたいにさらさらつやつやな髪の毛、真っ白な肌にはそばかすも吹き出物も見当たらない。細身だけど「折れそう」とかいうイメージじゃなくて健康的。高校まではテニス部に入っていたんだっていうけど、どうして日焼けしてないんだろう。
  学籍番号が並んでいたから、何となく顔を合わせる機会が多くてすぐにうち解けた。とにかく明るい、心の垣根なんて存在しないと言わんばかりに誰とでもすぐに仲良くなる子。知り合いのひとりもいなかった私は本当に恐る恐る過ごしていたのに、彼女はまるで正反対だった。
  全国にたくさんの附属高校がある大学だったから、多分半分以上はエスカレート式に進学してきた人たち。だからだろうな、最初から「派閥」みたいなものまで出来上がっていていきなり大人の世界みたいだった。選択科目をひとつ決めるにも集団はみんなで同じ行動を取る。十数人がざーっと動くわけだから、それはそれは圧巻。私と美春はその間をかいくぐり、気ままに過ごしてた。
「びっくりしちゃった、いきなり大きな犬が後ろからどすんってね。慌てて振り向いたら、沖田くんがいるじゃない。知らなかったわ、彼の自宅って私のアパートの目と鼻の先なの」
  その美春の話を聞いた日から、私には新しい知り合いが出来た。時々選択科目で顔を合わせたことのある男子ふたり組。クラスこそは違ったけど、同じ都立の出身だから何となくつるんでるんだって言ってた。
  美春の趣味は野球観戦で、ご贔屓の球団の本拠地があるからと家族の反対を押し切ってこっちに進学することにしたんだって。偶然、沖田くんの家も家族ぐるみでファンクラブに入るくらいその球団が好きで、ふたりは一気に盛り上がってた。
  野球はTVで楽しむくらいだった私も、そんな美春たちの勢いに感化されるように一緒に球場に足を運ぶようになる。そう言うときは沖田くんの連れである零士も同行した。名前を聞いてすぐにピンと来たよ、どうもお父さんが若い頃に漫画家・松本零士の大ファンだったらしい。本人は見た目「ハーロック」というよりもその親友「トチロウ」に近い感じだったけどね。
  盛り上がる沖田くんと美春の影で、彼の印象はとても薄い。でも何となく並んで歩くことの多かった私には、彼の目が何処を見ているのかちゃんと分かっていた。
「零士って、美春のことが好きなんでしょ?」
  ある日とうとう、そう訊ねていた。私の顔にどこか期待のようなものを感じ取ったのだろう、零士もまた意味深な笑顔になる。
「お前も悠介のことが気になってるんじゃないか、志穂」
  こちらの心内まで言い当てられて、私は自分の頬が熱くなるのを感じていた。でも、それを指摘してくれることを心のどこかで期待していた気もする。
  やっぱりそうだったのだ、美春は同性の私から見ても本当に魅力的な素敵な子だ。ハキハキと明るいだけじゃなくて、きちんとこちらが上手く伝えられない気持ちまでを汲み取ってくれる。そう言うところは沖田くんにもあった。そう、「悠介」というのはもちろん沖田くんの下の名前である。私たち四人は何処へ行くにも一緒だった。美味しいレストランがあると聞けば連れだって出掛け、小旅行に行くときもスケジュールを合わせる。美春とふたりでも十分楽しいけど、四人集まればもっと楽しい。もちろん少しでも沖田くんの近くにいたいという下心は確かにあった。それは零士も同じだったと思う。
  高校時代までの男子はがさつでデリカシーがなくて、人の気にすることばかりあげつらうような最低な奴ばっかりだと思ってた。だから胸をときめかせる相手も見つからなかったんだな。
  でも、沖田くんはそうじゃない。他の人だったら見逃してしまうようなちょっとした顔色の変化にすら敏感に反応してくれる。髪型を変えればすぐに気付くし、新しい服やカバンにもすぐチェックが入るのだ。もちろん頭も良くて雑学もたくさん身に付いていて、高校時代は生徒会の副会長をやっていたという話。
「あの映画、美春が見たいって言ってた。私、バイトが入っちゃってるから零士が誘ってみれば? きっと喜ぶよ」
「これ、悠介のストラップとお揃いの奴だ。志穂も買えば? 何だかペアっぽくていいじゃないか」
  運命共同体だった私たちは、お互いにそんな根回しを繰り返していた。もう必死だったと言ってもいい。だって、美春と零士が仲良くなれば、私は沖田くんとってことになる。お互いに想い人と上手く言ってくれれば、自分たちにとっても嬉しい結果が待っているのだ。すでに乗りかかった船は降りられない。何も知らない美春と沖田くんには申し訳ない気持ちもあったけど、結局は自分かわいさに流されていた。
  ――でも。
  楽しかった日々も、突然終わる。私と零士はお互いの友達から、事実を聞かされるのだ。ふたりはとうの昔から、特別な関係にあったのだと。
「ごめん、何だか言いにくくて。ずっと黙っていて、悪かったわ」
  いつになく歯切れの悪い美春の言葉。私はその裏にある気持ちを感じ取っていた。きっと彼女も知っていたのだ、私が沖田くんのことを特別な存在として見つめていたことを。だからこそ、長い間真実を告げることが出来なかったのだろう。そろそろ二年生の終わる頃だった。
  美春と向き合っているときは、どうにか平静を装うことが出来たと思う。でもいつものように「じゃあね」と分かれたあとに、どっと空虚な気持ちが押し寄せてくる。すぐさま零士を呼び出して、おなかの中に溜まったどろどろを一気に吐き出していた。
「あんたがそんな風に弱気だから上手くいかなかったんでしょう! 本当に美春のことが好きだったら、どうしてもっと積極的になってくれなかったの? もう、全部零士が悪いんだから……っ!」
  口惜しかった、だって私は沖田くんのことが大好きだったから。好きで好きでたまらなくて、多分美春よりももっと気持ちは大きかったと思う。なのに、沖田くんは私を選んでくれなかった。どうしてなのだろう、こんなに好きなのに。ちゃんと意思表示はしていたのに、何故伝わらなかったの?
  雑誌をチェックして流行りの服を選んだり、メイクだって自分の顔が一番綺麗に見えるようにと工夫した。沖田くんが「いいな」って言ったタレントさんがいれば、その子にちょっと似せてみたり。つま先が痛くなるほど背伸びして、少しでも自分の良さを分かってもらいたいと必死だった。どこをどう考えても、自分が美春に引けを取っていたとは思えない。
  行き場のない気持ちは、そのまま零士への怒りに変わった。大好きなふたりに悪意は抱きたくない、そうなれば矛先が向くのは零士だけだったから。
  口汚く罵る言葉が、あとからあとから出てくる。零士はひと言も言い返さなかった、下を向いたまま唇を噛みしめてどうにか自分の感情を抑えている感じだった。鼻の先が赤くなっていて、もしかしたら少し泣いていたのかも知れない。
  三年生に進んで、美春とは違うゼミを選んだ。とくに仲違いをしたわけでもなかったけど、その後は何となく疎遠になり顔を合わせることも稀になった。そしてまた、沖田くんや零士とも不思議なくらい接点がなくなる。心の傷を癒すには長い時間が掛かったが、そのときの苦い経験はその後の私の恋愛を大きく変えたと言ってもいい。

「……びっくりした、本当に久しぶりだね」
  何となくそんな気がして振り向くと、やっぱりそこに零士が立っていた。当たり前の社会人の姿をして、無理に大人びているような気がしてならない。そうか、あれからもう五年近くが経っていたんだ、そりゃお互いに変わるわね。
「うん、そっちこそ。これって運命の再会って奴か?」
  手にしていたタバコを足下に落とすと、慣れた仕草で踏みつぶす。ふたりの間にふわふわと踊る白い息。季節は秋から冬へ足早に駆け抜けていた。耳元がキンとする冷たさが、最後に言葉を交わしたあの日を思い起こさせる。こんな風に穏やかに笑顔で向かい合えるなんてね、本当に不思議。
「タバコ、止めたんじゃなかったの?」
  ヘビースモーカーってほどじゃなかったけど、出逢った頃の零士は時々タバコをくわえていた。彼が禁煙を決意したのは、美春のひと言がきっかけだったんだな。
「別に私は愛煙家を頭ごなしに否定するつもりはないの、でも出来れば目の前では吸って欲しくないな。なんかね……胸の奥が痛くなるの」
  美春のお父さんは40歳にならない若さで肺ガンで亡くなった。それをタバコだけのせいにすることは出来ないけど、一番身近にいた美春たち家族にとっては身体に悪いことを知りながら止めることの出来なかった後悔の気持ちがいつもつきまとっていたんだろう。
  悠介はもともとタバコを吸わなかった、零士が禁煙したことも私にとっては大きな問題でもなかった。ただ、みんなで食事をするときに当たり前に禁煙席を選べるようになって楽だなと思うくらい。本当に申し訳ないくらい、零士のことはどうでも良かったんだ。
「うん、別に嫌いになった訳じゃないから。やっぱりな、仕事でイライラしたときには一服すると落ち着くんだ」
  近頃はオフィスビルでも全館禁煙なんてところはザラ。ウチの会社も喫煙室は地下の物置スペースみたいな一角だけだ。掃除の当番が当たったときだけに足を踏み入れることになるその場所は、コンクリートの壁がむき出しで何とも貧相なイメージがある。ああいう場所で、零士も仕事の疲れを癒しているんだろうか。
「どうする、どこかで飲み直すか?」
  もう一本、と胸のポケットを探りかけて。零士はこちらを向き直る。中途半端なふたりの距離が、そのまま五年間の重みを感じさせるようなそんな気がした。
  四人組で過ごした日々が消滅して、そのときから私は変わった。今まで沖田くんにしか向いていなかった視線を、初めてキャンパス全体に広げてみる。こんなにたくさんの人が溢れていたんだと、当たり前のことに改めて気付いた。
  心に大きな穴を開けたまま迎えた新年度、すぐに同じゼミの男子から声をかけられた。近頃いつものメンバーといないけど何かあったの? とかそんな感じだったと思う。詳しく話す必要もないから曖昧に流していたら、「実は以前から気になってたんだ」とストレートに告白された。
  そのときの自分の驚きようと言ったら、今思い出してもおかしすぎて笑ってしまう。まさかこの世に私のことを気に入ってくれる人なんているとは思ってなかった。沖田くんに選んでもらえなかったんだから、もう一生ひとりぼっちでもいいとかすっかり投げやりになっていたみたい。
「かなり落ち込んでたからあのあとどうなるのかと思ったら、結構華やかに楽しくやってたみたいだよな。これでも少しは心配していたんだからな、あんまり拍子抜けさせないで欲しかったよ」
  そっちこそ、いきなり水割りなんてオーダーするから驚いてしまう。ウイスキーなんて呑んでるの一度も見たことなかったのに。悠介がそれほどお酒が強くなかったこともあって、居酒屋に出掛けてもビールやチューハイが中心だった。スーツに革靴の姿で現れただけでもびっくりなのに、もうこれ以上は勘弁してよという感じ。
「零士の方こそ、可愛い後輩に囲まれて鼻の下伸ばしちゃって。あんなに面倒見が良かったなんて、知らなかったわ」
  話をしなくなったとは言っても、広い構内のあちこちで私たちは幾度となくすれ違っていた。ほぼ二年間、毎日のように顔を合わせて馬鹿騒ぎをした仲だから、その行方はやはり気になる。
  零士は誰に誘われたのか、いつの間にか軽音部なんて場違いなところに首を突っ込んでた。ほとんど裏方仕事が中心みたいだったけど、いつ見てもわいわい楽しそうだったっけ。そのうちいつも同じ女の子と連れだって歩くようになってた。見たこともない優しそうな零士の眼差し、あれは「彼女」なんだってすぐに分かった。
「あはは、お互い様ってことか」
  就職した商社では外回りが中心で、毎日都内のあちこちを歩き回っていると言う。今日も飛び込みで新しい契約をひとつ取りまとめてきたんだと告げる誇らしげな笑顔。自信がなくておどおどしていつも沖田くんの影になっていた昔とは全く別人みたい。結構稼ぎもいいのかなあ、さりげなく着込んでるスーツもかなり品物が良さそうだ。ただ高級品って言うだけじゃなくて、ちゃんと零士に似合ってるデザインなのね。
「うん、……でも」
  氷ばかりになってしまったチューハイのグラス。ここのはグレープフルーツの生搾りのが美味しいよと教えてもらって、それを注文してた。頼んだ訳じゃないのに、零士は果汁を絞ってグラスに注いでくれる。手慣れた迷いのない手つきだった。
「そういうのって、長続きしないんだよね」
  相手からリアクションがあって、お付き合いが始まる。それが一番楽な成り行きだと考えていた。自分から好きになって、あれこれ頑張った挙げ句に玉砕したらあとには何も残らない。だけど初めから私のことを気に入ってくれてる人なら、そう言うハードルは一切無用。ただ私が、彼のことを好きになればいいんだから。
  きっかけはどうであれ、最初のうちは何もかもが新鮮で楽しい。彼はいつも楽しそうだし、そんな風にしてくれるのが私といるからなのだと思えばこっちまで嬉しくなる。噂には聞いていた都会のデートスポット、お洒落なレストランに夜景の素敵な展望台。ドラマや映画でお馴染みだった恋愛をそのまま体感する。
  けど、数ヶ月が経つと。だんだん付き合い方がマンネリ化して、面白くなくなってくる。どちらが何か悪いことをしたわけでもないのに些細な口げんかも増えて来て、彼の嫌なところばかりが目に付くようになる。それは相手も同じこと、終いには口を開くことさえ疲れてただただ惰性で続いていくだけの付き合いになった。
「君の気持ちが分からない」
  そう言われたって、困る。一体私が何をしたと言うの、原因が分からないわよ。もっと可愛く甘えられれば良かったの、でもべたべたつきまとわれるのは嫌いとか言ってたじゃない。
  別れのきっかけは色々だった。向こうに他に好きな人が出来たり、こっちがそうだったり。そこまでのことがなくても、二度三度と予定が合わずにいるうちに疎遠になっていくとか。
「こっちだって、それなりに努力はしたつもりなの。だけど、どうしても上手くいかなくなるの。結局は相手の気持ちに甘えてるばかりだから駄目なんだと思う。最初から気に入られてると分かってるから、すっかり安心してしまうのかな……」
  こんな話、久しぶりに会った零士にいきなり言っても仕方ないと思ってた。だけど、こういう話題って女友達にもしにくいものなのよ。彼氏のいる子からは「あんたの努力が足りない」と諭され、フリーな子からは「彼氏がいるだけ羨ましいわよ」と片づけられてしまう。
  私のことが気に入ってくれたという相手、告白の瞬間に彼の中で私の評価は100%の満点なのだ。一方こちらはと言えば、その人のことを恋愛対象として見ていなかったわけだから評価はナシの0%から始まる。
  その後付き合っていく過程で、相手の中には「想像とはちょっと違うな?」という幻滅が出てきて次第に評価が下がっていく。私の方は彼の意外な優しさに気付いたりして、少しずつ評価が上がっていく。
  実際に目に見えて分かることじゃない、でも何となく感じ取れるんだ。ふたりの中の評価が50%ずつで釣り合う地点、そこまではとても楽しく過ごすことが出来る。だけどいつも、その先のバランスが保てないんだ。
  彼のことを「いい人」だとは思えても、「好きな人」とは思えない。言葉でも上手く言い表せない、その微妙なボーダーラインが毎回目の前に立ちはだかる。たとえ端から見たら当たり前に恋人同士でも、分かり合えない部分はあるのだ。身体が繋がったからと言って、心まで繋がれるわけじゃない。結局はどこまでも他人同士なのだから。
「……そうか」
  途切れ途切れの私の言葉を、零士は最後まで聞いてくれた。間違っても話し上手じゃない自分のことは分かってる。格好つけてみたところで、すぐにボロが出ちゃう。零士にはあの頃からそんな自分を包み隠さず見せていたから、今更取り繕う必要もないのだ。
  カウンターの向こう側、私から一番遠い場所に置かれた灰皿に何本かの吸い殻がもみ消されている。ざわざわと賑やかな店内、みんな自分たちのことに夢中でカウンターの隅っこにいる私たちのことなど気にも留めないだろう。そう言う店を選んでくれたことを、感謝する。どんな失敗話だって、笑い飛ばせればすっきりするもの。
「何かさ、……こういうことってあるんだな。志穂と俺、情けないくらいよく似てる」
  零士は自嘲気味に笑うと、新しいタバコを一本取り出した。

 

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