「ねえ、また来てる。……ほら、あの人でしょう?」
オーダーのアレンジフラワーを作り終えたばかりの作業台を片づけながら、同僚の由貴が私に耳打ちしてくる。聞こえなかった振りで無視を決め込もうとしたら、そうはさせるかと言わんばかりに腕を掴まれた。
仕方なく振り向いてみれば、そこにあったのは芸能レポーター顔負けに生き生きとした眼差し。フラワーショップの店先にはおよそふさわしくないディープ・レッドのルージュに彩られた口元は、一度動き出したら止まらなくなるのが難点だ。
「ほらほら、いいの? 出て行かなくて。あなたのこと探してるのよ、きっと」
入荷したばかりでまだ荷ほどきを済ませてない花の束やアレンジ用の籠、天井から下がった色とりどりのリボン。密林ジャングルのような舞台裏から覗けば、昼下がりの日差しをいっぱいに浴びた歩道の上でうろうろしている人影が見えた。グレイと言うよりは鼠色という言葉がぴったりのスーツに、えび茶色のネクタイ。他にも店内にお客様は何人もいるけど、由貴の言葉が彼のことを指しているのはすぐに分かった。
「そんなこと……、私には関係ないわ。ねえ、それよりゴミはこれだけでいいの? 袋が一杯になったから裏に片づけてくるわね」
ブルーの燃えるゴミの袋を持ち上げて、私はさっさと話を切り上げようとした。全く、狭い職場はこれだから面倒。同じ顔ぶれで過ごしていると、話の矛先はすぐに噂話に向くのだから。女ばかりの世界は学生時代にも経験なかったし、戸惑うことばかりだ。
「ああ睦美ちゃん、ここにいたのか」
そこに顔を見せたのは店長。彼は由貴の方をちらっと見て、「静かに」って言うみたいに唇に人差し指を当てた。彼女の声は響くから、もしかしたら外の方まで聞こえていたのかも。スタッフの無駄話とか、やはり印象良くないものね。
「悪いけど、表の鉢植えをもう少し外側に出してくれないかな? あ、そっちは僕がやっておくから」
ひょいっとゴミの袋を取り上げられて、私の両手は空っぽ。小さく溜息をついた背中を、由貴が笑いを堪えながら軽く肘で突いた。
花屋の仕事というのは見た目の優雅さとは異なり、とにかく地味で重労働。その上、水仕事と力仕事ばかりで「匂いは違えど、魚屋さんと大差ない」と言うのが大方の意見だ。バケツひとつを持ち上げるだけでも、長時間続けていればかなりの体力を使う。何しろ中にはたっぷりの水が入っているのだから。働き始めて半年ほど、この頃ではだいぶコツを掴んだけど、最初の頃はかなり腰を痛めた苦い思い出がある。
駅前通りに面した立地条件も幸いして、いつもそれなりの客入り。近くには大きな公会堂もあるし、バスに揺られれば山裾に共同墓地もある。パーティー会場からの急ぎの注文が入ったときには、従業員総出で徹夜作業になることもしばしばだ。
決して楽な職場ではない。でも、それでもこうして続けているのはやっぱり花が好きだから。それに、ほとんどの花をスタッフは30%引きで購入出来るというのも大きい。全国どこにでも発送して貰えるから、遠く離れた知人への贈り物にも重宝している。
今はまだ下っ端の雑用係だけど、もう少ししたらきちんと勉強して花束とか綺麗に作れるようになりたいと思っている。確かにやる気さえあれば誰でも成功するわけではない業界だとは聞く。でも、やっぱり手に職があれば一生やって行けそうな気がするし。
景気も回復してきたとは言うものの、まだまだ就職は厳しいご時世。このショップに落ち着くまでは、私も短期のバイトを転々としていた。即戦力になる資格を持たないままでは「大卒」という肩書きはかえって邪魔になる、それは就職活動で痛いほど経験済み。
「申し訳ございません、後ろ失礼致します――」
深々と頭を下げながら、お客様の背後をすり抜け店頭の鉢植えのコーナーに進む。ひさしよりもはみ出ると駄目という決まりがあるらしく、ギリギリのところを確認しながらひとつひとつ動かしていくのが難しい。日当たりを考える意味もあるけれど、やはりこの子たちは「客寄せ」の役割が大きい。綺麗に見せるように飾るのもコツがいる。
「……あの」
半分くらいの鉢を移動し終えた時、遠慮がちに声を掛けられる。中腰の姿勢のまま、一瞬指先の動きが止まった。でもすぐに立ち上がり、くるりと声の方を振り向く。
「いらっしゃいませ!」
そこに立っていたのは、やはり「彼」だった。ホッとした笑顔、短く切りそろえた髪に午後の日差しが落ちている。すでに予想は付いていたけど、それでも胸奥がちくりと痛んだ。さっきちらりと姿を見てからすでに10分以上が経過している。もしかしたらあのまま、こちらに気付かずに立ち去ってくれたのかと期待していたのに。
「すみません、こちらの花の束を頂けますか……?」
彼の指さす先にあったのは、「お買い得品コーナー」の花束。セロファンでくるんと包んであるのは丈がバラやガーベラなどを数本にかすみ草とグリーンが少し。スタッフの中で手の空いた人が合間を見て、前日に売れ残った花で作ったものだ。この仕事なら私にもやらせてもらえる。
「はい、おひとつで宜しいですね? それでは350円になります」
受け取った500円玉は少し生ぬるかった。もしかすると、だいぶ前から握りしめていたのかも知れない。私は「少々お待ち下さいませ」と言い残して、そそくさとその場を離れた。お買いあげの花の束の根元は水に濡らした柔らかいキッチン用のペーパーとアルミホイルで包む。レジを担当していたスタッフに打ち出してもらいおつりを受け取ると、彼のところまで戻った。
「お待たせ致しました、こちらはおつりになります。いつもありがとうございます」
私の言葉に反応するように、彼もぺこりと頭を下げる。花を手渡すときにちらっと見れば、その指先にはブルーのインクが少しだけ付いていた。
決まり切ったやりとり、時間にしたらほんの1分か2分の出来事。お店に出ている日だったら、朝から晩まで数え切れないほど同じことを繰り返している。
だから最初のうちは全く気にも留めていなかったし、同僚たちに指摘されるようになってからも何を馬鹿なことを言ってるんだろうと思っていた。中には世間話などを始めるお客様もいて、そのような方だとこっちも記憶に残りやすい。でも、彼は違う。ただいつも、350円の花の束をひとつ買い求めるだけ。申し訳ないけど、繰り返し顔を合わせていることすら気付いていなかった。
皆の話を総合すると、彼がこの店に来るようになったのは私がここに勤めだしてしばらくしてから。その頃こっちは慣れない職場でいっぱいいっぱい。とても周りを見渡すゆとりなどなかった。
「あのお客様、もしかして睦美ちゃんが目当てなんじゃない?」
いつしかそんな噂が仲間内で広まっていき、私も何となく意識するようになった。言われてみればその通りで、彼は他のスタッフがすぐ近くにいても必ず私を探して声を掛けてくる。最初は自意識過剰なのかと思っていたが、何度も同じシーンに出くわせば偶然の一致という言葉では片づけられなくなった。
「やめてよ、仮にもお客様に対して失礼じゃないの」
雑談のついでに話が振られるたびに、すぐさまそのように切り返していた。それでも「人の口には戸が立てられず」とはよく言ったもの。今では由貴のように週に何度も顔を出さないスタッフにまで話が知れ渡っている。少し我慢すればすぐに話題は他に移るだろうという期待もあっけなく裏切られた。
一度の買い物は500円玉でおつりが来るほどのささやかな金額。五千円や一万円という大きな花束を求めるお客さんも少なくないから、彼の存在などはその他大勢の中に埋もれてしまっても良さそうなもの。しかし、そうは出来ない理由がある。
花屋のお客と言えば、圧倒的に女性が多い。しかも仕事が休みのはずの土日を含めてほとんど毎日欠かさず訪れれば、どうしても目立ってしまう。何故それくらいのことに気付かないのかと、こちらがヤキモキしてしまうほどだ。
「だって、あのお客様、睦美ちゃんがいないときはそのまま手ぶらで戻っちゃうんだよ? やっぱ、直接声を掛けるのが目的なんじゃないかなぁ。いい人っぽいじゃないの。確かに見た目は地味だけど、真面目そうだし優しそうだし。絶対いいと思うんだけどなーっ!」
スタッフのほとんどは女性、忙しいときだけ声を掛ける人を含めて15名登録されていて男性は配達専門のふたりだけ。店長は既婚者だし、あと仕事上で接する機会のある男性と言ったら出入り業者かお客様くらいだ。およそ「出会い」というものに恵まれていない職場では、「彼」の存在も貴重になっている。お節介にも私にけしかけようとする仲間まで現れて、さすがにげんなりしていた。
「大人しそうな人だから、思い切ってこちらからリアクションを起こしてみるのもいいんじゃない? きっと上手く行くとおもうよ? 睦美ちゃん、今付き合ってる人とかいないんでしょ、そう言ってたよね」
……なんて言われたところで、どう返答していいものか悩んでしまう。みんなが好意で言ってくれてるのは分かるが、こちらとしては迷惑の他の何者でもない。あまりきつい言い方をするわけにもいかないし、どうしたものだろう。早いところ、彼の方が飽きてくれるのを祈るのみなのか。
「睦美ちゃん、表が済んだら今度は里沙さんの補助に入って。急な注文が来たから宜しくね」
店長の声にハッと我に返る。もう一度背筋を伸ばして通りの向こうを眺めてみたが、あの鼠色のスーツはあっという間に人混みに消えていた。
――花束を手にした男性。
映画のスクリーンやドラマのワンシーンならば、この上なくお洒落に見えるお馴染みの姿である。でも、この仕事を始めて、私は自分が思っていた以上にプライベートに花を購入する男性が少ないことを知った。
彼らは「花」と言うものを何か特別の堅苦しいものだと認識しているような気がする。本当はそうじゃないのに。たとえばチューリップやフリージアがほんの一本だけだったとしても、その効果は絶大だ。そんな簡単なことに気付かないなんて、もったいないなと思ってしまう。
だから、彼が毎日のように小さな花の束を買っていくのを見て、てっきり意中の相手でもいるのかと考えていた。今でもまだそれを心のどこかで期待している気がする。ただのひとりのお客様としてであれば、彼は私にとってもこの店にとっても申し分のない存在なのだから。
早出の朝は忙しい。
一晩締め切っていた店のシャッターを開けて、奥から店先まで全て丁寧に掃き掃除をする。昨日店を閉めた後に一度掃除してあるけど、花びらが落ちたり土がこぼれたりでどうしても汚くなってしまう。お客様の印象を良くするためにも整理整頓は基本中の基本。気が抜けない。
私はこの店で一番の新入りだから、任される仕事も裏方的なものが多いことは前にも言ったとおり。忙しい職場だけに先輩スタッフが尽きっきりで新人指導をしてくれる暇などなく、見よう見まねでひとつずつ技術を「盗む」状態だ。
もちろん、花の仕入れは朝5時出発で店長と男性スタッフが片道1時間ほどの市場まで足を運んでいるというから、私の仕事なんて大したことはない。営業時間中はほとんど顔を見かけることはない男性陣は、外回り専門でほとんど一日中車を走らせているのだ。
「見てみてーっ! このチューリップ、新種なんだって。すごく可愛いよね、せっかくだから目立つ場所に置いちゃおうよ」
ガラス張りの保冷庫の前では、先輩スタッフが狭いスペースに身体を寄せ合うようにして切り花の入れ替えをしていた。階段式の棚を置いてあり、そこに見やすく取り出しやすく種類別に小分けにしたバケツを並べていく。色のバランスもさることながら、実はさりげなく値段ごとになっているのがすごいと思った。
勤めだしたのは夏の暑さがようやく引いた頃だったのに、今はもう辺りはすっかり春の装い。三月は卒業式や卒園式、そして職場の異動など花屋にとっては一年でもっともかき入れ時だと言ってもいい。普段はパートで週に1日とか2日出ているベテランスタッフさんも、この時期だけはフル稼働になると聞いている。小さなお子さんは一月だけベビールームや一時保育に預けるそうだ。
店の内外に溢れている鉢植えにひとつひとつ水をあげて、開店準備はほぼ終了。その頃にはもうお客様がいらっしゃる。今、裏の方では今朝仕入れてきた花たちの水揚げ作業が続いているはずだ。掃除が終わったら、今度はバックにいる先輩スタッフと交代しなくてはならない。花束の注文が来てから慌ててもいけないし。家庭の事情でゆっくり出勤の従業員も多いので、朝はどうしても人手が足りずやりくりが大変だ。
「……すみません」
エプロンの脇に下げたタオルで手を拭きつつ歩き出したところで、後ろから声を掛けられる。聞き覚えのある声に振り返ると、そこに立っていたのはやはり「彼」だった。
「おはようございます、いらっしゃいませ」
咄嗟に作った営業用スマイルで対応しながら、今日は何でこんなに早いんだろうと考えてしまった。いつも彼がお店に来るのは決まって昼下がり。まだ開店間際で、切り花の束も作っていない。
「……あ、ちょっと早すぎましたか」
彼もそのことに気付いたのだろう。ばつが悪そうに照れ笑いをした。その後、しばしの沈黙。どうするのかと思っていたら、ごそごそと内ポケットから何かを取り出した。どこにでもありそうな定型サイズの茶封筒。表には印刷屋さんの店名や連絡先が入っている。
「もらい物なんですが、……宜しかったら一緒に行きませんか?」
ハッとして中を確かめると、そこに入っていたのはすぐそこの公会堂で今週末に行われるミュージカルの招待券だった。それも前から5列目の真ん中という、普通だったら手に入らないようなチケット。
「……?」
情けないばかりだが、最初はただ彼から500円玉以外のものが手渡されたと言うことに驚いてしまっていた。なかなか自分の置かれた状況が把握出来ない。ぼんやりと見上げた彼の顔は、少し赤らんで見えた。
「も、もちろん。ご都合が合えば、ですけど……」
――ああ、そうか。もしかして、私は誘われているんだ。
そう思った瞬間に、目の前にいるはずの彼がとても遠い存在に変わっていく。それどころか私を取り巻く風景の全てが白く霞がかっていく気がする。さらに何か言葉が耳に届いたようにも感じられたが、もうその内容を認識することは出来なかった。
「申し訳ございませんが……困ります、こう言うのは。――失礼致します」
必死で封筒を突き返したところまではかろうじて覚えている。ただ、その時の彼の顔はどうしても確認出来なかった。
仕事を辞めることも考えた。
でも忙しい時期に自分の勝手な理由だけで職場に迷惑を与えることは出来ない。私に出来ることは微々たるものではあったが、それでもひとりのスタッフとしての働きがあると認められて雇われているのだ。色々お世話になったり教えてもらった恩もある。どうしても無責任な行動には出たくなかった。
「ねえねえ、彼、来てるよ? 出て行かなくていいの」
驚いたことに、彼はその後もいつも通りに店先に訪れた。何も知らない仲間たちは、お節介にも色々と気を回してくれる。でも、もう無理だと分かっていた。彼が私に対して特別な想いを抱いてくれているのだとしたら、取るべき道はひとつだけ。あれだけはっきりと拒絶したのだ、分かって欲しい。彼だって、とっくに大人なのだ。人の心が自分の思い通りに動かないことも理解しているはず。
「……ごめん、代わりに接客して。彼が帰ったら、すぐに替わるから」
鏡など見なくても、自分の顔から血の気が消えているのは分かる。由貴は「本当にいいの?」という眼差しを残して、私の言葉を受け入れてくれた。
二言、三言。言葉を交わした後に、彼は由貴に何かの紙切れとお金を差し出した。笑顔でそれを受け取ると、一度レジを打ちにいって戻ってくる。彼は結局手ぶらのまま、おつりだけを受け取って去っていった。
「田舎の妹さんにお花を送りたいんですって、高校卒業のお祝いだって言ってた」
それだけ私に伝えに来ると、由貴はさっさと自分の仕事に移る。アレンジフラワーならば、彼女の専門だ。店長にひと言断ってから、どんどん花を選んでいく。オレンジと黄色をメインにした快活そうな花の束を遠目に見ながら、私は少し荒れた指先で自分の腕をさすった。
「そう言えば、来ないよね?」
「うん、もう1週間近くならない?」
閉店間際、そんなやりとりが聞こえてきた。何の話をしているのかはすぐに分かる、そしてわざわざ私に聞こえるように意識していることも。それでも無視を続けていると、とうとう思い余ったのか由貴が私に直に声を掛けてきた。
「ねえ、睦美ちゃん。今日はもう上がりでしょ、悪いけど頼まれてくれない?」
有無を言わせぬ強い口調で、彼女は私に店のロゴが入った桜色の封筒を差し出した。
「この前ご注文を受けた花かごのお客様控え伝票なの。またすぐにいらっしゃるかと思ったからそのままにしてしまったのよね。お花がきちんと届いたならそれでいいとも思うけど、やっぱりこういうのはきちんとしなくちゃ」
私が店長に叱られてしまうのよ、と由貴は小さな声で付け足した。
「勤務先の電話番号にかけてみたら、この3日くらい欠勤しているんですって。携帯にも通じないし、これは自宅に伺うしかないかなって。ほら……あなたのアパートのすぐ先でしょう」
封筒の中には伝票の他に彼があらかじめ書いてきたというメモ用紙が入っていた。真面目そうな四角い文字がきちんと並んでいる。そこに書かれていた住所は、確かに私の住んでいるアパートからさらに10分ほど歩いたところだった。
同じ街に住んでいたんだという事実に始めて気付き、少なからず驚かされる。彼の勤務している印刷会社は、この通りを少し歩いたところ。彼と私は、毎日同じ駅を使って生活していたのだろうか。本当に何ひとつ彼のことは知らないままだった。名前すら、今初めて目にする。
「無理は言わないよ、直接顔を見たくないならポストに投函してくるだけでもいい。どうしても駄目なら、自腹を切って郵送するんだけどね、出来れば手渡しして欲しいんだ。もともとはこちらに落ち度があったんだし、私に代わってひとことお詫びしてもらえると嬉しいな」
何かを含んだ由貴の言葉に、私は気付くとその封筒を受け取っていた。
彼が店を訪れなくなった理由は、きっと私にある。そう信じていたから、心にわだかまりを残したままでも乗り越えなくてはならないと思っていた。
私には、何があっても彼の想いに応えることは出来ない。それだけは確かだ。今付き合っている人がいるとかいないとか、そんなことは関係ない。私はこの先もずっと、ただひたすらにひとつの場所を目指して歩き続けるだけだ。
繋いでいた手を振りほどいて、ひとりでさっさと先に逝ってしまった人。あの人に再び巡り会う日まで、私の旅は続いていく。人々の心の中から次第に薄れていく存在。私だけでもしっかりと鮮明に覚えていなければ、あの人が可哀想だ。
あの夏の日。愛することも愛されることも、私はもう一生のすべてを使い果たしてしまった。この先に何が起こることはない。今でもこの心は全てあの人の為に存在している。それを「犠牲」とか「献身」とかそんな言葉で片づけるつもりはない。
ふたりで過ごしたあの部屋で、ふたりの思い出の中で生きることが、私の全て。私の中からあの人が消えた瞬間に、きっと私も消えてしまう。
果てしなく長い時間。絶望の中に沈んでいた娘を知っている両親は、全てを許してくれた。
早出の日は出勤が7時半だから、上がりは定時が4時半。今日は週末の金曜日で何かと慌ただしい。結局残業が一時間付いて、色々片づけて店を出る頃には6時近くになっていた。だいぶ日没も遅くなってきたけど、さすがにこの時間は辺りが暗くなっている。でも、歩いて歩けない距離ではないだろう。そう判断して、街灯がぽつぽつと続く歩道をゆっくりと進んでいった。
彼の部屋は、大通りを少し入ったところにあった。すぐ側を細い川が流れていて、その両脇にずらりと建物が続いている。向こう岸にも同じようなアパートがあって、ベランダの洗濯物がひさしの下でではためいていた。一昔も二昔も前の「下町」の情景。それが突然目の前に現れたことが不思議でならなかった。
アパートは2階建て。彼の部屋は1階の奥から2つめだった。「田端」と手書きで書かれた表札を何度も確認する。格子の付いた曇りガラスの窓から覗いても中は真っ暗。もしかしたら、留守にしているのかも知れないと思った。それならそれでいい。分かるように封筒をドアのポストに差し込んでいけばいいのだから。
「ごめんください」
小さく二回ドアをノックして、それから声を掛けてみた。TVの音が聞こえてくるのは隣の部屋からだろうか。じっと耳を澄ましていると静まり返っていた部屋の中からごとごとと物音が聞こえて、またすぐに静かになった。
「ごめんください、……あの」
鍵は掛かっていなかった。ぐるりとドアノブが回る。少しだけ開いてもう一度声を掛けてみたが、やはり返事はなかった。それならば、これ以上立ち入ることはないだろう。封筒を置いて戻ればいい。頭ではそれが分かっているのに、どういう訳か足が動かない。開け放ったドアからするりと流れ込んだ夜風がそのまま短い廊下を通り過ぎて奥の部屋まで駆け抜けていった。
――と、その時。
思わず、ごくりと息を飲んだ。気のせいかも知れない、でも……確かに聞こえたのだ。小さな呻き声が。ハッとして、慌てて靴を脱ぐとそのまま中に進んでいった。ぎしぎしと床を踏みしめながら進んでいくと、すぐに突き当たりの部屋に辿り着く。窓の外の薄明かりを頼りに電気のスイッチの紐を探した。
「……きゃっ……!」
一瞬のうちに目の前に現れた全てに、自分の目を疑った。突き当たりに掃き出し窓のあるその部屋は多分6畳くらい。家具らしき物はほとんど見当たらず、スーツなどもハンガーに掛けてそのまま鴨居に引っかけてある。雑然と散らかった床も男性のひとり暮らしとしてはまあ許される範囲であった。だから私が驚いたのはそんなことではない。
「あ、あのっ。……大丈夫ですか?」
部屋のほぼ真ん中に敷かれた布団。そこから身体を半分這い出そうとした状態で彼がいた。その場にしゃがみ込んで、声を掛けてみたがすぐには返事もない。咄嗟に触れてみた肩先が信じられないほど熱かった。
「み……水を……」
救急車を呼んだ方がいいのかと一瞬携帯を取り出しかけたが、その時に彼のかすれる声がそう告げた。よくよく見ればすぐ側に薬の袋が転がっている。日付は昨日のもので、とりあえずきちんとお医者さんにかかって風邪の診断を受けたらしいと言うことが分かった。
「お水、ですね?」
すぐさま立ち上がると、ガラス戸の向こうの台所に飛び込む。本当はミネラルウォーターの方がいいかなと思ったが、今はそんな悠長なことを言ってはいられない。ガラスのコップを見つけてそれに水道水を汲むと、彼の元に戻った。
多分、ひとりではきちんとコップを持つことすら難しいだろう。震える手つきを見てそう判断して、両手を添えた。半分くらい飲んだところで一息ついたので、そこでいったんコップを置いて薬の袋を改める。錠剤も粉薬も受け取ったまま封を切ったあともなかった。
「お薬ですよ、飲めますか?」
抱き起こしてあげられればそうしたかったが、ぐったりした成人男性を支えるのは体力的にどう考えても無理。仕方なく身体を横に向けた状態で口を開けてもらった。飲み込むには辛い姿勢だとは思うけど仕方ない。ひとつひとつ薬の種類や数を確認しながらどうやら全てを終えた頃にはこちらまですっかり疲れていた。
ずれたままの身体は元に戻せなかったが、それでも布団をきちんと掛け直してみる。かなり荒い息、熱もだいぶ高いのだろう。きっと側にいるのが私だと言うことすら、分かっていないに違いない。
――どうしよう、これから。
何故、よりによってこんな場面に出くわしてしまったのだろう。実際のところ、彼に対しては何の義理もない。確かに顔見知りではあるけど、由貴に任された用事を終えれば立ち去って構わないはずだ。ううん、絶対にそうするべき。これ以上、この人に関わっては駄目。
心の中で繰り返し警笛が鳴っている。時折苦しそうな呻き声を上げる彼の姿を見つめながら、私はただ途方に暮れるしかなかった。
部屋の隅。見覚えのある花束がいくつかが、バケツの中でひからびている。悲しそうにうなだれたバラの残骸は、かつては綺麗なベビーピンクだったはず。紅茶色に染まったかすみ草が悲しげにその周りを縁取っていた。
ことりと何かが動く気配を感じて、ぼんやりと瞼を開く。意識が途切れる瞬間に最後に見たその姿が、やはり視線の先にあった。
時が止まってしまった部屋、中を満たした空気がよどんでいる。いつの間に夜が明けていたのか。点けっぱなしだった蛍光灯の色がぼんやりと霞むほどに、明るい光が他人行儀に部屋じゅうを染め上げていた。
「……どうして」
振り向くと、そこには布団から上体を起こした彼がいた。
「何故、……君がここにいるの?」
さらさらと髪が脇を流れて頬に掛かる。仕事中は後ろでひとつにまとめているから、こんな風にたらしたままの姿は珍しいのだろうか。信じられないと言わんばかりの面持ちでこちらを見つめる彼に対し、私はただ曖昧な微笑みで応えるしかなかった。
昨日はあれから。
何度も戻ろうと思い、でもそうすることが出来ないまま気が付いたら深夜になっていた。粗品でもらったまま封も切っていなかったタオルを部屋の隅に見つけ、水ですすいで額に当てる。それが功をなしたのかそれとも薬が効いたのか、彼の呼吸は時間を追うごとに穏やかなものに変わっていった。
思えば、誰かの気配を部屋の中で感じることも久しぶりな気がする。それほど時間を掛けなくても戻ることが出来る実家にもなかなか足が向かず、私はひとりのアパートと職場を往復するだけの日々を過ごしていた。家族も、そして近所の人たちまでが私の身の上に起こったことを全て知っている。好奇と同情の視線に晒されるのは、どんなに時間を過ごしても慣れることが出来なかった。
そのうちに、気が付けば眠ってしまっていたのか。堅いテーブルに伏していたためか、腕や背中がとても痛かった。
「そうか……ごめん」
敷きっぱなしの布団の上で正座になった彼は、私の大まかな説明で全てを把握してくれた。預かってきた「お客様控え」の伝票を差し出すとかしこまって両手でそれを受け取る。どこまでも情けなく滑稽にすら見える仕草にも笑うことは出来なかった。
春先の気温の変化に不規則な仕事内容が重なり、自分でも気付かぬうちにひどく体調を崩していたのだという。それでもどうにか出勤しようと部屋を出たところで倒れ、ちょうど通りかかった大家さんの介添えでどうにか近所の診療所に行くことが出来た。もう少し処置が遅れれば肺炎になっていたかも知れないと告げられたそうだ。
「本当に情けないばかりだ、こんなところをよりによって見られてしまうなんて。……昨夜、薬を飲ませてくれたのも君だったんだね。お陰で今朝はこんなに元気になったよ」
力ない笑顔でそう告げた後、ふと思い出したようにこちらの出勤時間のことを訊ねてくる。今日はもともと休みだからと告げると、ホッと表情を和らげた。
「……あの。その、色々申し訳ございませんでした。こちらの方こそ、先日はひどく失礼なことをしてしまって。まずはそれをお詫び申し上げなくてはならなかったのに」
どこか遠く、それでいて親愛に満ちた笑顔に胸が強く締め付けられる。
どうせなら口汚く罵られてしまった方がどんなに気楽だったことか。この人の性格ではそんなことをするはずもないとは知りながら、心の隅で理不尽にも恨んでしまう自分がいた。
「――いいんだ」
だけど、彼は。私の言葉を受けて、なおも優しく微笑んだ。
「最初から、駄目だって分かっていたから。あんな風にきっぱりと断られて良かったよ、そうじゃないとまだずるずると想い続けてしまいそうだった。君にはむしろ感謝しているほどだよ、こちらのことなど気にしなくていいから」
「……え?」
思わず聞き返してしまった私に、彼はひとつ頷いてからゆっくりと話し始めた。
「俺は、ずっと前から君のことを知っていた。どこの誰なのか名前も歳も知らないままに、ただ君の笑顔だけを見つめ続けていたんだ。――こんな風に言ったら、気味悪がられてしまいそうだね。でも君は、何年も前から俺のすぐ近くにいたんだ」
恥ずかしそうに頭をかいた後、彼はふと振り返って窓の向こうを見た。すすけたガラスは外の風景など教えてくれないのに。そして、何かを捉えるように向こうを指さす。
「昨日通ったときはもう暗くて気付かなかったかな、ここに入る角のところに小さな写真館があるんだ。そこのショーウインドに君の写真が長く飾られている、他はお宮参りや七五三の晴れ着姿ばかりなのにその一枚だけが全く違うんだ。最初はそれがとても気になって、でも毎日通りかかっているうちにいつしか君の笑顔が脳裏に焼き付いて離れなくなっていた。
だから、……ある時花屋の店先で君を見つけたときは本当に驚いた。しばらくは夢心地で見かけても声をかけることすらはばかられたよ。君はずっと写真の中の人だったのに、あんな風にすぐに手に届くような場所に存在しているなんてどうしても信じられなかった」
――小さな商店街、老夫婦が経営する間口の狭い写真屋。
もう長いこと錆び付いていた私の遙かな記憶が、にわかにきしみだした。その話を私は知っている、大きく引き延ばして立派な額に入った一枚を得意げに掲げて見せたその笑顔すら昨日のことのように覚えている。
「夢……だったんだと思う。当たり前に繰り返す変わりばえのない生活の中で、君の存在だけが眩しく輝いていた。だから、もう十分なんだ。こんな風にしていては駄目だと自分でも分かっている。俺は君のことを幸せにする資格などないのだからね」
そこまで告げると、彼は少し腕を伸ばしていつからそこに投げ出されていたかも知れない古ぼけた手提げ鞄をたぐり寄せた。そして、そこから薄い札入れを取り出すと、私の前におもむろに五千円札を差し出す。
「最後にひとつだけお願いしていいかな。花束をひとつお願いしたいんだ、あまり大げさではない出来るだけ日持ちのする種類のものを選んで。そして、……それを今日君が訪ねる場所に飾って欲しい。決して恩着せがましいことを考えているわけではないんだ。ただ、ひとときの夢を与えるきっかけを作ってくれた人への感謝の気持ちだから。……これきりにするから、どうか受け取ってください」
突然の行動に呆気にとられている私を前に、彼はその額が畳に付くほど深々と頭を下げて見せた。
さざめく駅前の風景は、昨日とどこも変わらないように思われた。帰宅を急ぐ人の波。冬から春へ、次第に季節が移り変わることを人々の服装で確認する。
季節を先取りするように着込んだスプリングコートの女性、その肩先が凍えそうに強ばっているのを確認してから、私はゆっくりと歩き出した。
「……どうして」
彼が目の前に現れたのは、申し訳程度のひさしの前で雨を避けながら2時間ほど待ちぼうけをした後だった。さすがに住人のいない今日は部屋のドアが開かない。もしも何かの間違いで施錠を忘れていたとしても、誰もいない部屋に上がり込むのは出来ないと分かっていた。
「こんばんは」
今朝目覚めたときとぴったり同じ言葉を発した彼を、私は笑顔で迎えた。柔らかい春の雨がふたりの間に静かに降り注いでいる。ここに辿り着いてから降り出したそれは、しばらくの間に芽吹いたばかりの風景を白く煙らせていた。
「頂いたお金が多すぎて、かなり余ってしまったんです。だから、これを。……お気に召すといいのですが」
私たちの頭上にあるのは、ほの暗い常夜灯の光だけ。色とりどりの花束もこれでは正確な色味を確認することが出来ない。
「え……、そんな良かったのに。こちらこそかえって申し訳ありませんでした、じゃあ――」
すでに部屋の鍵を握りしめていた右手を、彼は私の方へと差し出してくる。しかし、彼の行動の意味を知りながら、私は花束ごと後ずさりした。
「このままお渡しすることは出来ません、ちゃんと活けないと花も長持ちしませんよ? そこまで、私の仕事にさせて頂けませんか」
たいして重みも感じない花を抱えている腕が小刻みに震えている。彼は戸惑いの表情のまま、黙って部屋の鍵を回した。
彼はすでに知っていた。あの人の月命日の日に、決まって仕事を休んで遠い墓地まで出掛けていく私を。遠い夏に置き去りにしたままの心を花束にして、たったひとりで新幹線と在来線を乗り継ぎさらにバスに揺られていく。花屋で受け取る月々の給料はアパート代とその旅費を払うとあとにいくらも残らなかった。
あれから3年、私の時計は止まったまま。何を区切りにすることもなく、静かに時が過ぎるのを待っている。いつかあの人と同じ場所に召されるその日まで、ひとりぼっちの旅が続くのだ。ずっとそう信じて疑わなかった。
「出来るだけ無駄な葉を落としてから、こんな風に丁寧に水揚げをしてあげるんです。ほら、少しは元気になった気がしませんか?」
花を活ける花器のようなものは何ひとつ見あたらなかった。そのことを昨夜のうちに知っていたから、据わりのいいシンプルな花瓶を持参した。
今の仕事に就いてまだ半年、素人仕事の抜けない自分だと思う。でも、花に対する愛情はきちんと持ち合わせていると自負している。彼らは言葉というものを持ち合わせてはいない。でも、短い命を必死に過ごそうとするその姿にたくさんのことを教えられた。
知らなかった、彼が毎日のように買い求める花たちが誰に顧みられることもなく悲しくその生涯を閉じていたなんて。水も張らないバケツに立てかけられたところで、切り口に巻き付けたペーパーはあっという間にひからびてしまう。それでも今までは寒い季節だから数日は楽しむことが出来ただろう。でもこれから暖かくなる季節に、その方法は通用しない。
それでも他のゴミと一緒に捨てられることすらなく部屋の隅にその姿をさらし続ける彼ら。その嘆きが私の心まで届くような気がした。何も彼は好きこのんでそういう行為に及んだわけではないのだろう。ただ、花の扱いを知らなかっただけ。だけどそうして過ごしてしまうことで、彼自身の心にも消えない影が落とされたはずだ。
「花は……きちんと心を込めて世話をしてあげなければすぐに枯れてしまうんです。たぶんそれは、人の心も同じなのですね。たったひとりで生きていけると思っても、それは……単なる強がりだったのかも知れません」
この部屋に来て、ようやく気付いた。心を凍えさせたまま、身体だけを持ちこたえさせていた自分の現実を。私は決してあの人を許してはいなかった、どうしてひとりきり残して勝手に逝ってしまったのかとそのことばかりを責め立てて。悲しくしおれたまま、無惨な姿を誰も彼もにさらし続けていた。
――このままで本当にいいのだろうか、こんな私をあの人は願ったのだろうか。
立ち止まったままの部屋を目の当たりにして、ようやく自分のことを客観的に眺めることが叶った。今までどんな慰めの言葉でも開くことのなかった心が、わずかばかりのほころびを見せている。それが怖くて……だけど有り難いと思った。
まだこの先、私の旅は続いていく。10年か20年か、……もしかすると50年。あの人に再び巡り会うまでに、どのくらいの道のりを歩き続けて行かなくてはならないのだろう。長いこと暗がりの中を手探りで進んできた。そして、……やっと自分の現在地を確認した今、とてつもなく深い孤独に初めて気付く。
私が花束を全て花瓶に挿し終わるまでの間、彼はただぼんやりと部屋の隅に座っていた。今朝までは敷かれていた布団も今はきちんと部屋の隅にたたまれている。あちこち散らばっていたものたちも、見苦しくない程度に片づけられていた。
「あ……、ごめん」
振り返った私の視線に気付いたのだろうか。彼は恥ずかしそうに俯いてしまった。
「お茶くらい出さないと格好が付かないね、……何だか頭が回らなくて。君がこの部屋にいるなんて、まだ信じられない。夢の続きを見ているような気分なんだ、身体を動かしたら目が覚めてしまう気がしてもったいなくて」
彼にとって「私」という存在は今までずっと偶像でしかなかった。ひとりぼっちで上京して心細い日々を続ける中、写真館の店先で見かけた一枚を来る日も来る日も眺めていた。そんな彼を見るに見かねたのか、それとも単に思い出話がしたかったのか。ある日、写真屋の老店主は彼を呼び止めて話し出した。もうこの世にはいない、ひとりの若者のことを。
私の記憶の中に、いつまでも鮮明に生き続けているあの人。ふたりで歩いた短いいくつかの季節を、この先もずっと忘れることはないと信じている。
「夢じゃないわ、だって……こうしてあなたも私も、ここにいるのだから」
どうやって伝えたらいいのだろう。心の奥から溢れてくる言葉たちをうまくまとめることが出来ない。立ち止まったままのふたつの心、ひとりきりでは決して癒されることのなかった傷。
今の私に、そして彼に。一番大切なものは何なのだろう……?
「これからも、時々こんな風に花を活けに来てもいいですか? もしも、……その、ご迷惑でなかったら」
ぎこちなく震える頬。気の遠くなるほどの長い沈黙の果てに、彼はようやく淡い微笑みを返してくれた。
茶筒も急須も、そしてティーバッグすらも。来客をもてなす何もかもがこの部屋には存在しなかった。
彼もまた、ずっとひとりきりで生きてきたのだ。早くに両親を亡くし、奨学金でどうにか高校を出た後は小さな妹を養うために必死で働いてきたのだと言う。最初は地元で就職したのだが、不況で勤めた会社が倒産した後に新しい職を求めて慣れない土地にやってきた。
必要なのは、生きていくための金だけ。下げたくもない頭を下げ、どんな言葉で罵られようとじっと耐えた。変わりばえのない決まり切った生活。伯母夫婦の元で暮らす妹に月々の仕送りをすることで、自分の存在価値を思い出す。都会の華やぎも軽やかな笑い声も無縁のものだと通り過ぎていた。
「……いいのかな、このままで」
ささやかな食卓を囲みながら、彼はぽつんとそう言った。数日おき、仕事帰りに少し足を伸ばして売れ残りの花を届ける。そんな生活が気付けば数ヶ月も続いていた。
簡単なものでも自炊すれば、外食よりもはるかに安く充実した品揃えになる。さらにふたり分を一緒に作った方がはるかに効率がいい。その辺りの価値観はふたりで一致して、顔を合わせるごとに互いの得意料理を披露するようになっていった。
その言葉を受けて、私は黙ったまま顔を上げた。
いつの間にかふたりともすっかり夏の装いに変わっている。汗っかきの彼が帰宅してから一風呂浴びて着替えたシャツは、この前に来たときに私が持ち帰ってアイロンがけして来たもの。特に頼まれたわけではなかったが、何となく自然に手に取っていた。
「花の代金のことなら気にしないでと言ったでしょう? ほとんどが売れ残りなのだし、それにこうして代わりに晩ご飯をご馳走になっているし。田端さんは気にしすぎなのよ」
いつものように軽くかわそうとしたが、今夜はどこか違っていた。私が箸を持ち直して食事を続けようとしても、向かい合う彼の手元は止まったまま。煮物の器をどうぞと差し出しても、反応すら示してくれない。
「違う、……そういうことじゃなくて」
言いにくそうに、何度も口ごもる。彼の中にある戸惑いの感情が、静かに私の心まで流れ込んできた。
「こういう風にしていてはいけないと思うんだ。君には……とても感謝してる。だけど、もうこれ以上は駄目だ。今日限りでやめにしてくれないか、頼むから」
椅子を少し引いて、彼はテーブルよりも低く頭を下げた。生乾きの髪はつい先日に床屋に行ったばかりでさっぱりしている。よく似合うと誉めたら、彼は恥ずかしそうに笑ったっけ。沈黙が続く中、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
「迷惑……だったの?」
確かに不安定な関係を続けていたとは思う。花瓶の花が枯れないうちにとかなりの頻度でこの部屋に訪れながら、夕食が終われば途中まで見送られながら自分のアパートに帰宅した。私にとってはそれだけで十分に満たされていたと思う。長い間ひとりきりでうずくまっていた生活が、彼との出逢いで変わっていく。
何気ない言葉を交わすだけで良かった。微笑みあったその瞬間に心に宿るぬくもりは、次に出会うそのときまで私を温め続けてくれる。それは彼も同じだと、そう信じていたのに。
思えばいつもこちらからの働きかけばかりだった。いきなり部屋を訪れたのも、花を活けたいと言ったのも。ふたり分の食事を作ると提案したのも私の方からだった。出会った頃から変わらずに、彼はいつも穏やかで感情を露わにしたり言葉を荒げたりすることはない。それでも黙って従ってくれるのだから、きちんと受け入れてもらえているのだと考えていた。
彼は私に好意を持ってくれている、だから大丈夫。そんな風にして、いつの間にか甘えすぎていたのだろうか。
花瓶だけじゃない、今手にしている茶碗も箸も「ないと勝手が悪いから」と新たに増えた品物だ。そんな風に次第に「私」の存在がこの部屋に染みついていくことを、心のどこかで疎ましく思っていたのだろうか。
「い、いや。そう言う意味じゃなくて、……その」
その瞬間、彼の瞳に映った私は一体どんな顔をしていたのだろう。全く知らない場所で迷子になってしまったような心細さで、次の言葉を吐き出すことが出来なかった。
「おっ、俺。そんなに物わかり良くないから、こういう風にしていると、その、やっぱり期待してしまうんだ。だから、そういうのって君にとってとても失礼なことだし、もうやめたほうがいいと思うんだ。これ以上は、辛いんだ、頼むから分かって欲しい。決して君のことが嫌だとか迷惑だとかそう言う意味じゃなくて……っ!」
次の瞬間、彼は椅子から勢いよく立ち上がると、テーブルの脇を進んで私の前までやってきた。そして椅子に座ったままの私の足下にうずくまる。いわゆる「土下座」という姿勢。床に置いた手が大きく震えていた。
――ああ、そうか。私はこの人も失うことになるのだ。
夏の宵、どこからか花火を楽しむ子供たちの歓声が聞こえてくる。自転車のベルの音、車のクラクション。私にとってとっくに当たり前になってしまっていたこの空間。だけど、やはりどこまでも不自然だったのだ。
ひとりぼっちの旅路が寂しくて、一緒に歩いてくれる人を求めた。そして今、差し出した手を振り払われてしまえばまたひとりに戻るしかない。
「君には誰よりも幸せになって欲しいと思う。だけど、俺では駄目だ。俺なんかじゃ、無理なんだ。君を……あの写真のような笑顔にすることは出来ない。会うたびに打ちのめされる、もう苦しくて仕方ないんだ。君を思う気持ちなら、誰にも負けないと思えるのに……」
呻く言葉通りに、彼は本当に辛そうだった。そうだ、最初から始まるはずのなかったふたり。彼は自らの想いを振り切るために、私に声をかけてきたのだ。だったらもう、ここで解放してあげなくてはならない。私といることで、彼に新たなる苦しみを与えてしまうのは嫌だ。
今更どうしようもない、私の中にある想いを彼は全て知っているのだから。……でも。
「仕方ないわ、だって……田端さんはあの人じゃないもの、あの人に向けたのと同じ表情が出来るはずない。私はもうあの頃とは違うわ、心には大きな傷があってそれは一生癒えることがないと思う。だけど……どうして? どんなに思ったって、あの人はもう戻ってこないのよ。それなのに私は……またあなたを失わなくてはならないの? ひとりに戻らなくてはいけないの……?」
自分でもつじつまの合わないことを言っているのは分かっていた。
でも仕方ないのだ。私にとって、あの人は永遠の存在。いつまでもこの心に消えることなくずっと輝き続けている。あの人以上に誰かを愛することなんて出来ない。それだけは絶対に無理だ。誰を誤魔化すことは出来ても、自分自身を偽ることは出来ない。
こんな風に中途半端な関係を続けることで彼を傷つけてしまうのだとしたら、もう諦めなくてはならないのだろう。心が引きちぎれるほどに悲しいのに、涙も出てこない。もしも大声で泣き出せば、彼は慌てて慰めてくれるだろうか。
ふと視線を食卓に戻せば、まだ半分も食べ終わっていないふたり分の夕食が並んでいる。こんなに皿数が多かったら食べきれないかも知れないと思うのだが、いつも決まって作りすぎてしまう。温かい湯気の向こうにはいつも彼の笑顔があって、その時間が永遠に続くならいいと思った。
音を立てないように静かに席を立つ。彼はそれでも動く気配もなかった。
同じように自分も床に膝をつけば、テーブルと椅子に挟まれたそこは想像以上に薄暗い。そっと腕を伸ばして目の前の肩に触れてみる。ぴくりと鈍く反応して、彼はゆっくりと顔を上げた。
「もう、ひとりは嫌なの。……でも、やっぱり怖くて」
許されることではないと思う、私はとんでもない間違いをしでかそうとしているのではないだろうか。
「睦美……」
とっくに知っていた私の名を、彼が初めて呼ぶ。その温かい声に導かれるように中途半端に広げられた腕の中に飛び込んでいた。初めてのぬくもり、あの人とは確かに違う匂い。でも……この人は生きている。そう私と同じ今、静かに時を刻んでいる。それがたまらなく嬉しかった。
「お願い、……何も聞かないで」
わずかな沈黙の後、彼は私を初めて知る激しさで強く抱きしめてくれた。
夏の夜は短い。でも、私たちにとってはどこまでも長く長く続く永遠のトンネルのように思えた。
じっとしているだけで汗ばむほどの熱帯夜に、凍えきっていた私の心。彼はゆっくりと時間をかけて閉ざされた扉のひとつひとつを開いていった。
「……あ……」
初めて受け止める痛みではないのに、私の身体はその瞬間に大きく震えた。彼の動きもそこで止まる。荒い呼吸のままで瞼を開けば、心配そうにこちらをのぞき込む彼がいた。肩に浮かんだ玉の汗、しっかりと身体を重ね合わせれば共鳴するふたつの鼓動。
「……ごめんなさい」
どうして謝るのかと、不思議そうな瞳が揺れる。こんな風に愛される私ではないのに、彼はどこまでも誠実で優しかった。それが嬉しくて、そして悲しい。
「ずっとそばにいたい、その願いが果たされるならもう何も望まない。俺は君の二番目でいい、その代わりこうして一番近くにいられるのなら」
人の心とは、なんて深いのだろう、そして広いのだろう。悲しみも辛さも、行き場のない憤りも全て飲み込んで、また未来へと歩き出すことが出来る。この命が続く限り、私はきっとこの人と手を取り合って歩いていくのだ。
ゆっくりと私の上で動き出す彼。身体の奥から生まれる激しさに静かに身を委ねた。一枚しかない布団からは彼の強い香りがして、その全てに包まれていくような気がする。ひととき、溺れてしまってもいいのだろうか。許されるのならば、この瞬間だけ全てを忘れて。
見送りは、大通りの信号まで。
並んで歩いていた彼の足が止まるその瞬間が怖かった。もう離れていたくない、こんな風に違う空間に送り返される日々をお終いにしたい。どんなに心が願っても、口に出来ないまま過ごしていた。
変わってしまう自分が怖い。でもそこから生まれる痛みまで全て受け止めてくれる人がいてくれるなら、どうにか乗り越えられそうな気がする。これは、罰。私をひとり残して逝ってしまったあの人へのささやかな抵抗。全てを知って、それでも微笑んでくれる彼の存在が胸に痛い。
冴え冴えと夏の夜空を染める月。そこからこぼれたひとしずくが、私の心に新しい痕を付けた。
了(060428)
あとがきはこちら(別窓) >>