scene 9 …


 

 いつの間にか、とろとろとまどろんでいたらしい。
  遠く近く降り注ぐ雨音。
  まだ脳天から打ち付けられているような気がする。ゆらゆら漂う眠りの境界線、その片端がぷつっと途絶えた。どれくらいの間、意識がなかったんだろう。額の真ん中に曖昧な気だるさが残っている。
「服、洗い上がったみたいだから乾燥機に掛けてきた。多分、1時間くらいでどうにかなるんじゃないかな」
  沈み込んでいたシートから慌てて身を起こす私に、零士は何気ない感じでそう告げる。先にシャワーを使わせてもらったときに、身につけていたもの全てを洗濯機に突っ込んだ。それが早くも洗い終わったみたい。夏のボーナスで買い換えた最新式だと言ってたけど、さすがに性能がいいなあ。
「あ、……うん。ありがとう」
  お風呂上がりに借りたこの服は、紳士物のLサイズくらいなのかな? 身体と布の間に若干の隙間が出来てる感じがする。とりあえず洗濯はしてあるという話だったけど、やっぱりどこか零士の匂いが染みついてるんだな。それがこそばゆくて仕方ない。
「何か飲むか?」
  その問いかけには黙って首を横に振る。いいよ、これだけ濡れ鼠になったら身体の奥までふやけてる気分だもの。この上に水分を取り込むなんて、ちょっと遠慮したい。
  初めて上がった零士の部屋。
  玄関の向こうがキッチンで、その奥が居間兼寝室。ほとんど一室を占領するような勢いで置かれているソファーベッドには驚いた。どうも先輩の引っ越しを手伝いに行ったときに不要になったものを押しつけられたらしい。確かに座り心地は最高だけど、どう考えてもひとり暮らしには持て余しすぎるサイズだ。
「もう気分は万年床って感じだよ」
  友達が遊びに来るたびに同じことを指摘され続けていたのだろう。床に落ちかけている毛布を拾い上げながら、零士は照れ笑いした。
  私を追いかけて濡れてしまったから、零士ももう一度シャワーを使った。また違う色のスウェットを着てる。私に貸してくれたのはねずみ色で、自分のはネイビーブルー。急に友達を泊めることになったときに困らないようにと何枚も用意しているそうだ。誰も気にしないようなことに気を遣うあたりが「らしい」なと思う。
  モデルルームのように片づいているとは言えないけど、破壊的に散らかっているわけでもない部屋。灰皿の吸い殻もマメに掃除しているなんて意外だな。もう古馴染みの域に入るはずなのに、まだまだ知らないことっていっぱいあったんだ。
  ―― 当然のように上がりこんでしまったけど、本当に良かったのかな。
  夜9時半。服が乾くまでの一時間をプラスしても、まだまだ余裕で戻れるはず。その頃には雨が小降りに変わっているといいけど。ここまでの道も明るかったし、わざわざ駅まで送ってもらうこともないだろう。
  明日は週明け、お互い普通に仕事が待ってる。頭の中でこれから先の段取りを考えながら、なかなか進まない時計を見守っていた。
  傍らでは濡れた髪をタオルでごしごししてる零士。TVでもつければいいのかな、でもそうすると完璧なくつろぎモードに入ってしまいそう。余計なことばかりが思い浮かんで、結局は中途半端なまま何も出来ない。
  どうしてこんなに意識してしまうのだろう。零士は零士、どこがどう変わったって訳でもないのに。
  今夜ここに来て、全てを終わりにするつもりだった。それは嘘じゃない。非日常的な一日がもたらした関係の「ズレ」、そこを修復しないと私たちは前に進めない。零士の相手は私じゃない、私の相手も零士じゃない―― そんなこと、改めて考えるまでもなく最初から分かってる。この思いがけない再会はお互いが本当に幸せになるために起こったことなんだから、そこを取り違えたら駄目だ。
「……志穂?」
  私があんまり大人しかったからかな、零士が様子を探るように訊ねてくる。
「もっと着込んだ方がいいか? そうだ、何か上着を――」
  そこまで言いかけて、振り向く。その視線は私の指先を捉えていた。もう、言葉を発することすら億劫になってるの。腕を伸ばして柔らかい布地を引っ張ると、私はもう一度首を横に振った。
「そうか」
  短い受け答え、まだ戸惑っているのが分かる。ふたりして、半端な待ち時間を持て余してた。早く、時計の針が回ればいいのに。私の中に芽生えた不思議な感情が膨らまないうちに。
  会話が途切れると、また外の荒れ模様が窓越しに生々しく響いてくる。今夜はずっとこんな感じかな、明日は晴れるといいのだけど。週明けに天気が悪いと、そのまんま一週間が薄暗く過ぎていく気がする。
「……しょっと」
  と。
  私の座る右側が大きく沈んだ。見ると、タオルを肩に掛けた零士が隣りに座っている。間にひとり人が入れるくらいの隙間は空いていた。これくらいの距離は今までに何度も経験してる、カウンター席に座ればそれこそ肩が触れ合うくらい近くなっちゃうしね。
「止まないなー……」
  窓の方を振り返って、のんびりとそんな風に言う。やだな、私ばっかりこんな風に意識しすぎて。冷静になろう、なろうって思うのに、そんな想いと裏腹に鼓動がどんどん激しくなっていく。
「……そうだねー」
  一応、短く答えて。それからちょっと身体の向きを変える。さっきからどれくらい時間が経過したかな、零士の向こうにある時計を確かめようとしたんだ。
  ―― あ……。
  その刹那、指先に感じたぬくもり。
  中指の先端が、零士の手に触れていた。すぐに振り払おうと思ったけど、そう言うのって逆に意識しすぎな気もして迷ってしまう。彼の方といえば、全然気付いていない様子だもの。さっきからずっと、こちらを見ようともしない。
「傘、使ってないのあるかな? 借りないと、帰れないかも」
  意識しないように、意識しないようにって心で念じて。途切れ途切れの会話を続けていく。また沈黙に戻れば、余計なことを考えちゃうもの。それって、良くない。どうにか時間をつなげていかなくちゃ。
  だから、零士もちゃんと応えてね。
  願いを込めて見守る横顔。こちらからは影になっていて、その表情がよく分からない。やっぱり無理してでも飲み物をもらえば良かったかな、そうすれば少しは場が保てたのかも。少なくとも両手が塞がるものね。
「……?」
  返事はなかった。だけど、その代わりに私の右手が零士の左手にふわりと包まれていく。一体どういうことなのって、声に出して訊ねることも出来ない私。だけど、……たったこれだけのことで信じられないくらい気持ちが安らいだ。
  耳元にまた激しい雨音が戻ってくる。けど、もう何も怖くなかった。零士が側にいてくれる、すぐ隣にいてくれる。もしも世界が水浸しになったとしても、少しも恐れることはないんだ。
  心のつっかえ棒が外れて、すごく楽になった。そしたら、……今度は私の方から自然と零士にもたれかかっている。別にそうしようと思ったつもりもなかった、ただぬくもりをもっと近くに感じたくて。
「……あったかい……」
  だけど、まだ足りないなって思った。もっともっと、隙間がないくらい近くに行きたい。そうすることが今のふたりにとってとても自然な気がした。だけど、その気持ちを上手く言葉にして伝えることが出来ない。
「そうだな」
  ふいに左の肩が温かくなる。静かに引き寄せられて、そのまま抱きしめられて。想像以上の熱さを、私は頬に感じ取っていた。
  無意識のうちに。ふたりの間に中途半端に折れ曲がって挟まっていた自分の腕を、ほどいて零士の背中まで回していく。そうしたら、今度こそぴったりとくっつくことが出来た。不思議なほど躊躇いがないことに、頭の隅っこで冷静に驚く。首筋に絡みつく吐息。
  次の言葉が、見つからなかった。
  重なり合う鼓動。どうにか心をたぐり寄せようとするのに、何故か上手くいかない。様々な感情が頭の中に散らばって、すでに収拾がつかなくなっていた。
  零士もそうなのだろうか。お互いがどうとかそう言うことは考えられなくなっていて、ただただ自分の内側から溢れてくる感情を必死に伝えようとしてる。震える指先が、目に見えないものを捉えようとさらに深く彷徨っていく。
  もつれるようにマットに倒れ込んで、流れ出した勢いを止めることも忘れていた。
  ―― どうして……?
  嵐から逃れたはずの部屋の中で、熱い疼きが次から次へと湧き上がっていく。その部分を的確に捉えてゆく自分じゃない指先、しっとりとした唇の熱さ。
  ―― 違う、私が望んでいたのはこんな瞬間じゃない。
  わずかに残った理性が、有り得ないはずの行為を必死で押し戻そうとする。だけどそれよりも強い力に支配されて、どうすることも出来ない。このまま自らの心が向かうべき方向に従わなければ、私は粉々に壊れてしまう。
「……っ、あんっ、……はぁっ……!」
  戸惑いの欠片が、感覚の渦に取り込まれていく。私に覆い被さる影が、身体の隅々までを浸食して全てを吸い尽くそうとしている。心よりも身体が先に動き始める、なんて恐ろしいことなのだろう。そして、例えようのないほどに甘美な痛みなのだろう。引っかかりのないシートの表面に爪を立てていく。
「志穂、……志穂……っ」
  何かを必死に追い求めるように、零士の言葉が宙を舞う。私はここにいるのに、何でそんなに遠いもののように探しているの? 零士が辿り着きたいのは、一体何処……?
「やんっ、……やぁんっ!」
  途中からは何もかもを投げ出していた。
  中途半端な躊躇いも、大きな波の中に飲み込まれていつかその行方を失っている。どうしても行きたい場所がある、だから前に進まなければ。その方角も分からないのに、私はどうしても行き着かなければならない。
  当たり前の男と女のように身体が繋がって、さらに互いの奥を求め始める。かつて考えたこともなかった衝撃が、その瞬間に私の身体を突き抜けた。薄い膜が隔てていることなんて、もうとっくに忘れている。
  ―― 開かれてしまった禁断の扉、だから全てが狂い始めた。
  互いの内側にひた隠しにしていた野生が、にわかに疼き始める。その鍵を外したのは私? ……それとも、零士? ううん、もうそんなことはどうでもいい。
「駄目っ、……もっとっ、もっと……!」
  深いところから一気に押し上げられて、あっという間にたかみまでのぼりつめていく。だけど、私はまだ求め続けていた。互いの重なり合う一番深い場所、まだそこまで辿り着いていない。それなのに、おしまいにしないで。まだ何も掴んでいないのに。
  声にならない叫びが頭の奥に響き渡って、全てが白く消し飛んでいく。
「大丈夫だ、……堪えなくていい」
  霞んでいく意識の中で、確かにそんな声を聞いた。

  身体が羽根のように軽い。
  暖かな眩しさに包まれて、今までに感じたことのないほどの安らぎが内側から溢れていた。何だろう、この気持ち。私は一体、何処に辿り着いたというのだろう……?
  目覚めの直前に、瞼の裏で見た幸せな夢。そう、それが「夢」であると言うことすらなかなか実感することが出来なかった。
「おい、……そろそろ起きないとまずいぞ」
  ハッとして、目を開けていた。
  目の前にはすでにシャワーを浴び終えている零士。下着代わりのTシャツに、昨日と同じスウェット。髪からは雫がしたたってる。
「いっくら起こしても駄目なんだからな。こんなに寝起きの悪い奴だとは思わなかったよ、呆れたな」
  こぽこぽとコーヒーメーカーが音を立てている。昨日とはうって変わった上天気、カーテン越しに眩しい朝の光が差し込んでいる。私も、昨日と同じ格好。零士に借りたスウェットに身を包んでいた。
「服、乾いてるみたいだから着替えて来いよ。まあ、昨日の格好と同じままじゃ出勤できないだろうから一度自分の部屋まで戻らないとな。ま、……どうにかそれくらいの時間はありそうだし」
  目をこすりながら起きあがると、零士はさっさとその場を離れる。私にはお構いなしに、勝手に朝支度を続けているみたい。
  夜明け間もない時間なのに支度が早い、もしかしたら今日は早出なのかな。そんな風に考えていると、今度はトーストが焼けるいい匂いがしてきた。
「あ……、うん」
  ぎこちない違和感。何だか、どこかおかしい。だけどその理由が何なのか、よく分からない。だって、目の前にあるのは当たり前な朝なんだから。
  ―― もしかして、昨夜のことは何もかも全部夢だったとか?
  期待とも絶望とも取れる感情が、しかしすぐに打ち消される。服を変えるために飛び込んだ洗面所、鏡に映った私の肌には数え切れないほどの花びらが散っていた。

 

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